少年

憂鬱

第1話

「生きてる価値が無いよ」

哀れむように眉根を寄せた父親に、ごめんと小さく謝って秋人はカバンを手に取った。

革靴を履いて玄関の扉を捻る。

いってきます、と呟いた声は誰にも聞かれずに萎んで消えた。





左右にゆらゆらと揺れる椅子に腰掛けて秋人はぼんやりと外を眺めていた。平日の特急列車は人が少なくスーツケースを持った大人がちらほらと座席に座っているだけで、制服姿の秋人は随分浮いて見えた。窓枠の中では聳え立つ人工物が次々に流れ忙しなく景色が変わる。先程からポケットの中で震え続ける端末に気が付かないふりをしてじっと窓を見つめる。ぽーんと軽い音が車内に響いて、数人の乗客がぱたぱたと降車していくのが見えた。停止していた車体がじんわりと動き出してまた走り出す。窓枠の景色に人工物が映らなくなり、代わりに三角屋根の家や禿げた草木が登場したのを見て秋人はようやく椅子にもたれかかった。秋人は車両に自分以外の乗客がいない事を確かめてからゆっくり背もたれを倒しふぅと息をついた。張り詰めていた糸が少し緩んで体が弛緩する。降りる駅の名前を確認しようと端末を見れば夥しい量のメッセージと着信履歴がずらりと並んでいた。びくりと脈打った心臓を抑え電源を切りカバンの中へ放る。ゆらゆらと揺れる椅子に体を預けながら制服の袖をギュッと握った。滑るように揺れ動く車内が微睡を誘い、覚えてもいない揺籠を連想しながら秋人は眠りについた。



その時秋人は教室の真ん中でぽつりと突っ立っていた。いつもは騒がしいこの場所も1人でいると全く違う場所に思える。ふと、立て付けの悪い扉がガタガタと震えて擦りガラスの向こうに人影が写った。人影は教室へ入ってこようとしているが、鍵が掛かっているらしい扉はガタガタと揺れるだけだった。コンコンとノックをされて「開けてくれ」と声が聞こえる。と、同時に授業を知らせるチャイムが鳴り響いた。

秋人しかいない筈なのにくすくすと小さく笑う声が聞こえる。嘲る様なそれが不快で、扉の向こうの人影に少し同情した。

「開けなさい」と先程より怒気を含んだ男の声が聞こえても笑い声が止まることはなかった。秋人は同情心と罪悪感に襲われゆっくりと扉へ近づいてかちゃりと鍵を解除した。ガタガタと揺れるだけだった扉は呆気なく開かれ、途端に鎮まり帰った教室にスーツを着た男が不機嫌な様子で入室する。チッと誰かが舌打ちをしてガタリと机を揺らした。

「学級委員長は後で職員室に来る様に」

怒りも悲しみもない無表情な声色で男はちらりとこちらを見た。教科書を開いて、と静かに話始めた男に従う影はどこにもなかった。



秋人が目を覚ますと窓枠の向こうは高い山々ばかりであった。引き返せないところまで来た、と嫌な汗が流れたがそれもまた非日常的な逃走劇へのスパイスに過ぎない。自由を求めた少年が学校をサボって家族にも内緒で特急列車に飛び乗る、なんて思春期にはありふれた妄想だろう。

秋人は自虐めいた笑い溢して窓を見やる。山々の隙間から覗く青い水平線がこれが妄想では無い事を証明する様にキラキラと光を放っていた。



特急列車を降りるとヒヤリとした風が秋人を包み込んだ。田舎特有の冷えた空気が心地よい。最近は観光地として開発が進んでいるのか田舎にしては広くて綺麗な駅を歩く。秋人と特急列車を降りたのは数人だけで、3人組の老女が慣れた様にホームのベンチに腰かけた。

次に乗る電車を確認しようと端末に手を伸ばして、やめた。秋人は時刻表を探して人気のないホームを歩き始めた。

次の電車は30分後に来るらしい事を確認して、ホームの端っこのベンチを陣取る。先ほどの老女たちが反対側にいることは分かっている為周りを気にする必要もない。此処に自分を知る人間は誰もいないと分かった瞬間、目的は達成された様な気がした。秋人は自由を求めて、手に入れたのだ。

ベンチにカバンを放って誰もいないホームでくるくると回りながら鼻歌を歌う。心が晴れやかで息を吸い込む度にツンと冷える肺だって心地よい。胸元に付けた学級委員長を示すバッヂを外してカバンへ放り、首元を覆う一つ目のボタンを外してグシャリと髪をかき混ぜた。嘲笑、嫉妬、嫌味や駆け引き。悪意に満ちたあの教室は精神的に良くない、と秋人は思った。大体、一つとして同じ物はない数十個の生命体をあの小さな箱で飼育しようなんて難しい話なのだ。好きな様に蠢いて自身の快楽だけを追って時に他を貶める。実際、秋人は虐められている訳ではなかった。ぼっこぼこに殴られたり徹底的に無視されたり、証拠になる様な傷跡をつけてくれればいいのにそれさえもしてくれない。せいぜい舌打ちされたり机がズレていたり、秋人の机の上でお菓子パーティーが行われるくらいだ。最も、お菓子パーティーの清掃員は秋人なのだけれど。

今日も先生を閉め出しているのかな、と扉に鍵をかけるあいつの姿を思い浮かべていると、ベルの音が電車の到着を知らせた。空っぽの電車が目の前に止まる。電車の窓に写った自分があいつと同じ姿をしていて秋人は髪を撫で付けながら第一ボタンを閉めた。



鈍行列車は焦ったい位にゆっくり進む。じわりじわりと目的地に近づく中で秋人は困り果てていた。目指すは母方の祖父母の家。幼い頃は良く遊びに行っていたが最近は随分ご無沙汰している。1人で行くのも初めてだし、自分の事を分からなかったらどうしようと、秋人は今更不安に駆られていた。学校へは行きたくない、家へは戻れない。頼る当てを探して、離れた港町に住む優しい祖父母の顔が浮かんだ。

でも今、それさえ逃げ込める場所では無いと正気に戻り掛かった理性がゆっくりと警笛を鳴らし始める。祖父母の家は駅の目の前だけれど、素通りするのなんて簡単な事だ。まずは海を見に行こうかなと再び逃避を始めた脳みそで端末の電源を入れた。海を探すよりも先に映るのは電源を切る前に見た時とそれ程変わらないメッセージの量。殆どが母親からだったがたった一件だけ、父親からのメッセージ。

秋人はすっかり気持ちが楽になって端末を放って脱力した。じんわり視界が滲んで鼻がツンと熱くなる。誰もいない車両でぐったりと手足を投げ出して天井を見つめながらぼろぼろと泣いた。


「死んでいいよ」


逃げる場所はずっとあったんだ。気が付かない振りをしていた希死念慮がそろりと秋人の肩を掴んだ。今までの人生も積み重ねた努力もこれからくる未来だって全部壊してぐちゃぐちゃに刺して死んでしまいたくなる。此処じゃ無い何処かに逃げて貴方じゃない誰かに縋って頼って泣いて楽になりたかった。太陽の光に当たってキラキラと輝く海面がこっちだよと、手招きしている気がした。



電車を降りてとぼとぼとホームを歩く。逃げる場所は決まったから、もう何も恐れることは無い。セーブデータを消してしまえば綺麗さっぱりこの世とお別れなのだ。今なら裸で街を走っても平気だな、と思いながら秋人は真っ赤に腫れた瞼をぐいと擦った。いつの間に設置されたのか自動改札機にカードを翳す。するとピーっと高い音が鳴り響いてパネルが真っ赤に染まった。

金がねぇ。

秋人は準備もせず勢いでここまでやってきてしまった事を後悔しながら窓口へと向かう。この頃には心臓がぶよぶよと跳ね回り血管がどくどくと音を立てて体中を走り回っていた。


「三千と六百七十円ね」


年老いた駅員が青いトレイを目の前に差し出した。秋人は焦りを悟られない様にカバンを探り小さな財布を取り出した。元々学校と家を往復するだけの使われない財布だ。その中身が大したものでは無いことを分かっていた秋人の体はすっかり冷え切っていた。小さく折りたたまれていた三枚よ千円札をトレイに置く。駅員がそれを丁寧に伸ばしている前で財布をひっくり返してじゃらじゃらと小銭をぶちまけた。想像よりも大量の小銭が飛び出して少し安堵するも未だ緊張は解けない。

大量にあった十円玉をかき集めて百円に換算する。一円玉が十枚あって十円分。先ほどまで裸で街を走れるなんて考えていたがまさかこんな辱めを受けるとは。金が足りなくて改札を通れないなんて恥ずかしい話は無い、と秋人は駅員が小銭を数えるのをハラハラと見守った。


「二十円、足りないね」


ここに効果音がつくとしたら間違いなく『ガーン』である。秋人は頭の血がサァと足元に流れるのを感じながら脳みそをフル稼働させる。

どうしよう、とちらと駅員を見れば対照的に落ち着いた様子で秋人を見つめていた。


「そこにお母さんいる?お金持ってきてからでいいよ」


二十円くらいまけてくれよなんて無粋な思考を振り払って秋人は駅を飛び出した。日が暮れかかった港町はさらに冷え込み秋人はぶるりと身震いする。ここで逃げ出したってどうせ死ぬんだから秋人には関係ない、がそんな考えは秋人には浮かばなかった。罪悪感でいっぱいになりながら駅の目の前にある祖父母の家を叩く。扉が開くと記憶の中よりもずっと小さくなった祖母が秋人を見て驚いた様に目を見開いた。


「秋ちゃん、どうしたの」


「ごめん! 二十円頂戴!」


数年ぶりの再会での第一声は謝罪であった。訳も聞かずに小銭を取りに戻った祖母は「二十円で良いの?」ときっかり十円玉を二枚、秋人に手渡した。

それを持って今来た道を走って戻る。小銭を受け取った駅員がしわくちゃな顔をニコリと歪めて微笑んだのを見て、秋人は今日一番大きな溜息をついた。



その日の夜、車でやってきた母親と並んで祖父母の家で食卓を囲んだ。二十円を借りたことによって祖父母を無視して死ぬことはできず、言われるままに両親へ連絡。電話越しにこっぴどく叱られたがやってきた母親は酷く安堵した様子だった。

夕食の話題は二十円で持ちきりである。

駆けつけて来た叔母さんがおかずを摘みながら楽しそうに話す。


「お婆ちゃんからメールがきてさ、『秋が来ました。』って。 まさか秋人のことだって思わないから、急に俳句でも詠み出したのかと思って。」


ドッと笑いが起きて、秋人は縮こまる。酒で顔を真っ赤にした祖父が「孫に会えて嬉しいなぁ」なんてニコニコ揺れるから秋人は今度こそ死にたくなった。


一晩泊まって明日、母親の車で帰ることになった。埃っぽい布団を二枚並べて母親の隣にごろりと寝転がる。食べ過ぎで窮屈な腹をさすりながら秋人はぽつりと言った。


「父さん、怒ってた?」


母親は困った顔をして、それから笑った。


「怒るより心配してたよ。 帰ったら謝りなさい。」


母親が外したメガネが予備用のものだと気がついて秋人はふいと目線を逸らした。


「明日、帰る前に何処か寄ろうか。 どこか行きたいところある?」


楽しそうな声色で話すから秋人も少し楽しくなって目を閉じてぐるぐると思案した。


「海を見に行きたい」


良いね、と笑った母親が電気を消して部屋が真っ暗になる。来る予定のなかった『明日』に備えて、秋人はどろりと眠りについた。


「それじゃあ、おせわになりました」

頭を下げて祖父母に礼を言う。迷惑をかけてしまった罪悪感がやっぱり胸が痛くて秋人は顔を俯かせた。家の前まで見送りに出てきた祖母が去り際の秋人の手をとって小さな封筒を握らせる。


「秋ちゃん、また来てね。 秋ちゃんに会えたから、二十円足りなくて良かった。」


待ってるね、と優しそうに笑った顔は記憶の中と同じ表情だった。窓から手を振って、車が風を切る。車の中で封筒を開けると片道分の列車賃が入っていて、それを見た母親が「また行けるね」と悪戯っぽく笑った。


秋人に纏わりついていた希死念慮は少しなりを顰め、あれほど逃げ出したかった日常へ呆気なく戻っていった。父親のことも学校のことも何も解決してないけれど今回の逃走劇で分かったことがある。

左右にゆらゆらと揺れる椅子に腰掛けて秋人はぼんやりと外を眺めた。


「僕の命の価値は、せいぜい、十円玉が二枚程度ってこと。」


窓から見える海はキラキラと波打ってハヤクハヤクと少年を誘っていた。

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少年 憂鬱 @akitarita

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