2回目
「ふぅむ、やはりだったね」
「そう、ですね」
いつの間にか椅子に座った状態で、瞼が開かれた。
先ほど見た景色が網膜に焼き付いて離れない。対面に座る遥さんが、不確定なものに見えて仕方がない。けれど、表情には出さないように、一つ吐き出した息と共に昏い感情を押し殺した。
忘れることにしよう。そうしておかないと、喉まで突っかかった嗚咽が漏れ出てしまいそうだ。忘れたと、思い込もう。
「君が配置した物体はものの見事に消失、私が割った試験管も再生済みのようだ。これで、仮説は否定しがたいものになった」
「事実、ってことで良いんですかね」
「そう考えることとしよう。時間は無限かもしれないが、事象が無尽蔵とは限らない」
「……?」
「あぁ、何が起きるかわからないということだ。いつまでも一つの事象に頭を抱えられないと言いたかった」
「なるほど」
時々、先輩の言葉が理解できないことがある。
俺の理解力が乏しいのが悪いのだが、そのたびに先輩は申し訳なさそうに目を伏せる。それが、辛かった。俺の所為で彼女が思い詰めているんだと思うと、心が潰れているように錯覚した。
(駄目だな……)
浮かんでいたネガティブな思考を払いのける。
忘れようとしていても、さっき見た景色のショックはそう簡単に消えるものではない。あふれ出る言葉の数々は、そのほとんどが後悔と無念に塗れている。こんな調子では、隠し通すなんてできはしない。
感情を消せ、忘れたふりをして笑え。
「と考えられ……聞いているのかい?後輩君」
「あ、ごめんなさい。何も聞いてなかったです」
「君にしては珍しい……無理も無いか。急に陥るには、超常的で非日常だ」
慮るような目つきでこちらを眺める彼女の目を直視できずに、少し眼を逸らした。
「でも、先輩はいつも通りですよね」
「こう見えても混乱してるさ。だが、得難い経験になるという確信がある。それに」
「それに?」
「君が居る」
「へ?」
遥さんらしくない歯の浮くようなセリフに、思わず間の抜けた声が飛び出る。
え?急に、え??
「力仕事も、体力が必要な事項も私じゃ無理だ。未知に挑む時、それらの事象は存外にも重要になる」
「あぁなんだ、そういう」
よかったような、残念なような混沌とした感情が脳を走り抜ける。
遥さんにそういう、青春的な感情を期待したのが間違いだった。俺は助手で、彼女は途轍もない才能を持った博士。その関係は、変わることが無いのだから。
「ま、他の理由もあるが……」
「なんかいいました?」
「いいや。それは良いとして、次の考察に移ろうか」
ぱん、と一つ手を叩き、先輩は立ち上がる。
ホワイトボードの前へと移動し、マーカーを手に取って文章を書き連ねた。
「『タイムリープなのか、タイムトラベルなのか』?」
「そうだ、これが今回、調べたいことになる」
「それって何が違うんですか?」
俺の知識で言えば、どちらも同じような用法だという認識だった。
タイムリープは時間軸的に後ろ、タイムトラベルはどちらもというぐらいのニュアンスの差でしかないと思っていた。
「まぁ、使う人間によって意味は異なるがね。今回は、こう解釈することとしようか」
いつの間にか書かれていた説明書きが眼に入った。
『タイムリープ:精神の遡行』
『タイムトラベル:精神・肉体の遡行』
「他時間軸への移動なんてパターンも考えられるらしいが、重要なのはそこではないだろう?」
「肉体が移動してるかどうか、ですよね」
「その通り、満点を上げよう」
時間が戻るなら何も関係ない、と考える人もいるかもしれないが、それは断じて違うだろう。俺と先輩の肉体が時間を越えて転移している場合、「基準」が存在する可能性が現れる。
生物なのか、何なのか。それは時間が巻き戻った後にも物品をそのままの状態で持ち越したり、果てにはこの状況の解決に至る手掛かりになる可能性だってある。
「方法は思いついている、ということで早速だが助手君」
「はい、覚悟はできてます」
肉体が巻き戻っているのか、その確認のためには、方法は限られている。
その中でも一番手っ取り早いのが打撃痕や切り傷などのなどの外傷になるだろう。一目でわかるし、工夫も必要ない。先輩が近づいてきていることからも、そういう事なのだろう。
「あぁ、少し耐えてくれよ」
椅子を先輩の方に向け、思わず目を閉じた。
静かな足音は俺の眼の前で止まり、そして僅かに布の擦れる音がする。首に恐らく腕で在ろう暖かい感触が巻き付いて、それで……ちゅ、と可愛らしい音が鳴った。
「……は?」
咄嗟に瞼を開くと、そこには頭頂部がある。
漆を塗ったような艶のある黒髪が首筋を擽るように纏わりつき、先輩の陶器のような繊細な腕が腹のあたりに添えられていた。首筋に、吸いつかれるような感覚がへばりついている。
ブツ切れの視界情報が、触覚からの伝達が、たどり着きたくなかった結論へと至らせる。
「んっ、これで、いいだろう。しっかり痕はついたようだしね」
跳ねるように距離を離し、先輩は俺の首筋辺りに視線を動かす。
つられてみてみれば、確かに先輩の唇の形に近い、朱い痕が残っていた。
「……何でキスマ付けたんですか?」
「何故って、君が言ったんだろう?覚悟はできてるって」
「いやそれは殴られたり切られたり外傷を受ける覚悟があったってことで」
「吸引性皮下出血」
俺の胸のあたりに人差し指を突きつけながら、先輩は聞きなれない言葉をつらつらと並べていく。
「キスマークの正式名称だ。立派な傷に認定されているよ?」
「そうかも、しれないですけど!それを選ぶ理由にはなってないですよ!」
「助手に痛みを強制する博士がどこに居るのさ。他の傷害に比べ出来るだけ痛みの少ないものを選んだ、それだけの事だが?」
「んぐっ、でも」
「認めることだよ後輩君、私は合理的な選択をした。だろう?」
もごもごと俺の口が動くが、反論の言葉は思いつかなかった。
揶揄うように微笑んで、先輩はくるりと方向転換する。向かっている方向は、窓の向こうだった。
「やっぱり君は反応が良いね。加虐心が満たされていくのを感じるよ」
「性格悪いですよね、先輩」
「研究者にそれは誉め言葉だよ」
そんなことはないだろ、と言いたくなったが、言う必要も無かったのでやめた。
椅子の向きを直し、先輩から顔を逸らす。
「冗談はほどほどにして。三回目もそろそろらしいね」
「冗談で済んでないですけど……」
時計に視線をずらせば、確かにもう少しで十五分が過ぎる。何かをするには、この時間設定は中々厳しいところがあった。十五分では、立説も検証も十分にはできない。
「そこで、一つ質問なんだが」
「ん、どうしました?」
「君は何故、私に外を見させない?」
「……!?」
一瞬、理解ができなかった。
世間話でもするかのように、さぞ当たり前かのような口調で彼女は俺の一番隠したかった事実を打ち抜いた。たった一回、彼女の意識を外に逸らせただけだというのに。
「確かに、違和感は無かったよ。割れる硝子の変遷を見る、それ自体は理にかなっていたのは認めよう」
淡々と、押し付けるように遥さんは論理を展開していく。
「問題はその後だ。不自然な会話の硬直、低下した文脈への理解度、そして、近距離まで近づいてわかった呼吸の乱れ。ただの興奮にしては、余りにも呼吸が浅かった」
首に、手を伸ばす。
キスマークを付けるという工程をしながらも、俺の嘘を見抜く一手まで仕掛けていた。わかりきっていたことのはずなのに、一層彼女を欺ける気がしなくなった。
「君の行動が不自然になるまでに起こった出来事と言えば時間跳躍だが……それだけじゃない。戻る瞬間の外の景色を見ていたのは、君だけだ。そうだろう?」
「……」
「責めたいわけじゃない、だが教えてくれ。君は……」
彼女らしくないミスだと思った。
遥さんが俺を見ている、その間に。遥さんは、飛び降りていたのだから。
それと同時に、もう一度強く思い直した。彼女にこのことを伝えるのは、仕方ない。でもこの現場だけは、絶対に見せたくない。これは身勝手で、我儘な──俺のエゴだ。
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