第32話
「……ット、……レット、……ポレット!」
遠くから聞こえてくる子供の声が、徐々に大きくなってゆく。誰かの両手がポレットの肩を掴んで遠慮なくゆさゆさと揺さぶる。これは地の底からあの世に引きずりこまんとする幽霊の手に違いない。縮こまりながら目をキュッと瞑っていたポレットは、頭をぶんぶんと振りながら今までの悪事を懺悔し始めた。
「ひいいいいぃ!ごめんなさい、ごめんなさい!もう夜中にこっそりサブレをつまみ食いしないから!ご飯の前にちゃんとお祈りするから!ママに内緒でパパからお小遣いを貰ったりしないからあ!だからもう許してえ!」
「ポレット!気をしっかり持って!」
ピリッとした声が耳を貫き我に返ったポレット。恐る恐る振り返りながら涙でぼやけた目をゆっくりと開くと、そこには白金色の髪をした見覚えのある少年が心配そうな顔で彼女を覗き込んでいた。
「ジュ、ジュリ……アン?」
ポレットの胸に優しい温もりがゆっくりと広がっていった。
「ポレット、大変なんだ。コリンヌが穴を滑って子供の後に付いていったんだ。見失わないうちに後を追わないと!」
ジュリアンは努めて落ち着いた口調で話かけようとするも、焦りを隠しきれない様子だ。
「ふえ……コリンヌが……?」
ポレットはゆっくりと立ち上がりながら、弱々しい蝋燭の明かりに照らされた正面壁の3つの穴を見た。
「左端の穴だ、急ごう。もう魔女の水晶どうこう言っている場合じゃない!」
ジュリアンはそう言って不安そうな顔をマチアスの方に向けた。左端の穴をじっと覗き込んでいたマチアスは、振り返っていつになく神妙な顔で二人を見た。
「ジュリアン様の仰る通りです。急ぎましょう、ポレット様。コリンヌ様はまるであの子供に憑りつかれているようでした」
「あ……そうね。ええと、あの幽霊の子供を追いかけるってことよね……」
マチアスから視線を逸らし、口を引く付かせながら頼りない笑みを浮かべるポレット。その様子を見たマチアスはポケットから小瓶を取り出した。
「ポレット様、お気を確かに。どうやらこの空間は人の心を虚ろわせる何かがあるようです。気付け薬は如何ですか?」
(き、気付け薬……)
ポレットは理科の授業で嗅がされた強烈な酢のような匂いを思い出して思わず身震いをした。
(じょ、冗談じゃないわ。マチアス様の気遣いとはいえ、あんなもんを嗅がされた日にゃ3日はご飯が食べられなくなっちゃう…)
そして彼女はマチアスに無理やり笑みを浮かべながら両手でガッツポーズをした。
「マ、マチアス様。へーきへーき。か弱いレディに見えて結構肝が据わっているのよ、私」
その台詞を聞いたマチアスとジュリアンは一様に首を傾げた。
(か弱い?か弱い……うん?)
「ほら、二人とも早く行こう。このままじゃコリンヌがあの世に連れていかれちゃうわよ」
ポレットの台詞を考え込んでいた二人を
「ポレット、待ってよ!」
ジュリアンもポレットの後を追ってそのまま滑り落ちていった。マチアスはしかし、すぐに後を追うことはせずに、十数秒間フィオーネの絵をじっと眺めていた。
(ポレット様の言う通り、これは魔女というよりはまるで天使だな……これほど敬虔な気持ちにさせてくれる絵もそうはあるまい)
マチアスは緊急時ということも忘れ、暫くフィオーネの壁画に魅入っている様子だった。無垢で神聖で、心どころか魂まで奪われてしまいそうな美しい絵。いや、その大きく白い羽が魂をこの世ではない、別の世界に飛び立たせてくれるような、そんな不思議な魔法がこの絵に掛けられているかのようであった。
(死者の森の魔女が我々を
ちょうどその時、なにかの前触れのように蝋燭の火が消え、辺り一面は再び暗闇に包まれた。もうフィオーネの絵も何も見えない。
(ポレット様の言う通り、あの世に
マチアスはふぅっと小さなため息をついた後、少しだけ口角を緩ませた。
(まったく、あのお転婆娘がアポリネール家に関わるようになってから何もかもが変わり始めているな。ジュリアン様も、コリンヌ様も、もちろんこの俺も………)
マチアスは壁を手探りしながら左端の穴中を手で
(この命を掛けても子供たちだけはお守りします、ジョゼット様……!)
彼はそのまま漆黒の地下世界へと滑り落ちて行った。
◇◇◇
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