第7話・堕天使
この国の最高権力者となったのに、イオバは思い通りにいかなくて苛ついていた。邪魔な旧臣にいらぬ王妃。彼らによって常に誰かの存在を感じ、その者と見比べられているような気がしてならないのと、漠然とした不安がついて回る。
大伯父は王宮で影響力が強かった。その後釜に納まった自分はその影響を払拭しきれないでいる。深く底の知れない悩みに捕らわれていたのを、不意に両目を塞がれた。
「だ~れだ?」
「ロージだろう?」
「当たり。どうして分かったの?」
「こんなことする幼稚なやつは、余の側にはきみしかいない」
両目を塞いだ白魚のような手を外すと、銀髪にオリーヴ色の瞳を持つ、愛らしい顔が覗き込んできた。あのお飾り王妃と同世代に思われる彼女は、半年前からイオバと共に暮らしている。実際の年齢は分からない。彼女にはここに来る前の記憶がないので知りようが無いのだ。
「お腹空いた~」
「ああ。済まない。もうそんな時間か」
成人女性にしては幼く思える物言いも、不躾な態度も彼女だから許されること。イオバはこの彼女にだいぶ気を許していた。
まだ日中だと思っていたのに、いつの間にか日が落ちていたようだ。執務室の燭台に火が点されている。
「これはロージ。きみが?」
「ううん。侍従の人が中に入って来て付けてくれたのよ」
「そうか。すぐに食事を用意させる」
イオバは彼女の手を引いて、自分の膝に乗せた。ロージは小柄で、ほっそりとした体付きのせいか羽のように軽い。その彼女を背後から抱きしめて、いつものように問いかける。
「何か思い出せそうか?」
「ううん。分からない」
半年前、ロージは王宮の庭で倒れていた。それを発見したのはイオバだ。肩に矢を受けた彼女は顔面蒼白で気を失っていた。その彼女には大きな真っ白な羽があった。
人外の者が倒れている。それを目撃した彼には衝撃的な光景だった。
身を縮めるようにして地に倒れていた彼女は、可憐で人形のように美しかった。銀髪の彼女は教会の天井画に描かれている、天使のようで目が離せなくなった。
この国では、天使は神の使いと言われている。天使をこのままにはしておけないと、彼女を抱えて慌てて医師の元へ運んだ時には、不思議なことに羽が消えていた。
幸い急所を外れていた事で命は助かったが、意識を取り戻したときには、彼女は自分の名前の「ロージ」以外は、何も思い出せなかった。
「羽を見せてくれるかい?」
「いいよ」
イオバの膝から降りると、ロージが両手を広げて見せた。腕が羽へと変化し、真珠色した両羽が広がった。
「ああ。なんて美しい。触れてもいいかい?」
「イオはあたしの羽が好きね」
彼女と交流していく内に、彼女の羽は、本人の意思により出したり隠したり出来ることを知った。ロージは呆れたように言いながら、イオバが羽に頬を寄せるのを満更でも無い様子で見ていた。
「きみが側にいてくれるだけで私は幸せだ。この鬱屈した思いが晴れていくような気がする。癒やされるよ」
「王さまは色々と気苦労が多そうね。あなたの心労を増やす、お飾りの王妃様がお亡くなりになったって聞いたけど?」
「ああ。清々したよ」
「そう言うわりにはお疲れのようよ。こんな時、キミラさまがいればね。あたしではキミラさまの代わりになれるか分からないけど……」
「何を言う。あんな女よりもきみの方が数倍癒やされるよ」
「キミラさまが亡くなってイオは寂しいのね」
抱きしめてくるイオバの背を、ロージは羽で包み込む。その柔らかな温もりに、イオバは心の内を吐露していた。
「あの女に私は騙された。あの女は浮気していたんだ」
「嘘でしょう? イオが可哀相」
「馬鹿だったよ。それなのにあの女は悪びれることもなく、私がどうかしているなどと言い出した。私がおかしいと。それはきみのせいだと言い出した」
「あたし? あたし、彼女に何かした?」
「いいや、きみは何もしていない。私がきみに惹かれただけだ。それをキミラは察したようだった」
「イオ。それって……」
「ああ。私は初めてきみと会った時から、きみに惹かれている。こんなにも誰かを求める気持ちなんて初めてだ」
「本当? 嬉しい。あたしもイオが大好き。でも片思いだと思っていたの。イオにはキミラさまがいたしね」
「もうあいつのことなど何とも思ってない」
「本当?」
「ああ。余はきみに夢中だ」
「嬉しい。でもあたし──」
お互いの想いが通じ合って、嬉しそうに笑ったロージが急に黙り込む。
「どうした?」
「今のあたしは記憶が無いのよ。どこの誰か分からない状態でイオを好きでいていいの? イオはこの国の王さまなのに、キミラさまが言っていた通り、どこの馬の骨か分からないような女が、あなたの側にいてもいいの?」
「あいつは余計なことを……!」
キミラが生前、ロージに嫉妬していたのは知っていた。彼女への想いは、キミラに対して後ろめたい気持ちもあって押し殺していた。ところがキミラは他の男と懇ろな関係となっていたのだ。側妃の裏切りに彼女を思う気持ちはすっかり冷めていた。そればかりか憎らしく思うようになっていた。
「あいつの言っていたことなど気にしなくて良い。私はもう間違えない。きみがどこの誰であっても、私はきみを愛する。きっときみは天が私に与えてくれた運命の女性に違いない」
「イオ」
「そうだろう? ロージ?」
イオバは立ち上がって、瞳を潤ませるロージを抱きしめた。彼女が泣くといけないことをしたような気がして、どうして良いのか分からなくなる。
「泣くな。ロージ」
「だって嬉しいから」
涙にくれる彼女にイオバは顔を近づけた。軽く触れあうだけのキス。それなのに興奮を覚えた。相手がロージだからだろう。今まで見目麗しい女性達と出会い、何度か体を重ねてきた経験もあるのに、こんなにも心惹かれる相手は初めてだった。
トンッ、トンッ。突然のノック音にロージはイオバから離れた。イオバは「誰だ?」と、不機嫌な様子も露わに問いかける。
「失礼致します。お食事をお持ちしました」
「グイリオだわ。そう言えばさっき、お腹が空いたから彼に頼んだの」
相手の声を聞き、ロージは喜びを露わにした。グイリオはイオバの乳兄弟だ。祖父母や両親を病で亡くし、前陛下であり唯一の肉親であった大伯父を失った後は、彼がイオバにとって尤も近しい存在となっていた。
食事を乗せたワゴンが、灰色の髪に飴色の瞳を持つ男の手によって運ばれてきた。
「お。今日は煮込み料理か」
美味しそうな匂いに、頬を緩ませたイオバだったが、赤い色を見てあることを思い出したのだろう。見る間に顔色が悪くなっていく。
「大丈夫ですよ。陛下。この料理は問題ありません。先ほど私が毒味を済ませました」
「……本当に大丈夫なのか?」
「どうしたの? イオバ。美味しそうじゃない。何か問題あるの? あたしの大好きなビーツを牛肉やジャガイモと煮た物ね。嬉しい」
ロージは胸の前で両手を合せる。テーブルの上に置かれたお皿の中身を見て、味見とばかりに行儀悪くもスプーンですくってみせた。
「もう我慢出来ないわ。食べてもいい?」
「待て。ロージ」
イオバの制止も聞かずに、彼女はスプーンを頬張り、頬を緩ませた。
「美味し~い。イオバもどうぞ」
彼女から目の前に中身をすくったスプーンを差し出されては、イオバも食べるしかない。ごくりと喉を鳴らして恐る恐る口づける。
「どう? 美味しいでしょう? この牛肉がほろほろしていて、口の中で溶ける感じが良いわよねぇ」
「あ、ああ……」
イオバは表情も硬く頷いてみせた。
「抵抗があるなら下げましょうか?」
「いや、いい。大丈夫だ」
「ご無理はなさらない方が……」
イオバの尋常では無い様子に、グイリオは運んできた料理を下げようとしたが、ロージは彼らのやり取りなど気にしないようで明るく言った。
「なあに、イオ。好き嫌いは駄目よ。これとっても美味しいのに。あたしが食べさせてあげる」
「ああ。うん。グイリオ、下がっていいぞ」
「は。はい」
グイリオは気乗りしない様子で退出した。
その日の深夜。
ロージの部屋を一人の男が訊ねてきた。ロージは灰色の髪の男の手を引いて、部屋の中へ招き入れた。
「上手く取り入ったようだな」
「あなたのおかげでね。誰かさんは、あたしを天使か何かと思い込んでいるみたい」
「オレから見れば、おまえはとんだ詐欺師だけどな」
「あなたには言われたくもないわね。陛下に忠実な振りをしてその裏ではこうだもの。あの食事を勧めるあたりからして、あなたはまともじゃないわ。あの人、赤い色にトラウマを抱えているようよ」
「側妃が毒を盛られた食事は、トマトの煮込み料理だったからな。あの色でその時の光景を思い出してしまうんだろうよ」
男はクックックと笑った。あれではまともに食事が出来なくなってしまうんじゃないの? と、ロージも笑った。
「まあ、酷い人」
「おまえも同類だろう? オレの計画に乗ったんだから」
「そうね。あたしもあなたと同じね」
「そろそろあいつも終わりだな」
「前陛下や、側妃さまのように?」
ベッドの上に二人で倒れる。ロージは男と顔を見合わせた。男は何かを探るように彼女の瞳を覗き込む。
「おまえはオレに付いてくるんだろう?」
「ええ。勿論よ。あなたに買われた弱みね」
「このとんだ堕天使め」
フフフっと笑いが漏れたロージを男は組み敷き、ロージは男に縋り付いた。
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