9回目─1
そうだ。俺の名前は繰水薫だ。
忘れて、たのか?
「繰水、薫。繰水……?」
口に出してみても、何か違和感が残る。自分の名前だと脳みそでは理解している筈なのに、誰か知らない人間の名前を呼んでいるような感覚がする。けれど、忘れてしまうそうな程儚い「名前」を、「記憶」が支える。
俺の旅路が。
繰水薫として生きてきた道筋が。
不知火遥の隣に残った、二つの脚で刻み込んだその轍が。
俺を俺で居させてくれる。
「っ!?」
遥さんが驚愕する。それは、俺も同じだった。
バキン、と一つ音が鳴った。何かに亀裂が入るような、致命的な音だった。それを皮切りに、崩壊は始まった。試験官が一気に割れ、破片が棚の中に飛び散っていく。それはまるで自分に何が起きたのか今理解したような現象で、時が、前に進み始めた証拠だった。
そして、外の風景が
歪んだ。
「な、何が起きてる!?」
夕暮れの中に星空が浮かぶような、宵闇の中に夕焼けがあるような、幻想的で、美しくて、それでいて何処か恐ろしい。そんな風景を見て、遥さんが驚愕する。
一目見ただけでわかる。これは、化学じゃない。科学でもない。だから、彼女にはわからない。なら、どうすればいいのかなんて決まってる。博士の得意分野じゃない場所には、俺が手を伸ばす。
「遥さん……いいや、遥ちゃん」
「っ!?」
驚愕によって茫然自失の状態から戻り始めていた彼女の意識を、もう一度衝撃で無理矢理たたき起こす。
「思い、出したのか?」
「漸くですけどね」
本当に、ようやくだ。
旧友を探し続けて、ようやく見つけた相手は自分の事を忘れていた。それがどれだけ辛い事なのか、俺には想像もできない。孤独を味わい続けていた彼女の傷をいやすことは、きっとできないのだろう。
ならせめて、俺に出来る事をする。
「この事象は多分、俺が思い出したことによって起きたんです」
「私とのことを、か?」
「多分、違います」
それによって思い出したと言ってもいい。だが、恐らく本質は違う。
「俺は、俺の名前を忘れてました」
「……それはまた……」
「でもこれで、全部の辻褄があったんです」
「説明、してくれるか?」
「勿論」
彼女に倣って、ホワイトボードにペン先を立てる。
遥さんから習ったことは、ちゃんとここに生きてる。大丈夫だ、考えろ。俺が四回目のループで行ったことを整理だとするのなら。これは、回答だ。
『項目1:「 」とは?』
「これが、俺が俺の名前を思い出したことでたどり着いた答えなんです」
先輩の遺書に度々登場し、それでいて答えが現れなかった「 」。その答えはきっと……
「後輩君、少しいいか?」
「はい」
「これに関しては、私も推測を立てている。それが同じか、確認しておきたい。研究者としてね」
迫りくる未知に対してなのか、はたまた俺が彼女の事を思い出したことによるものなのか、彼女は再起した。その瞳の奥には吸い込まれそうなほどの魅力と、滾る熱意が灯っている。
「私の「 」への回答。それは、君だ」
「……同じ、ですね」
そう。俺の答えは「繰水薫」、俺自身だ。
「君の論理を聞かせてくれ。もっとも、私が失って自死を選ぶものなんて君しかないだろうが」
「っ……口説きは、一旦後にしてもらえますか?」
「ん、真面目だったんだがね」
駄目だ。
意味不明なものであった彼女の俺への好意が、十何年来の関係に重なって理解できるものへと変化してしまった。誤魔化誤魔化せ誤魔化せ!ここから出られたら、ちゃんと自分と向き合うから!
「一つ、先輩の故郷と高校に共通するものとして、俺は当てはまります。恐らく、白いワンピースを着るのも、故郷に繋がりのある俺がいるからなんじゃないかと」
「そうだね。どちらにも深く君の存在はある」
「二つ……俺が言うのもなんですけど、さっき先輩が言った通りです」
「私という存在には君が大きく関わっている。それも、理解できる」
「三つ。これが、一番の推測です」
一番穴のある、という意味で。
ひとつだけ息を吐き出す。推測を、組み立てろ。
「『君らが考えてたどり着けるものなのかはわからない。実際のところ、世界はもうそれを忘れた。普通の人間は気づかない、私じゃなきゃ、知り得る事すらできなかった』」
「私の遺書に書いてあった文章だね。それが何か?」
「世界はもうそれを忘れた。俺はこれを、比喩表現だと思ったんです」
世界が物事を忘れるなんてことは、通常あり得ない。だから、それは死、もしくはそれに準ずるものを表しているんだと思っていた。
「でも、これがストレートな意味なんだとしたら、理解できるんです。俺が、俺の名前を忘れた理由が」
世界から、「繰水薫」が消え去った。
その存在が、その名前が。
「おかしいと思ってたんです。先輩は、科学者なんだから」
「どういうことだい?」
「先輩が、答えを濁すわけがない」
俺がそう言うと、遥さんはぽかんとして。
そして、爆笑した。
「はは、はははは!!成程!成程ね!研究者が、繋いで結論にたどり着くものが、「 」なんて回りくどいことをするわけもないか!」
科学、というのは。
一人で成り立つものじゃない。先輩が俺がいるから研究ができるといったように、足りないところを補って、わからないところを、誰かの知で補って、ようやく、結論に至れるものなんだ。
不知火遥はそれを知っている。
彼女は天才であるが、それでいて優れた科学者であり本の虫だ。他者から学ぶこと、その意義を、誰より理解している。
「だから、俺はこう考えます。遥さんは隠したんじゃない。書けなかったんだって」
俺が、「繰水薫」という存在が消失したことによって、それを文章で記すことが不可能になった。その影響を受け、未来にタイムスリップした俺も、俺を思い出せなくなったと。
「だが、それだと私が君を思い出せた理由がわからなくなる」
「それは、先輩が不知火遥だったから……なんだと、思います」
俺が無くなったとしても、彼女は不知火遥で在り続けた。
彼女は「俺」を失った。そして、この遺書を書いたのはその一年後だ。その間、彼女は覚え続けたんだ。俺の存在を。バタフライエフェクト、その反転とでも言うべきなのだろうか。
過去が無くなったとして。
今がある以上、そこに矛盾が生まれる。彼女の存在と絡み合っていたらしい「俺」は、そう簡単には消えなかった。だから彼女はこう書いたんだ。
『私もこうなるとは思っていなかったけれどもね。
私の存在は、私が思っている以上に「 」に絡んでいたらしい』
これは、自分が死にゆくことへの驚愕じゃない。
世界が書き換わる程の異常に対抗した、自分への驚愕だった。
「俺が繰水薫じゃなくても、先輩の隣にいたから」
「私が科学者である以上、助手がいなければここにはない、か」
ぽん、と手を打って、彼女は頷く。
「良い考えだ。私からは出ないだろう」
「有難う御座います」
「君のおかげで、あの遺書の謎は全て解明できた」
何故部室を選んだのか。
何故研究を止めたのか。
何故、不知火遥は死にゆくのか。
その全てが、一直線上に配置された。
「つまり、ここからが本番だ」
「……そう、ですね」
並べられた謎は、解かれてしまった。
もう餌を待って口を開いているようじゃ答えには辿り着かない。未知を整理し、並べて、答えへたどり着く。暗闇を、何も持たずに進むようなその不可能は、奇しくも……
不知火遥の、得意分野である。
「さぁ、楽しい楽しい科学と洒落込もうか……!」
獰猛な笑みを浮かべて。
最後の科学へと、時計の針は進んでいく。15分経った時は、戻る様子も無かった。それは、俺達が進んだことを示しているかのようで。
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