第34話

 マチアスは暗くて狭い穴の中を滑り続けていた。いつ終わるかも分からない地下への旅。彼はふと、どれくらい時間が経ったのだろうと考えた。それは数分かもしれないし、数時間のようにも感じられた。


(あれは……?)


 暗闇の先に光が見え、それが徐々に大きくなっていった。出口が近いのだ。そしてその光は、マチアスの体中を優しく包み込んでいった。マチアスは着地に向けて構えていたが、穴から吐き出されることはなかった。いつのまにか芝生の上に立っていたのだ。


「あれは……家?」


 晴れた空の青さを背景に、芝生が一面に広がる牧歌的な風景。そして、その中心には赤レンガの低い塀に囲まれ、アイビーで覆われた白煉瓦の建物があった。僅かに覗かせる窓枠の色はくすんだサファイアブルーだ。そこにはあるはずのない光景があった。子供の頃に写真で見ただけの、決して訪れることのできない場所。クヴァント軍の焼き討ちにより跡形もなく燃え尽きてしまったはずの家。


「そんな馬鹿な……」


 呆気にとられながらも、マチアスは一番大切なことを忘れてはいなかった。


「ジュリアン様、コリンヌ様、ポレット様!」


 大声で叫ぶも何の反応もない。聞こえてくるのは、風に揺れる芝生の微かな音だけだった。


「ここは……ここはどこだ?」


 これは何かの罠かもしれない。マチアスは眉間に皺を寄せ周囲を警戒しながら仔細に観察した。後ろを振り向くと、丘から街の景色が一望できた。これも幼い頃に写真で見た風景だ。復興に伴い曲線の美しい有機的なデザインの集合住宅が建つ前の、木組みを多用した素朴な建築様式。それは戦争で跡形もなく消え去ったはずの街並みだった。でも人の気配というものがまるでない。


(俺は夢でも見ているのか?)


 マチアスは眉間に皺を寄せながら、改めて丘の上の家の方を向いた。すると、窓にぼやけた影が浮かんだ。誰かが家の中にいるのだ。


(誰だ?)


 その影はすぐにその場を離れ、暫くして家のドアがゆっくりと開いた。そして、そこから少女がひょっこりと顔を出し、悪戯っ子のように手招きをした。


「家にお入りなさい」


 マチアスはその声を聴き顔を見た瞬間、懐かしさと同時に哀しさを感じた。それはあまりに強烈な感情だったため、普段の冷静沈着な彼らしからず、ふらふらと不用意に家の中へ入っていった。中では玄関先の廊下にその少女が背中を見せながら立っていた。そして、恐らくポレットたちと同い年かその辺りであろう小花柄のワンピースを着た彼女は、ダンスのようにくるりとマチアスの方を向いた。


「ごきげんよう、ムッシュウ」

「ごきげんよう、マドモアゼル」

「あなた、とっても懐かしい気がするの。なぜかしら……あなた私の知り合い?」

「分かりません」

「そう……私、何もかも忘れてしまったの。でも時々思い出の断片がふと頭の中をよぎるの。それはたった一瞬のことなのだけれど」


 マチアスは廊下を見渡した。白い内壁に良く映える、素朴なデザインのシャンデリアやシンプルな薔薇のステンドグラス。靴棚や梁の木材は一目で上等なものだと分かった。


「お茶はいかが?庭で採れたハーブがとってもいい香りなの」


 マチアスは招かれるがままに居間に向かい、赤色の一人用のソファに座った。少女がポットとカップを乗せたお盆をテーブルに乗せ、ゆっくりと注ぎ始めた。緊張を優しくほぐす香ばしい香りがマチアスの鼻腔いっぱいに広がる。


「行っちゃだめよ」

「え?」


 少女の唐突な一言にマチアスは暫く考えを巡らせたが、何を言っているのか分からなかった。少女はマチアスの向かいにある赤いソファに座り、ゆっくりとお茶をすすった。


「そこは子供しか立ち入れない場所なの。その子たちの探し物が見つかるまで、あなたはここから出られないわ」

「ああ……そのことですか」


(大人が立ち入れない場所……つまりあの子たちはもう遺跡の深部にいるということか)


 この家の玄関を跨いでから、マチアスは子供たちのことをすっかり忘れていた。そしてなぜだか、もうどうでもいいという気持ちにすらなり始めていた。


「あの女性ひとがそう言っていたの。最近は遊びに来てくれないのだけれど」

「あの女性ひと?」

「青い服を着た、とっても綺麗で優しい女性よ……。その人は不思議な力を使えるの。彼女を信じれば、イエス様のように死者だって蘇えらせることができるの」

「蘇る?」

「そう、あなたの生きている世界にね」


 あどけない表情でそう話す少女の顔をマチアスは凝視した。この子はもしかして……。


「あなた、歳は?」

「20歳です」

「そう、でもあなたの心はとっても老いているわ。まるで70歳の老人よ。酷いものをたくさん見てきたのね……」


 マチアスはハーブティーを一口飲んだ。喉を伝う温かい感触が体中の緊張を優しくほぐしてくれた。


「ここはどこですか、マドモアゼル?過去の世界なのでしょうか?」

「分からない。何もわからないの。ここには時間というものがないの」

「時間がない?」

「私はずっと昔に一人でここに来たの。たまにその女性ひとが訪ねてくる以外、ずっとひとりぼっちなのよ。でも歳もとれない。ある人がこの場所に来るまで、私は時間のない世界でずっと一人きりなの……」

「ある人?」

「でもその人は青い服の女性と同じでとっても長生きなの。ねえ、あなた、ずっとここに居てくれない?私、すっごく寂しんだ」


 マチアスは危うく頷きそうになったものの、既のすんででとどまった。今頷いてしまえば、本当にこの世界に閉じ込められてしまう気がしたのだ。


「できません」


 少女は可愛らしく頬を膨らませて寂しそうな視線をマチアスに向けた。


「でも私ね、あなたにはずっとここにいてほしいの。だってあなた、とっても懐かしくて愛おしいんですもの」

「私もです。ずっと会いたかった」


 間違いない、この子は……。マチアスは目頭が熱くなるのを感じ、涙を必死にこらえた。


「ねえ、あなた知っている?」

「何をですか、マドモアゼル?」

「人が死ぬ時ってね、本当は愛する人も一緒に死んでほしいの。私があなたの世界にいた頃、死ぬ前にそう思っていたことだけははっきり覚えているわ……。だって、死者の世界がどれだけ孤独な場所か、知らない人はいないでしょう?」


 。マチアスの頭に、病室のカーテンが風邪で揺らぐ光景が浮かんだ。


「ねえ、お願い。あなたもずっとここにいましょう。ね?」


 彼女の発した言葉が、アイビーのようにマチアスの心に巻き付き始めた。しかし、ジュリアンの無邪気な笑顔が心をよぎり、アイビーの呪いはゆっくりとほどけて行った。


「残念ですが、私にはお守りすべき方がいるのです」


 少女は膝に両手を置きながら暫くじっと下を向いていた。その光景を見たマチアスは胸が鷲掴みにされているような感覚を覚えた。少女は顔を上げ、寂しそうにふっと笑った。


「いいわ、あなたはきっとまたここに来てくれるもの。子供たちが宝物を見つけるまでの間、ゆっくりしていってね……」


◇◇◇

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