第16話
「きゃあああああああ!」
「うわあああああああ!」
ポレットとジュリアンは両手を繋ぎながらはちきれんばかりの笑顔で喜び合い、エンジンの轟音などものともせず大声で叫んだ。コリンヌは相変わらずのお澄まし顔でフライトキャップの上から両耳に手を当てて、後部座席の二人組から発せられる騒音を遮った。
「すごい!本当に飛んでる!」
「私たち空を飛んでいるのよ!」
凹凸コンビのあまりのはしゃぎぶりにマチアスは少しだけ笑いながら前方を見た。彼のゴーグル越しの目に映る波打つ海は朝日でキラキラと輝き、まるで青い絨毯に宝石が埋め込まれているようだった。
「わあ!鳥さん!」
ポレットが指さす方向には渡り鳥の一団が飛んでいた。マチアスが機体の速度を下げると好奇心旺盛な鳥たちが飛行機の右側にぴったりとつく。ポレットが真横で翼を羽ばたかせている鳥のお腹をツンと触ったが、鳥は数センチだけ位置を上に移動しただけで逃げることはしなかった。ジュリアンは口をぽかんと開けてその様子を見ていた。
「へ~、逃げないんだね。鳥ってこんなに人懐っこいんだ」
「私、鳥に触ったの初めて!」
ポレットはマチアスから手渡された最新型のカメラで渡り鳥の姿を収めた。後日この鳥たちの写真を現像した際に、翼を羽ばたかせていたためかぼやけた写真しか撮れていなかったことに落胆する羽目になるポレットだが、それはまた後々の話である。
「ほら、あんたも撮ってあげる!」
「え?いいよ。この帽子ぶかぶかだし、それに……」
「えーい、うだうだ言うな!」
パシャリ。後日現像されるのは、恥ずかしそうに斜め下を向きながら大きすぎる飛行帽を両手で押さえているジュリアンらしい写真だった。この写真は後々精巧な堀細工が施された高級額縁に納められ、コリンヌの勉強机を彩ることとなる……。
「ジュリアン、私の写真も撮って!」
ポレットはそう言ってカメラをジュリアンに手渡した。カメラを手に持ったジュリアンは今までのカメラの常識を覆すその小ささと軽さに驚いた。
「へ~、これならどこでも持ち運びできるや。きっとこれからは小型カメラの時代だろうな」
「あたしの可愛さを余すことなく収めなさいよ」
パシャリ。後日現像されるのは、右手を後頭部に、左手を腰に手を当ててウィンクをするおませなポレットらしい写真であった。この写真もまたポレットに無断でジュリアンの勉強机の上に飾られることとなる……。
しばらくしてポレット達に興味をなくしたのか、鳥の編隊は激しく羽ばたかせていた羽を一斉にたたんで右に体を傾け、そのまま急降下していった。ジュリアンは座席から身を乗り出してその様子を見えなくなるまで目で追っていた。
「すっげー!」
ポレットがなぜか自慢げな表情で言った。
「ね?世界には驚くようなことがたくさんあるって言ったでしょ?」
前座席のコリンヌがキャップを脱ぎ、気持ちよさそうな顔でその長い白金色の髪を風に波打たせるままにした。
(本当に綺麗な娘だな……)
どこまでも青い空を背景に陶器のような白い肌を輝かせる天使の横顔に、マチアス思わず見惚れてしまった。
(母さんが昔読んでくれた絵本のお姫様のようだ……)
コリンヌの横顔を眺めていた彼はふと亡き母親のことを思い出した。優しくておおらかで、誰からも好かれる素敵な女性だったマチアスの母ジェルメーヌは、しかし感じやすい部分を、少女のような穢れなき純粋さを最後まで脱ぎ捨てることはなかった。顔立ちも性格も似ていないものの、コリンヌの胸の詰まるような美しさは、手に触れれば粉々に散ってしまいそうなジェルメーヌの最もピュアな部分とどこかしら通じるものがあるのかもしれない。
(母さん……)
マチアスに父親はいない。少なくとも物心がついた時から14歳でジェルメーヌが他界するまで、ずっと母子二人きりの人生だった。女の細腕で(本当に細い腕だったのだ)身が擦り切れるほど働きながらマチアスに出来うる限りの教育と惜しみない愛を与えてきたこの女性は、しかし万死の床に臥してもなお彼の父親については詳しく語ろうとしなかった。
「知らないほうがいいこともあるのよ……」
窓際に赤い一輪のバラが飾られている他は何もない殺風景な病室の中、椅子に座るマチアスは白いシーツが敷かれた簡素なベッドで横たわるジェルメーヌの手を何時間も握りしめていた。弱弱しい風がレースカーテンを微かに揺らす中、本当はマチアスの涙に濡れた頬を撫でたかったが今や体を持ち上げる力すら残されていなかった彼女は、ますます瘦せ細り骨と皮だけになったもう片方の手で彼の腕を優しく撫でながら消え入りそうな声でこう言った。
「父さんを恨まないであげて。私は彼を愛していたの……」
(許す?俺たちを捨てた男を?母さんを結果的にボロボロになるまで追い込んだ男を?)
もともと病弱ゆえ本当は家で安静に過ごさなければならなかったジェルメーヌ。外で働くことなどもっての外だった。しかし電話や電気、プロペラ機といった最新鋭の技術が世界一普及していた豊かな国ジュネでさえも、技能のない子連れの寡婦は低賃金かつ重労働の仕事に就く他に選択肢はなかったのだ。父親さえいれば母さんは死なずに済んだんだ……マチアスの父に対する底なしの憎悪に気付いていたジェルメーヌは、死ぬ前に夫を愛していたことを伝えずにはいられなかった。
「分かったよ、母さん」
そう言ったマチアスの顔を、ジェルメーヌは寂しさと怯えが混じった複雑な表情でしばらくじっと見た。
「最期のお願いよ、マチアス……」
そう言い終わるや虫の息が荒々しい過呼吸に徐々に移り変わっていった。最期の時が近いのだ。しかしそれにも関わらず彼女の顔には苦悶の表情が一切浮かんでいなかった。
「ああ、アレン……」
心の中でマチアスにとっての父であるその男を思い浮かべていたであろうジェルメーヌは、体中に激痛が走っているにも関わらず夢見る少女のような、穢れなき魂の表出とでも言うべき表情を浮かべていた。最愛の人が、自分にとって最も憎い人間を最期に懐いながら死んでゆく。後に海を隔てた異国の戦地で幾度となく修羅場を経験することとなる彼だが、これほどまでに残酷な不条理を超える出来事には未だに出会っていない。
(母さん……この空飛ぶ乗物で、僕は貴方のいる場所に少しでも近づけたかい?)
遥か彼方の空をぼんやりと見つめるマチアス。後部座席ではしゃぐポレットとジュリアンの声は、むしろこの静寂とした雰囲気をますます際立たせた。亡き母との掛け替えのない思い出に暫く耽っていた彼だったが、何かを思い立ったようにコリンヌに話しかけた。
「コリンヌ様、飛行帽の紐をしっかりと締めてください。今から面白いものをお見せします」
「面白いもの?」
コリンヌが慌てて帽子をかぶりながらマチアスの方を見た。彼女が紐を締めるのを確認したマチアスは操縦桿を手前に引いた。コリンヌは体そのままが座席に押し込まれるような感覚に襲われた。
(うわっ、体中が圧し潰されるみたい!)
機首がぐんぐん天へと向いてゆき、太陽の姿がコリンヌの目に
「今のはループという初歩的な飛行技術です」
「え、ええ……」
「少しばかりコリンヌ様の驚く顔を見たくなりました」
マチアスはそう言って口の端を歪ませた。コリンヌは思わず口に手を当てながら噴き出してしまった。ポレットが目を回しながら身を乗り出してマチアスにクレームを入れる。
「ちょっとマチアス様ぁ。せめてアナウンスくらいしてよ!」
「ははは、申し訳ない」
マチアスがスロットルを前に押し、飛行機は一気に加速した。
「今からもっと激しくなりますよ!」
三人の体に再び強烈な圧力が加わり始める。三人とも三種三様に素っ頓狂な叫び声をあげた。
「うわわわわあああ!」
「きゃああああああ!」
「わあああああああ!」
機体は水平飛行中に右や左方向への連続360°回転を決めたり、斜めに傾いたかと思えば先程のように宙返りを決めて高度と方向を変えたり、ポレットがいつか見た曲芸飛行のように自由に空を飛び回った。シュークリームのような雲が一瞬だけ映ったかと思えば今度は別の雲が映し出され、海と空の位置が何度も入れ替わった。ポレットは体があちこちに投げ飛ばされながらもこれほど自由な感覚を味わったことがなかった。
(わたしたち、魚みたいに空を泳いでるんだ!)
◇◇◇
曲芸飛行が終わった後は4人とも一様に押し黙っていたが決して気詰まりな感じではなく、騒がしい性格のポレットですらエンジン音と風の音しか聞こえない中で心地よい孤独感を味わっていた。
(この感じ、何かに似てるわね)
飛行機は先程から沿岸に沿って延々と飛び続けていた。沿岸がゆっくりと移り変わる光景がなければ本当に前に進んでいるのかも怪しいものだった。
(ああ、そうだ。思い出した)
それはポレットの密かな楽しみである、森の教会にジャニーヌと一緒に忍び込む時に味わう雰囲気に似ていた。誰もいないその教会にはステンドグラスから木漏れ日が差し込み、外からは鳥の囀りが聞こえてくるばかりであった。信心深さの欠片もないポレットですらその時だけは初めて神の存在を間近に感じて敬虔な気持ちになったものだった。
(きっと神様はいるんだわ、だって世界はこんなにも美しいんだもの)
マチアスが急に沈黙を破った。
「もう目的地に着きます。ジュリアン様、これからが本番ですよ」
マチアスは操縦桿を少しだけ倒し、機体は地上に向かって徐々に下降していった。
◇◇◇
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