第14話

「忘れようったって忘れられるもんじゃないわ!だってあんな小柄なおじさんが不良三人をあっという間にのしちゃったんだから!体の使い方を覚えれば女でも屈強な男に立ち向かえるってことなのよ!」


 ポレットは目を輝かせながら、当時の出来事をいま目の前で起きているかのように思い出していた。


「まあ、素晴らしいわ」


 コリンヌも笑顔の前で両手を組み、表向きは感動している風を装った。


「それに文化交流ってことで稽古が無料なの。うちは裕福ではないから学費でいっぱいいっぱいなんだって。だから無料ならとことん教えてもらいなさいって両親も空手に賛成してくれたのよ」

「あらあ、親御さん思いなのねえ。泣けるわ」

「それにね、稽古が終わった後に領事館の中にある”銭湯”っていう大きなお風呂に入らせて貰えるの。汗を流したあとの銭湯って本当に気持ちいいんだ」

「わあ羨ましい、我が家のお風呂とどちらが広いかしら」

「私ね、いつか写真家になって世界中を飛び回るのが夢なの!だから付属の中等部では映像科に進むつもりなんだ。空手だけじゃない、ジャポレーンだけじゃない、世界には私たちの知らないこと、驚くことがたくさんあるのよ!!それって素晴らしいことだと思わない?」


 ポレットの熱のこもった話を聞いていたジュリアンが興奮気味に言った。


「すごいや!ポレットはもう将来なりたいものが決まっているんだね!」

「ま、まあね。いや~照れるわあ」


 間の抜けた顔でデレデレするポレット。このお転婆娘がおだてにとことん弱いこともコリンヌの記憶回路に焼き付けられた。


「あのさ、カラテ……だっけ?それって僕も通えるかな?」


 ジュリアンが少し恥ずかしそうに聞いてきた。


「うん?来る者は拒まずだしいいんじゃない?1学年のジャニーヌだって今年から通っているんだから大丈夫よ。なんなら私とジャニーヌと一緒に学校帰りに行く?」

「本当?僕でも強くなれるかな?」

「強くなっていくのは本当に楽しいわよ。”道場”という稽古場でのレッスンは週三回だけど、家でも毎日練習しなくちゃいけないのよ?あんた続けられそう?」

「できるさ、きっと続けてみせる」


 ジュリアンのやる気に満ちた表情を見たポレットは、ほんの少しだけ彼を見直した。


(なんだ、男の子の顔もできるじゃない)


 コリンヌはそんな彼に水を差すかのように、笑顔で、だがはっきりとした口調でそのの願いを却下した。


「あら、ジュリアンにはそんな野蛮なことはさせないわ」


 盛り上がっていた車内が水を打ったように静まり返った。そんな中、コリンヌだけが場違いな笑顔を浮かべ続けている。


(や、野蛮、野蛮なのかしら……)


 ポレットには”野蛮”の一言が胸の深い部分にまで突き刺さってしまった。野蛮、下品、女の子らしくない……最近読み始めた恋愛小説の可憐な少女に憧れる彼女はその手の単語にいちいち反応してしまう。


「気を悪くなさらないでね。当家の子弟は乗馬、フェンシング、スケート、水泳、体操といった一流のスポーツを嗜むと決められているの」


(ぐっ、金のかかるスポーツばっかりね)


 金持ちに対する庶民の劣等感でますます気落ちしてしまったポレットだが、一方でジュリアンには少し同情してしまった。


(こいつちょっと可哀そうね。やりたいこともやらせてもらえないなんて)


「ジュリアン、あなたはアポリネール家の男児として一流の素養を身につけなければならないわ。殴る蹴るだの乱暴な習い事は一切許しませんよ」


 そう諭すコリンヌの声は氷のように冷やりとしていた。


「僕は……乗馬なんかに興味はないよ。だいたいコリンヌが決めることじゃないさ」

「そうかしら?ママはなんて言うかしらね?」

「ママはきっと賛成してくれるさ。だいたい過保護はやめろって言ったじゃないか」

「だからこれは過保護じゃないわ。あなたを正しい方向に導くのは姉としての義務よ。だいたいあなた……」


 コリンヌの語調が徐々に強くなっていった。ポレットの手前努めておしとやかなお嬢様を装っていたものの、愛する弟のことになるといつも周りが見えなくなってしまうのだ。


「だいたいあなた、未だに寝る前にママに本を読んでもらっているじゃない。そんな男が、ええと、カラテだっけ?格闘技だなんて笑わせないで」


 ジュリアンは顔を真っ赤にして俯いてしまった。ポレットの前では絶対に言ってほしくない事実だった。


「まあまあ、私もジャニーヌも未だにパパに本を読んでもらっているし」


 徐々にヒートアップしてきたコリンヌは宥めるポレットを無視して愛する弟を追い詰め続ける。


「あなたは世間でいうところのマザコンなの。世界一みっともない男たちのことよ。お姉さん、そんなジュリアンが心配で仕方がないのよ。ママから精神的に巣立つためにも、私が一生お目付け役として正しいやり方で成長させてあげるって言っているの」


(どういう理屈だよ……)


 ポレットはコリンヌの矛盾した言動を呆れた表情で聞いていた。先程から黙って運転していたマチアスが堪らずフォローに入った。


「コリンヌ様。差し出がましいようで恐縮ですが、ジュリアン様はご自分の意思で空手を始めたいと仰っているのです。それは紛れもなく健全な成長の証ではないでしょうか?」

「マチアス、あなたはどこまでジュリアンに甘いの?単なるワガママを向上心と取り違えないで。あなただけじゃない、ママだってそうよ。そんな人たちには一秒たりともジュリアンを任せておけないわ」


 そう言ってコリンヌはポレットの方を向いた。天使の清らかな笑顔に徐々に高慢さが加わり始める。


「私、ジュリアンのことならなんでも知ってるの。私たち、ずーっと一緒に育ってきたし、私がずーーーっと面倒を看てきたのよ」

「コリンヌ!」


 ジュリアンは怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情で抗議をした。


「あら、本当のことじゃない。女の子の前だからって恰好を付けないで頂戴」

「か、恰好なんてつけて……」


 ポレットの方を向いているコリンヌの表情が、いつの間にか小悪魔に切り替わっていた。


「この子ったら女の子に慣れていなくって……あなたにも随分失礼なことを言ったみたいね。女の子に対してボディガードを頼むなんて」

「ま……まあ……確かに失礼だったわね……」


 ジュリアンはまた元の気弱で頼りない少年に戻ってしまった。


「だ、だからそれは照れ隠しって言ったじゃないか」


 赤い顔をして俯くジュリアンを見たコリンヌは満足気な表情を浮かべ、愛犬を可愛がるかのように彼の背中を優しく撫でた。


「でもね、ボディガードどころか何のお手伝いもする必要はないわ。あなたは今日お客様としてジュリアンの側にいてくれるだけでいいの。ジュリアンは私が守り、私が教育をする。この子を強くするためには私が側にいる必要があるのよ。ねえジュリアン、二人で一緒にシルヴァンの鼻を明かしましょうね……」

「はあ、そうなんだ……肝に銘じておくわ」


 ポレットは先程の楚々とした少女とあまりにかけ離れた今の彼女とのギャップに若干引き始めていた。そしてコリンヌに碌に逆らえない情けないお坊ちゃんには若干どころではなく……。


(マザコン&シスコンかよ……。将来こいつと結婚する人は苦労するわね……)


 ……完全に呆れ果てていた。ポレットのジュリアンに対する評価は、もはや海抜ゼロメートル地帯どころか地底100メートルあたりにまで陥没してしまったのだ。


◇◇◇


 車はいつの間にか街を抜けて、フェンスで囲まれただだっ広い敷地沿いの道路を走っていた。右手のフェンスの先には二枚の羽を重ねたプロペラ機が何十台も並んでおり、楕円形の屋根をしたレンガ造りの倉庫やテントがそこかしこにあった。


「わああああ!」


 生まれて初めて見る飛行場。父親の小説を読んでいる時にいつも感じるような、胸の底から突き上げるような冒険の予感。朝日を浴びた飛行機の反射光でポレットの目がキラキラと輝いた。彼女は車の窓を開け、そこから恐る恐る頭を出した。冷たい風が容赦なく彼女の顔に吹き付ける。


(気ん持ちいいーー!)


 微かに潮の香りがする。海がすぐ近くにあるのだ。朝の服をめぐるひと騒動でおさげを編み損ねたポレット。彼女は肩まで伸びた髪をなびかせながら、朝のヒンヤリとした空気を肺の奥まで吸い込んだ。


◇◇◇

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