第15話

 芝生とアスファルトで舗装された広大な飛行場は学校の校庭よりも何倍も何十倍も大きかった。レンチを持った汗まみれのメカニックたちが陽気に笑いながら子供たちに手を振る。興奮したポレットも両手で大きく振り返す。


(私、今から空を飛ぶのね!)


 作業着を着た男と話し込んでいたマチアスがポレット達の元に戻ってきた。


「すぐに用意できるそうです」


 先程までマチアスと話していた作業着の男が突然ラッパを吹き始めた。その合図で作業をしていた男たちが一斉に作業を止めて倉庫めがけて走っていく。宿舎の中からも大勢の男たちがぞろぞろと出てきて同じ方向に向かって全速力で駆け出した。走りながら上着を羽織っている者までいた。慌ただしい様子を驚いた表情で眺めていたポレットに、いつの間にか長袖長ズボンの運動着に着替えていたコリンヌが自慢げに語り出した。


「数年前にこの飛行場を軍隊から払い下げてもらったの。もちろんこの敷地や設備もすべてアポリネール家の所有物よ」

「へえ~!」

「職員のほとんどはこの基地に所属していた元軍人なの。当家は軍部とも関係が深いのよ」


(うふふ、大衆小説家の娘には恐れ多い話かしら。あなたは本来ジュリアンとは対等に話もできない身分なのよ)


 両手の甲を腰に当て、顎を軽く上げ、目を細めながら鼻高々に話すコリンヌ。


「アポリネール家の手がける航空事業は原材料の調達から部品製造、第三次サービスまで一貫して……」


 ポレットはコリンヌが話をしている最中に得意の俊足で倉庫めがけて走っていった。呆気にとられたコリンヌはみるみる顔を赤くしながら体を小刻みに震わせた。


(ちょっと、話を最後まで聞きなさいよ!)


 馬鹿でかい倉庫のこれまた馬鹿でかい扉を数十人がかりで左右に開こうとしている職員たちの中に可愛らしい助っ人が一人加わり、屈強な男たちが一同笑顔になる。


「嬢ちゃん、飛行機に乗るのは初めてか?」

「うん!すっごく、すーーーっごく楽しみ!」

「そおかあ!一度あの感覚を味わったら病みつきになるぞ!空なしじゃ生きていけなくなっちまうんだ!」



 せーのぉ、せーのぉ!男たちの一斉の掛け声に合わせてポレットも声を張り上げる。掛け声と共にゆっくりと開く扉の中に朝の光が差し込んでいき、埃っぽい倉庫内部の様子が徐々に鮮明になってゆく。ワクワクが胸から今にも飛び出しそうなポレットは扉が完全に開いたところで真っ先に中に駆け込み、輝く瞳で倉庫中を見回した。


(中にも飛行機がいっぱい!)


 薄暗い倉庫の左右にはオープンカーのように屋根がない飛行機が整然と配置されている。その中で真っ赤な飛行機がポレットの目を釘付けにした。ゴツゴツしたくすんだ黄色いカラーの機体ばかりが並ぶ中、そのはっきりした色と流線形のスマートな形が殊更に目を引いたのだ。


(うわあ、か~わいい。かっこいいっていうより綺麗な形だわね。まるで可憐な女の子みたい……)


 数人の男たちがその機体の周りを取り囲み、息を合わせながらお尻側から倉庫の外に押していった。アスファルトの上に立ったそのエレガントな機体は朝の日射しで鮮やかな紅をより一層輝かせる。


(私たち、この子に乗るんだ!)


 ポレットの胸は否応なしに高まっていった。


「ポレット様もお被りください、すぐに出発します」


 いつの間にか隣に立っていたマチアスが、ポレットに耳まで覆い隠す毛皮の帽子とゴーグル、彼女には少し大き過ぎる厚手のジャケット、そしてお弁当箱よりも小さな機械を手渡した。


「マチアス様、この機械は?」

「これが先日お約束した小型カメラです」

「うわー、ちっちゃーい。これなら確かに私でも持てるわね」

「隣国クヴァントの顕微鏡メーカーが試作したものです。クヴァントは精密機器に関しては世界一ですから」


 そう言いながらフライトキャップのアゴ紐を締めるマチアスはジャニーヌと二人でこっそり見たアクション映画の精悍な戦闘機パイロットのようだった。ポレットは赤らめた両頬に手の平を添えながら一人悦に入った。


(マチアス様ったらワイルドな恰好も似合うのね~。ああ……このお姿をブロマイドにしてしまいたいわ。早速このカメラを試してみようかしら……)


「ポレット、こっちこっち!」


 聞き覚えのある声がポレットを現実の世界に引き戻す。でもその声は普段より少し高く張りがあった。ポレットが目を向けた方向には飛行機の後部座席で元気よく右手を振るジュリアンがいた。どうやら彼も気が昂っているようだ。


「実は僕も飛行機に乗るのは初めてなんだよね。いつも搭乗前の夜に墜落する夢を見ていたから怖くて乗れなかったんだ」

「昨日もその夢を見たの?」

「ううん!ポレットが飛行中に羽の上で両手を広げながら踊っている夢だったよ!」


 コリンヌもすでに前座席に乗っていた。背筋を伸ばして両手をきちんと膝の上に乗せている彼女は、ゴーグルを被っていてもお上品な澄まし顔をしているのがなぜだか伝わってしまう。


「ポレット、そこの足台に足を乗っけて」


 ゴーグル姿のジュリアンが身を少し乗り出して右手を伸ばした。


「う、うん……」


 片足を台の上にのせてジュリアンの手を握ったポレットは少しだけ胸がどきどきしてしまった。実はシモン以外の男の手を握ったのはこれが初めてだったのだ。ジュリアンはその手を強く引っ張り、そのまま両手でポレットの肩と腰に手を回して抱き抱えた。


「ひゃあっ!」


 彼はふわりと体が持ち上がったポレットをそのまま自分の隣の座席に座らせた。


(なによ、思ったより力があるじゃない……)


 ジュリアンの大胆なエスコートに思わず胸をドギマギさせるポレットに対し、ジュリアンが少し得意げに笑った。


「ほら、僕だってレディファーストができただろ?」

「ま、まあ初心者の割にはいい線だわね」


 こんなことは慣れてますわよと言わんばかりにお澄まし顔でツンとそっぽを向くポレット。ジュリアンの思わぬ行動に心拍数が早まってしまった彼女は、背けた顔を赤らめながら頭の中でこのときめきを全力で否定しにかかった。


(これはジュリアンがゴーグルをしているからよ!俗に言うゲレンデマジックってやつに違いないわ!)


 マチアスが操縦席に乗り込み出発の準備も整った後、年老いてはいるが逞しい体つきをした職員がプロペラの前に立って一礼をした。


「それでは良い旅を」


 男はプロペラを両手で下方向に強く回し、そのオールの柄を繋ぎ合わせたような装置はパチパチパチという爆竹が鳴るような音を出した後に高速で回転し始めた。エンジンのゴオオオオオっという轟音が機体を激しく震わせ始める。


(うわああああ!自動車とは比べ物にならないわ!)


 飛行機の両側に整列した男たちがポレットたちに向かって手を振ってくれた。その粋な計らいにポレットも全力で手を振り返している最中、赤い機体は最初はゆっくりと動き出した。


(………!!……!)


 ジュリアンが隣から話しかけているようだが慣れない轟音と緊張でうまく耳に入ってこない。ポレットは柄にもなくがちがちに体を強張らせていた。機体は徐々に速度を上げていき、気付いた時には目の前の風景が車で街中を走る時とは比べ物にならない程素早く移り変わっていた。恐怖が頂点に達したポレットは思わず目をつぶってしまった。そしてその数秒後に急に体がふわりと浮いたような気がした。


(なに?何が起きたの?)


 暫くしてから勇気を出して目を開いたポレットの視界には、ミニチュアのように縮んでしまったアスファルトや倉庫と共に遥か彼方まで広がる大海原が映し出されていた。


◇◇◇

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