第21話

(あんな大見得切らなきゃよかった……)


 ジュリアンが不安げな表情で見上げた蛇の頭部は遥か彼方に思えた。そこから手を振るマチアスの小さくなった姿が余計に彼を不安にさせる。


(こんなの僕に登れっこないよ!女神像の顔もなんか怖いし……)


 ジュネ神話の最高神の一人である裁きの女神ゼーラーフィ。鶏冠のついた兜をかぶり、鱗のような胸当てを付け、長いローブに身を纏い、右手にマルムのシンボルである白鴉を乗せ、左手に角のような二本の突起を生やした蛇の杖を構え、厳めしいというよりは不機嫌そうな顔で地上にひれ伏した蟻のような古代人たちを上から見下ろしていたであろう巨大な像。しかし像の裏手に回ると正面からは想像できない光景に出くわすこととなる。女神像の背中には、クライミングでいうところのホールド部分がびっしりと突き出ているのだ。トライポフォビアがこのブツブツを見たら思わず悲鳴を上げてしまうだろう。


「ぎゃー、イボイボがこれだけあると鳥肌たつわねー」

「あなた難破船の中を見たことある?フジツボの密集なんてこんなもんじゃなかったわよ」


 一足先に裏手へ回ったポレットとコリンヌ。グロテスクな背中部分を若干気味悪がったものの、クライミングそのものに怖気づいた様子はまるでない。


「とにかく、このイボイボを掴んで上までよじ登ればいいのよね!なーんか拍子抜けしちゃった。案外チョロいんじゃない?このルート」

「これは試練の序の口ですらないわよ。第二ルートの出発点はあの穴からなんだから。要するに最低限の体力すら持ち合わせないものは試練を受ける資格なしってことね」


 平然とした顔で交わされる余裕綽々のガールズトーク。少女たちにとってこの程度のクライミングは問題にすらならないのであろう。二人の会話は知らずのうちにジュリアンをじりじりと追い詰めていった。


(情けなくて死にたくなってくる……でも足が言う事を聞いてくれない……)


 先に命綱の荒縄なしで軽々とよじ登ったマチアスが手本を見せたように、この突起物を掴み、足を掛けながら蛇の頭部までよじ登らなくてはならないのだ。先程までの決意に満ちた表情はどこへやら、土埃が風に吹かれ体中が乾燥してしまいそうなこの場所で、ジュリアンはすっかり元の臆病風に吹かれまくっていた。


(多分僕は女の子に産まれるべきだったんだろうな。女の子なら登れなくても馬鹿にされないだろうし、むしろおしとやかで男の子が守りたくなるっていうか……)


 劣等感という毒がジュリアンの体中を駆け巡り、彼を現実逃避の世界へと誘い始める。自分が女の子だったらというジュリアンお気に入りの妄想は、彼が極度に追い詰められている証拠でもあった。ポレットにいいところを見せたいだの、コリンヌに成長した自分を見て欲しいだの今まで鼻息荒いことを言っていたが、気持ちや決意の一つで変わることができれば苦労はないのである。


(マチアスにもう一度降りてもらって負ぶってもらおうかな……)

 

 ついに自分自身に白旗を上げようとしたその時、劣等感の毒が回り過ぎたのか聞こえるはずのない声が耳元で囁かれはじめた。


「へっ!嫌がるふりしていつもコリンヌにべったりじゃねーか。気持ちわりぃーんだよシスコン野郎!」


 はっと顔を上げて左右を見回すジュリアン。胸をえぐるようなその残酷な響きは間違いなく聞き覚えのある少年の声だった。しかし近くには若い男性教師の話題に華を咲かせてるポレットとコリンヌしか見当たらない。その間にもナイフの刃先のように鋭く冷たい言葉がジュリアンの耳を容赦なく突き刺し続ける。


「ちっ、うっぜーな!どっか行けよ、邪魔クセーんだよ!」


だの、


「アポリネール家始まって以来の落ちこぼれ野郎!」


だのバスチアンの身体的暴力幾分ましに思えるほどの、血が繋がっている弟から幾度となく浴びせかけられてきた胸をえぐるような言葉の暴力。獲物を追い詰めるような黒目がちな瞳でジュリアンを見下しながら浮かべるサディスティックなにやつき。ジュリアンの胸から喉、頭のてっぺんに至るまでドロドロした憎悪の感情が駆け巡った。


(そうだ。僕はどうしても試練を成功させなくちゃならない理由があるんだ。お前の望み通り、魔女の水晶を絶対に持ち帰ってやるよ……)


 怒りのため動悸で胸が破裂しそうなジュリアンは、同じ側の手と足を同時に動かすという不自然極まりない動作でゆっくりと女神像の裏手に歩いて行った。しかしこれでマチアスに文字通りおんぶに抱っこしてもらうという最悪の選択はせずにすんだようだ。


「今からロープを投げます!これを体に結わえて登ってきてください!」


 マチアスは地上に向かって大声で叫び、詰め所から借りてきた登山用ロープを蛇の角のような突起に器用に括り付け始めた。その声にいの一番に反応したのはやはりこの娘だ。


「はいはいはーい。マチアス様の元に駆け付けまーす」


 地面に落ちたロープの元へとことこと走っていったポレット。マチアスが登る前に3人にレクチャーした縄の巻き方を一目で覚えた彼女は、それを器用に腰に結わえ始め、十数秒もかからずに巻き終わってしまった。


「へえ、呑み込みが早いのね」


 顎に二本指を添えたコリンヌが関心したように呟く。褒められることが大好きなお調子者ポレットはそれに気を良くしたらしく、左手の甲を腰に当ててウィンクをしながら右手の人差し指で姉弟を指した。


「二人とも、キュートだけじゃないポレットちゃんの凛々しい姿をよ~く目に焼き付けなさいよ!」


 手をパンパンと払った後に突起を掴むポレット。そして、そこからの光景は信じ難いものだった。


「し、信じられない……」


 ジュリアンが自宅のシアタールームで鑑賞した有名登山家の記録映画。そこに映る男は未踏の頂上を目指し、手探りをしながら絶壁の突起部分に慎重に手と足を掛け、苦難に耐えるかのように一歩づつ、また一歩づつ山頂に近づいていった……。ジュリアンにとって崖を登るというのはそういう地道で孤独な苦行はずだった。しかしポレットの超人的な身のこなしは彼に刷り込まれたイメージを丸ごと塗り替えてしまったのだ。


(まるで蜘蛛みたいだ……)


 短距離走を走るかのように一気に駆け上がるポレット。突起物を器用に掴みながらジャンプするように軽々と登っていくポレットには、まるで地球の重力など存在しないかのようであった。約半分の高さに到達するまでに30秒も掛からず、彼女が登るたびにロープの長さを調節するマチアスの手が追いつかなかったほどだ。半分を超えたあたりから彼女のスピードは更に上がる。そして蛇の頭の部分の、人間が数人立てる程度の平たいスペースまで辿りついた時には1分も経過していなかった。女神像の足元であんぐりと口を開けていたジュリアンを他所目よそめに、マチアスと二人きりになったポレットの目がピンクのハートマークになっていたのは言うまでもない。


「うふふ、マチアスさまぁ。どうどう?わたし結構できる子でしょ」

「ポレット様、あなたにはきっと女神へライスのご加護があるのでしょう(へライスは舞踏、運動競技、幸の運命を司る女神でありゼーラーフィと同じく最高神の一人)」


 コリンヌがひゅうっと口笛のような音を出した。


「さすがの身体能力……あなたが猿並みと言っただけあるわね」


 ポレットの人並外れた身体能力を素直に賞賛できないコリンヌは、彼女がいない場ではジュリアンの前で一言付け加えずにはいられなかったのだが、当のジュリアンはそんな嫌味は一切気にせずポレットの身のこなしを羨望の眼差しで見つめていた。


「すっげえ、すっげえええ!さすがポレット!」


 姉の気持ちなどつゆも知らずに無邪気にはしゃぐジュリアン。その姿を目にしたコリンヌの脳裏にまたあの光景がフラッシュバックした。ポレットがバスチアンを時に見せた憧れの表情。本当は自分に向けて欲しかった敬慕の情。コリンヌの闘志がメラメラと燃え盛り始める。


(このままじゃジュリアンのヒロインの座をあの子に奪われちゃう!)


「さあ、ロープを投げるわよ!お次はだあれ?」


 ポレットがひょいと投げ地面に落ちたロープを掴んだのはコリンヌだった。彼女は戦地に赴く兵士さながらの決意に満ち満ちた表情をジュリアンに向けた。


「ジュリアン」

「な、なんだよコリンヌ」

「お姉さんの雄姿を篤と目に焼き付けておきなさい」


(そしてあなたが世界一憧れるべき女の子は誰なのかってことをとことん思い知らせてあげる……)


 ただならぬ気迫にたじろぐジュリアン。目の錯覚だろうか、心なしかコリンヌの体には黄色い光のもやがまとわれているようにも見えた。


(あの子に負けてられないんだから!)


 コリンヌは体に巻き付けたロープを気合を込めてキュッと締めた。そして一つ目の突起に両手を掛けるや、ポレットに負けず劣らずの身のこなし・スピードで一気に駆け登り始めた。蛇頭からは「おおっ」という2つの感嘆の声が上がる。先程までコリンヌと対立していたマチアスも、彼女を密かにお嬢様と侮っていたポレットもこれには賞賛の眼差しを向けざるを得なかった。


「やるわねー、性格はさておきあの身のこなしは私といい勝負よ」


 朝の挨拶で見せた感動的なまでの外面の良さと、車内で図らずも見せてしまった狂気的なまでの弟愛。遺跡までの道中で見せたどす黒くて禍々しい黒紫のオーラ。半日もしないうちにコリンヌの一筋縄ではいかない性格をつぶさに目のあたりにしてきたポレットは、彼女がいない場ではジュリアンの前で一言付け加えずにはいられなかった。マチアスは栗色の髪を風に靡かせながら困ったような表情をポレットに向けた。


「ポレット様、コリンヌ様を誤解されております。当家のマドモアゼルはあのように見えて情と懐の深い御方なのですよ」

「まあ弟大好きってのだけは嫌というほど伝わったけど……てへっ、マチアス様の前ではしたない態度を取っちゃったわ~」


 ほっぺに舌を出してぶりっ子顔でごまかすポレット。その間にも蜘蛛のような速度で歩みを進めるコリンヌ。命綱を付けているとはいえ、弟の前ゆえのええ恰好しいとはいえ、あるポイントからポイントへ腕の力だけでジャンプして飛び移る芸当はマチアスにとって危なっかしさすら感じさせるものだった。ハラハラとその様子を見守るマチアスとは対照的に、ポレットの瞳の中では賞賛と感動の光がその輝きを増していった。


(すごいわねー。運動神経もさることながら、もの凄い気迫を感じるわ。目の錯覚かしら、コリンヌの体から薄っすらと光すら放出されているように見えるんだけど……どうやら黒紫ではなくて黄色みたいね。あ~よかった)


 ジュリアンだけでなくポレットにも彼女の並々ならぬ気合いのオーラが見えたようだ。それはそうであろう。コリンヌは何としてもジュリアンの尊敬の念をポレットから自分に取り戻したかったのだから(ただそもそもジュリアンはコリンヌに情はあっても敬意を抱いてはいないのだが)。本来はポレットにあと一歩及ばないコリンヌの身体能力は今や限界まで引き出されていた。


(ジュリアン、見なさい。これがお姉さんよ。あなたが世界一憧れる女の子はポレットじゃない。この私、コリンヌ・アポリネールよ……)


 コリンヌが体中の筋肉を引き攣らせ、息を切らしながら杖先の床の角に手を掛けた瞬間、興奮したポレットが手を差し伸べた。体力が限界だったコリンヌがありがたくその手を握ると、ポレットはそのまま彼女を自分の体に抱き抱えるような格好で引き揚げた。


「あんたやるじゃない!登れるとは思っていたけど、たぶん2分も掛かってないわよ!」


 ポレットは相手が誰であろうと敬服に値する物事については素直に褒め称える子なのだ。まさかの仇敵からの賞賛に、コリンヌは思わずポレットの方を向いてニッコリと素の笑顔を送った。いつもコリンヌの楚々とした態度ばかりを見てきたポレットは、年相応の無邪気な表情をした女の子の顔に思わず胸がキュンとなった。


(やっぱ滅茶苦茶可愛いのよね~この子……もっと子供らしく笑ってりゃいいのに)


 二人の微笑ましい様子を見たマチアスは思わず口を横に引いた。何だかんだでコリンヌのことも心配しているマチアスは、ポレットがコリンヌの親友になってくれないかと密かに期待しているのだ。


「コリンヌ様、ポレット様、流石お二方です。難なく40メートルのクライミングを成功させてしまうとはね」

「えへへ、そうでしょー。4年生の女の子でこの高さを登れるなんて学校じゃ私たちくらいしかいないわよ」

「ふふ、ポレット。あなた本当に凄かったわよ」


 猿みたいで。口から出かかったその台詞を既の所で飲み込んだコリンヌは、一人取り残され青い顔をしている情けない弟を遥か上方から見下ろした。


(ジュリアン、言ったでしょう。あなたが成長するには私という手本が必要なのよ。さあ、次はあなたの番よ。あなたならきっとできるわ。いいえ、失敗しても私がここまで負ぶってあげるから大丈夫……)


 コリンヌは、愛する弟に健全だか歪んでいるのかよく分からない(或いは両方がブレンドされた)一方的な思いの丈を送り続けていた。そんな思いとは裏腹に、地面に投げられたロープを手に取ったジュリアンはまたもやフリーズしてしまっていた……。


◇◇◇

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