繰り返せないあの日
何か月前の話だったっけ。
思い出せないだろうし、まぁ別にどうだっていいな。でも、確かだったのは。
あの日も、夕日がきれいだったことぐらいか。
◇
そこは、教室だった。俺が見知っている場所で、でもその景色の中には、俺がいた。自分を、俯瞰で見ているような景色。思い出を振り返る時、俺はこんな風に錯覚することがある。
入学式を、日々を、無為に過ごした。
「──薫です。特技は……」
普通の日々を過ごしていたんだと思う。小学生と中学生を振り返っても、思い出は一つもない。忘れているとか、そういうのもあったのだろうし、楽しい記憶もあった。でも、何か抜け落ちていた。
人間として大事な部分。俺を形成するうえで重要な、たった一つの何か。それを忘れてしまったかのような違和感を抱えたまま、日々を過ごしていた。いつの間にか、何も知らないふりをして笑うのが得意になっていた。
「じゃあな、薫!」
「うん、じゃあね」
なれなれしく名前を呼んでくる同級生に、手を振り返した。悪い奴じゃないだろうし、話した感じは良い奴だ。じゃあ、何でこんなにも浮かれないんだろうか。
何か違う。
これじゃない。誰かと話す度にそう思う。俺が話したかったのは、一緒に居たかったのは、もっとずっと……。そう考えて、やめる。だって、答えが無いんだから。途中式だけが取り残されて、イコールの向こうに空白が残っている。
帰り道、夕日が向こうで燃えていた。
夕方が嫌いだった。空の向こうで燃え上がる、その鮮やかな球体が視界の中に入る度震えあがるような恐怖を感じる。それが山の向こうへ沈んでいくほど、しみこむような孤独を感じる。脳みその奥で、本能が嘯く感覚を覚える。何故なのか、俺はわからなかった。もしかして……
「いや」
頭を振り、思い浮かんだ思考を掻き消す。
「帰るか」
近所なんだから、知っている筈のそのアスファルトは、いつもよりも冷たく感じた。俺も、期待していたのだろうか。中学校までの枯れたような日々を、古ぼけた青写真のような青春を、取り戻す何かが、
一歩、踏み出して。何もない日常に戻り始めようとした……
そんな時だった。小さな足音が背後から響いたのは。
「やっと見つけた」
「え?」
振り向いた先、夕日の反対側に、何よりも眩しい何かが立っていた。
高校生らしくないスタイルに、はっきりとした話口調。制服を着ている俺と同系統の服を着ていることから同じ高校の生徒なのだろうが、何故かその上から白衣を着ている。でも、それが何かのファッションなのかと思えるほど、彼女は美しかった。
「君、私を知っているか?」
「いや、知らない、です」
知っている筈がない。
こんな綺麗な人を見たなら、そう簡単に忘れることはないだろう。
「そうか……じゃあ、不知火遥、この名前に聞き覚えは?」
「無いです」
そう答えた瞬間。
見間違えでもおかしくない程ほんの一瞬、彼女の表情が曇ったのが分かった。いや、きっとこの時の俺は気づいていない。記憶の中でようやく知れた表情だった。
「忘却、いいや、記憶の封印か?そう簡単に……」
なんだこの人、と困惑したことは、記憶に新しい。
でも、それと同時に何か予感が渦巻いていた。何もない日常が、枯れた筈の日々という花が、もう一度蘇るのではないかという、そんな予感が。
「まぁ、良いか。それじゃあ初めましてだ、後輩君」
白衣でパンパンと右手を払った後、彼女はその手を前に突き出す。
「……」
「ん?何故止まっているんだ?」
「え」
「握手、しないのか?」
さぞ疑問、と言った様子で首を傾げる彼女に、こちらがおかしいのかという感じがしてくる。日本において、初対面での握手というのはあまり一般的では無かったはずだ。
この時から、ずっとそうだった。遥さんと一緒にいると常識がどんどん溶けて行って、それでいて、酷く心地いい。
彼女の手を握る。
陶器のように滑らかで、つららのようにほっそりとした指が、俺の手を握り返す。俺の手を包み込んだ暖かい感触は僅かに理性を溶かし、それと同時に、懐かしさを感じた。何故かはわからなかったが。
「ということで、挨拶は済んだ。本題と行こうか」
「本題?」
「後輩君、君に私の部活に入ってもらいたい」
これが、俺と先輩の出会いだった。
真っすぐ夕日に繋がるアスファルトは包み込むような熱を感じて、遠くで光る夕焼けが、薄く微笑んでいる。
◆
また、景色が変わる。
部室の中で、尖った雰囲気を纏った遥さんが座っている。その対面では、俺が困ったと言わんばかりに座っていた。持て余しているというか、どうしたらいいのかわからないといった感じでもあった。いつもならパシリだのなんだのを頼んでくるというのに、苛ついた彼女は何も言わない。
毒を吐き出すように僅かに肩を揺らす。それだけなのだ。それが、逆に恐ろしかった。
確か、これは彼女と出会って数か月経った頃の記憶だ。そこまで思い出に執着しない俺、そして遥さんでも、頑なに触れようとしない、「胸糞悪い記憶」でもある。
居心地の悪い静寂を突き破ったのは先輩のスマホに鳴り響いた着信音だ。
「あぁ、くそっ……すまない。後輩君。少し待っててくれ」
「は、はい」
廊下に出る訳にも行かず、彼女は部室の中で電話を取る。その相手は、彼女の親であったらしい。もっとも、この時の俺は知りえないことだが。
「あぁ、私だ。……何度でもいうが、断る」
冷めきった口調で、遥さんは返答する。
彼女曰く、彼女の両親は「悪い人間ではない」らしい。ちゃんとした教育を受けさせ、ある程度の環境を用意してくれた。だから、感謝もしているし、返していきたいとも思っていると語った。その一方で、「才能に魅入られてしまった」とも彼女は言った。
「学校側が私の功績を還元するための場所だ。理由が通っていないだろう」
才能に執着がない遥さん。
才能に魅入られてしまった両親。
その違いは、稀に取り返しがつかない程の食い違いを生んでしまう。今回は「科学研究部から退部しろ」という要求が両親から来たことが、そのすれ違いを生んだ。
「っ、論理的に話してくれないか。意味が解らないぞ」
他人との交流によって才能が陰る、集合知より個人の才。彼女に言わせれば合理的ではない考え方をするらしい両親に対して、彼女は吠える。
「彼は関係ないだろう。実験に、助手は必要だと思うが?」
俺に矛先が向いたのが分かった。
そもそも、俺がこの部活に入部したのが発端だということは知っていた。だからこそ、辛かった。彼女が俺の所為でこんな羽目になっているということが。
「……くすぶっていた?笑わせるなよ。私の幼少期を、否定するつもりか?」
「……」
そこからは、あまり覚えていない。仮に、今の俺がこの時間に戻れたとするのならどんな言葉をかけるのか。そう考えたことが無いと言えば嘘になるが、結局、何も言えないんだと思う。
俺は、彼女を理解しようとしていなかったのだから。
思い出そうと、しなかったのだから。
風景が変化する。
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