第22話
ポレット達が通う私立聖カリーヌ学園。100年以上前にギロチンにかけられたブルジョワの豪邸を改装した校舎が自慢の、小等部から大学院まで一貫して高い教育を提供する歴史あるこの学校法人は、いわばジュネ中のボンボンが集まる場所だった。学者よりは文化人を輩出することが多く、おっとり和やかな雰囲気に包まれているこの教育環境だからこそ他人任せに生きてきたジュリアンでも今まで何とか平穏な学校生活を送れてきたのだ(4年生時にバスチアンのような例外にぶち当たってしまうのだが)。
坊ちゃん嬢ちゃん揃いの学園でもとりわけ世間の厳しさを知らずに育ってしまったジュリアン。運動神経が決して悪い訳でもない彼には、しかし闘争心や挑戦への気概というものがまるで欠けていた。何でも他人任せという自立心のなさはマチアスやコリンヌといった周りの人間のせいだけでもなく、彼の優しさと裏表の、いわば生来の気質と言ってもよかった。
焼けつくような太陽光を浴びながら冷や汗ばかりが流れ出る青白い顔をしたのっぽの男の子。ポレットとコリンヌの目の覚めるようなクライミングを最初は驚嘆の念で見ていた彼だったが、コリンヌが半分登ったあたりから彼は気付いてしまったのだ。
(ぼく、地上に独りぼっちじゃん……)
何でもかんでも姉やマチアスに任せっきりにしてしまったツケが回ってきた瞬間だった。地面の太い荒縄を手にそのまま立ち尽くしてしまったジュリアン。それを不安げな表情で見るマチアスとコリンヌ。二人の胸の中でまたもや過保護の虫がざわざわと騒ぎ始める。
「おお、なんてことだ。一人きりでさぞかしご不安でしょうに。私がジュリアン様を背負って登ります」
「いいえ、マチアス。それは姉である私の役目よ」
マチアスとコリンヌはこれだけ離れていてもジュリアンが今どんな顔をしているのかが手に取るように分かるらしい。そして同じ思いを抱いた2人の視線の間にまた火花が散る。くりくりした2つの目が横からその光景に冷ややかな視線を投げつけていた。
(まるで親バカならぬバカ親ね……)
2人に聞こえないように小さくため息をついたポレット。彼女は二人のやりとりに心底呆れ果ててしまった。
(ジュリアンが臆病なのって、原因のかなりの部分をこの二人が占めているんじゃないかしら?)
ご名答である。彼の生来的な他人任せの性格を更に助長させてしまった大方の原因はこの二人に帰していたのである(ジュリアンに逞しく育ってほしいジョゼットは厳しく接しようと一応は努力しているのだ)。空手にはコリンヌが、第2ルートにはマチアスが反対の意を示したことを思い返すポレット。アプローチは若干違えど2人のベクトルは極めて似た方角を向いているのだろうという事実に徐々に気付き始めてしまった。
「あの~、お二人さん。ちょっとばかり落ち着いたほうがいいんじゃない?」
ポレットの遠慮がちな声掛けに対して2人が同時に振り返る。
「ひぃっ!」
今までガンつけ合っていた鋭い4つの目が急に向けられたため、ポレットは思わず小さく叫んでしまった。この二人、どうやらジュリアンが絡むと冷静さどころか正気すら保てなくなるようだ。
「ポレット、今の状況をお分かりになって?事あるごとに主人に歯向かいあまつさえ姉の役割を奪おうとする無礼極まりない使用人を御覧なさい。今こそ立場を分からせる時が来たのよ……邪魔なさらないでくださる?」
(じょ、女王様が目の前にいるわ……逆らったら鞭でぶっ叩かれる!)
威厳と高慢さを湛えた女帝のごときその表情に、ポレットは危うくプライドも捨ててひれ伏すところであった。コリンヌの恐ろしい一面をつぶさに見てきたポレットは、彼女に対する人物像をいけ好かないお澄まし女から逆らってはいけない女に格上げ(格下げ)した。対してもはやクールさもへったくれもないマチアスは、曰く言い難い危険な色気を発しながら悩ましい表情でコリンヌに訴えかける。
「コリンヌ様、まだお気付きにならないのですか?ジュリアン様が真に求めているもの……それは太陽のような兄たる存在なのです。おいたわしや、名家に生を受けたばかりに気苦労も絶えずに……私目マチアスは、たとえアポリネール家が没落しても生涯を賭してジュリアン様にこの身を捧げる覚悟なのですよ」
(この展開、どこかで読んだことがあるような……ああ、思い出したわ)
ポレットが思い出したのは、おませなクラスメートにこっそりと読ませてもらった肉食系イケメン執事と気弱な少年の禁断の愛欲を書いたティーン向け小説だ。執事が壁ドンしながら挑発的な顔を少年の鼻先ギリギリまで近づけ迫る迷シーン。その描写をついついマチアスとジュリアンに重ねてしまい真っ赤な顔を両手で覆うポレット。ハッと正気に戻った彼女は目を瞑りながら頭をブンブンと振り、汚らわしい妄想を頭から振り払いながら恐る恐る言った。
「あ、あの~、お二人さん?なんでもかんでもすぐに助けてあげるってのは、その、ジュリアンのためにならないんじゃないかしら……」
コリンヌ・マチアスの両名はにらみ合いを中断し、珍獣を見るがごとき視線をポレットに向けた。その無表情さに背筋が凍る思いのポレット。
「ポレット、あなたジュリアンの何を知っているというのよ?遠くにいるからあの子の表情が見えないとでも?私には手に取るように分かるわ。姉さん、大好きなコリンヌねえさーーん、今すぐに僕を助けてよ~って心の叫びが頭中に鳴り響いているもの。うふふふ」
「ポレット様。恐れ多くも私目はアポリネール家に仕えて以来、常にジュリアン様のためを思って行動してきたつもりです。そのためかジュリアン様は事あるごとに私目を頼りにしてくださる……。私に向けられたあの不安げな表情を御覧なさい。ジュリアン様の寄る辺はこのマチアスしかいないのです」
(ど、どどど、どっちも間違ってるわ……)
2人の眼力の威圧感にたじたじのポレット。しかし彼女はジュリアンを取り巻く環境が思ったより遥かに深刻であることをようやく理解した。
(そうよ、こんなの……こんなの間違ってる!)
短パンの裾をキュッと握るポレット。別にジュリアンには石ころ程度の好感すら抱いていなかったが(そういうことにしておこう……)、一方で生まれや家柄だけでなく歪んた2つの愛に蔦のようにがんじがらめにされた彼に少しばかり同情したのも事実である。心に白い翼を生やし何よりも自由を愛する彼女にとって、ジュリアンは見世物小屋の憐れな小動物そのものだったのだ。
(もし私がこんなに束縛されたら……間違いなく家出してやるわ!)
本当にジュリアンのためを思うなら結果はどうあれ彼のことを信頼すべきではないのか?ふつふつとした思いが胸に湧き上がったポレットは、ライオンとトラの大喧嘩に身を投じる覚悟を決めた。鼻からゆっくりと息を吸い込んだ彼女は、ピリッとした声で2人の鼓膜と心とを貫いた。
「2人とも、勝手な思い込みは捨てて少しはジュリアンを信じてあげなさいよ」
おさげ娘の一言にコリンヌとマチアスは数秒間フリーズしてしまった。ポレットの台詞を咀嚼し、呑み込み、それでも理解できなかった2人は不当な非難にムキになって反論した。
「か、勝手な思い込みですって?私はジュリアンのことを誰よりも想っているからこそ……」
「ポレット様、私の想いは独りよがりだったとでも?いくらポレット様でもそれはあまりに……」
ポレットは2人の抗議を無視して、地上でオロオロする情けないジュリアンを見遣った。ポレットの胸に曰く言い難い感情がメラメラと湧き上がる。これは怒り?それとも侮蔑心?両方とも否。強いて言うならば、駄目旦那のケツを蹴り上げるカカアのような心境だろうか。彼女は目を瞑り、鼻からあらんばかりの空気を吸い込んだ。
「ほらあっ、ジュリアン、ちょっとは根性見せなさいよ!」
ほらああああ、じゅーーーりああああーーん……ポレットの発した大声が遺跡の敷地全体に響き渡る。コリンヌとマチアスが驚いた表情をポレットに向けた後、そのまま互いの顔を見合わせた。
「マチアス様とコリンヌがねえ!あんたを負ぶって登るって言ってんのよ!私にそんな情けない姿見られてもいいの?」
◇◇◇
その大声が遺跡中で山彦の様に反響したため、巡回中のスキンヘッドのオッサンとその一団が腹を抱えて大笑いしたのは言うまでもない……。
「うわっはっはっはっはっはっは!なんすか今のは?」
屈強な男たちは笑い声も豪快であった。
「がはははは!今のはあのおさげの子だな。ほら、幽霊の話に震えていた子だよ。あの子な、うちの娘がチビだった頃に雰囲気がよく似てるんだよ」
スキンヘッドのヴァンサンがポレットに幽霊の話をしたのは、彼には気に入った相手をからかう癖があるからだ。新進気鋭の美術商と結婚し、一男一女をもうけ、高級地区として知られるジュネ第二区の一軒家で悠々自適の生活を送る一人娘フロリアーヌ。こんな田舎で人生を終えたくないと15歳で家を飛び出し、憧れの都ピレアンで働きながら自力で服飾学校を卒業した彼女は、今や一人前の服飾デザイナーとして旦那に負けない稼ぎを得る程までになっていた。最近では父ヴァンサンへの連絡もすっかりご無沙汰な親不孝娘は、その手で実現した華やかな生活とは真逆の、辺境でうだつの上がらない仕事に精をだす田舎者の父をすっかり見下しており、2年前に母が他界してからは何かと理由をつけて帰省を渋っていたのだ。
(昔はあんなに仲が良かったのにな……)
豪快に笑ったかと思えばしみじみと過去の大切な思い出に浸るヴァンサン。軍隊でも警備職でも大して出世できなかったものの、人情家の彼に部下や同僚からの信頼は厚かった。みるからに活発そうなポレットを一目見た時から、ヴァンサンはフロリアーヌの影を彼女に重ねていた。仕事とはいえ最初厳しい態度をとってしまったことについて後悔していた彼は、彼女が無事に試練から戻ったら、孫のために取っておいたとっておきのチョコレート菓子をプレゼントしようと心に決めていた。
◇◇◇
ポレットの叫び声はジュリアンの脳内に恐ろしい映像を再生させた。マチアス(もしくはコリンヌ)に負ぶられて杖先に登り切った後に突き刺さる、ポレットの冷ややかな視線。
(もしかして、ポレットに愛想を尽かされる?)
誤解のないように言っておくと、ポレットは「クラスメート」である私にそんな姿を見られてもいいの?と言ったつもりだったのだが、当然ジュリアンはそうは取らなかった。好きな女の子の前でそんな醜態を晒すつもり?情けない男ね……。ポレットが冷たい目でジュリアンを見下す場面が様々なシチュエーションに形を変えて頭の中を埋め尽くす。
(駄目だ駄目だ駄目だ……それだけは絶対に駄目だ!)
ジュリアンの奥底から得体の知らないパワーが湧き上がってきた。それを闘争心と呼んでいいのかは分からないが、ジュリアンが生まれて初めて経験する感情であることは確かだ。ロープを体に巻き付け女神像の裏に立ったジュリアンは深呼吸をし、ゆっくりと息を吐き終えたと同時に腕を上に伸ばして突起を掴んだ。
「ジュリアン、あなた……」
「ジュリアン様……」
バカ親コンビから図らずも精神的に巣立とうとするジュリアン。どんなにノロくても、どんなに不格好でも自分の力だけで登り切ろうと心に誓った。
(僕はポレットやコリンヌじゃない。慎重にゆっくりやればいいんだ……)
突起を掴み、足を掛け、極めてゆっくりと体を動かすジュリアン。速度はポレットの20分の1程度だし、三歩進んで二歩下がりながら登るといった調子なうえに何度も突起を掴み損ねたりとどこか危なっかしい。上から我が子を心配する親さながらにその様子を見つめるマチアスとコリンヌ。そんな2人を見透かすかのようにポレットが静かに、しかし極めて重い口調で言った。
「本当にジュリアンのことを大切に思っているなら……本当にそうなら、勇気を振り絞って一歩を踏み出したジュリアンを尊重して黙って見守ってあげて。お願い……」
「そ、そうね……」
「返す言葉もありません……」
とはいえポレットですらそのノロノロなうえに冷や冷やする歩みに肝を冷やされっ放しだった。
(映画のアクションシーンの大一番だってこんなにハラハラしないわよ……)
しかし一歩づつ、着実に一歩づつ歩みを進めるジュリアン。飛行場で軽々とポレットを抱き抱えた通り、見かけによらず長身の体を持ち上げるだけの力はあるのだ。何度も何度も突起を掴み損ね体勢を崩すも、何とか両足ともう片方の手で踏ん張り落下までには至らなかった。
(ぐううっ、胃が痛い……戦地でもここまで緊張したことはなかったぞ)
2年前である18歳の時まで軍隊に所属していたマチアスは、身に降りかかる困難は何でも自分で解決してきたため、その分手助けできず見守るしかない状況というものに耐えられなかった。
(まだ半分も登っていない。今からでもジュリアン様の元に向かって……)
そんな彼の考えを見透かすかのように、右から鋭い視線が突き刺さる。
「じーーーーーーっ」
「ポレット様、"じーーー"とは何でしょう。オノマトペを口に出される方は初めてです」
「わざと視線を声に出したのよ。私の思いが伝わったかしら」
これがジュリアンを「手助けすんなよ」という牽制が籠った眼差しであることは考えるまでもなかった。心の内を見透かされたマチアスが決まり悪そうに下を向く。
(そうだ、ジュリアン様はご自分の意思で一歩を踏み出されたのだ。マチアスよ、ジュリアン様を信じるんだ……)
とはいえポレットも今すぐにでも降りていきたい衝動を必死に抑えつけていたのだが……。不器用ながら頑張る彼の姿は、ドジでおっちょこちょいのジャニーヌを連想しない訳にはいかなかった。
(うう……愛しのマチアス様にあんな態度取っちゃったけど、私だっていますぐ助けてあげたいわよ……)
体力の限界が近いのか、七分目あたりから目に見えて彼の動きが鈍り出した。
「ジュリアン!」
プレッシャーに耐えられなくなったコリンヌがスペアの荒縄を体に巻きつけ始めたものの、それを見たポレットが慌てて荒縄の残り全てをグルグルと蛇の角部分に巻き付けた。これではコリンヌは降りるどころか今いる場所からも数歩程度しか移動できない。
「ちょっとポレット!何をしているのよ?」
「今あんたが助けに入ったらジュリアンは絶対に傷付くよ。愛する弟に消えない心の傷を付けたいの?」
「うっ……ぐっ……、そ、それは……」
手に持った荒縄を見つめながら力なく項垂れるコリンヌ。ポレットはジュリアンに向かって叫んだ。
「ジュリアン、あと少しじゃない。ほらっ、頑張れえ!やり遂げろおお!」
ポレットの掛け声に触発されたバカ親コンビも一斉に声を張り上げた。
「ジュリアン様、もう少しです。あと少しですよ!」
「ジュリアン、あなたは私の誇りよ!あなたならきっとできる!」
3人のエールに親指を立てて返事を返すジュリアン。しかし右手を突起から外したことで体勢が崩れてしまい、体をジタバタとさせる。
「ああーーー!」
3人が一斉に悲鳴を上げる。コリンヌに至っては両手で目を覆ってしまったが、ジュリアンは落下していなかった。左手と右足だけで何とか踏ん張っていたのだ。ポレットの顔はすっかり青褪めてしまった。
(し、心臓に悪過ぎるわ……)
体勢を持ち直した彼はまた亀のように一歩ずつ確実に歩みを進めた。
(ポレット、僕を信じてくれてありがとう。きっと登り切ってみせる……!)
体力よりも集中力が限界に来ていたジュリアンは、それでも目を瞑って一番上に位置する突起を掴んだ。コリンヌが気の早い労いの言葉を掛ける。
「ジュリアン!自分の力だけでよく頑張ったわ、流石私の弟!」
しかしその手を掛けた瞬間、がくがくと震えていた足が滑ってしまった。彼の胸には恐怖よりも情けなさが去来した。
(僕の大馬鹿野郎!最後の最後って時に……)
体が言う事を聞かない。もう踏ん張れない。足をぶらぶらさせながら手の力だけでその場に留まっていた彼の頭の中では、ロープにゆらゆらと揺れる彼の元へマチアスが近づき、彼に負ぶられながら悔し涙を流す自分の姿が映し出された。
(やっぱり何をやってもダメなのかよ……!)
彼は最期に残った残り粕の力で、何と足をぶらつかせながら両手の握力と両腕の力だけで蛇頭の角に右手を掛けた。が、それが限界だった。
(もう駄目だ……)
両手から急速に力が抜けていくのが感じられた。落下を覚悟し目を瞑るジュリアン。しかし彼は落下しなかった。誰かが彼の右手ををしっかりと掴む感触があったのだ。
「ジュリアン、頑張ったね」
彼の右手を握ったポレットが、歯を見せてニッコリと笑った。
◇◇◇
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