第3話 横浜三丁目 咳唾玉(がいだたま)をなす宝探し


 神奈川県横浜市。その中心地区にある港湾地区。横浜公園と日本大通りから少し入った官庁街の手前には、商店街の建物の間をぬって住宅マンションが建ち並ぶ。プロ野球のシーズンになるとナイター照明や出店の灯りで、公園の周りは華やかだ。昭和の終わりに建てられたマンションを引き払うために、内見に訪れた女性がいる。年齢はもう八十歳近い。既に他界したマンションの部屋の持ち主の男性、今川義人いまがわよしとは、近くの大学のフランス文学の教授だった人で、内縁関係にあった彼女に遺言状を残していた。


『マンションの権利と木製の書棚に入っているものは、写真立てを含めて全て清少納子きよすのうこに相続する』


 公的な立場の人間に郵送されていた遺言状。こう書かれた遺言に従って、鍵を弁護士から受け取り、今まさに内見に赴いたというわけだ。

「この歳の私に譲ると言ってもねえ。しかも元小料理屋の女将だった私は、文学の本なんて読まないし、どうしようかしら?」


 一人ぶつぶつと言葉を発しながら、エレベーターは最上階の十一階に着いた。この階だけは区割りが二部屋しか無い贅沢な造りだ。お隣は会社役員のご夫婦がお住まいというが、付き合いは無かったようだ。


 もともとフレンチポップが好きだった納子は、店の常連だった今川とそんな話をするうちに意気投合して、一緒に暮らし始めた。俗に言うねんごろの仲だ。やがて子供を授かると、職業柄、立場上今川は誠意を見せるため彼女に求婚するが、気ままな小料理屋の女将でいたかった納子はそれを断る。大学教授という彼の立場をわきまえた彼女の思いやりでもあった。


 娘の和泉いずみを認知してもらい、納子は娘と同居していたが書類上は父姓で育てていた。彼女自身の身分は相変わらず、内縁関係のままだった。今で言う事実婚だ。それから四十年の月日があっという間に過ぎて、店もたたみ、娘も巣立ちして、独り身で高島町の住み慣れたアパートで一人暮らしを続けていた。


「あ、おかあさん、遅かったじゃない」

 部屋の前で四十歳近い女性がつまらなそうに壁に寄りかかって、彼女を待っていた。

「和泉ちゃん、ごめんね。今鍵出すから」

 そう言って、がさごそとハンドバッグの中をまさぐって、マンションの鍵を取り出した。

『ガチャリ』と重い金属音とともに錠が放たれる。


 ノブを回して中に入るときちんと整理整頓された部屋に、勉強机とサイドボード、木製の本棚が配置されている。壁などは経年の劣化で煤けてはいるが綺麗に整頓された各所は故人の性格のまめさを映していた。


 書棚にはラブレー、モーパッサン、ボードレール、ランボー、ジャンジャック・ルソー、ユーゴー、ジュール・ベルヌ、スタンダール等々、分厚い箱に入った本が寸分違わぬ間隔で棚に収められている。原書もあれば、翻訳書もある。文学研究者の書棚という感じだ。


「あーあ。こんなの私、絶対読まないわ。何であの人、私宛に残したのかしら? あの人の意図が分からない。即古本屋行きね」とため息の納子。


「お父さんは遺言状で、この本棚と部屋の権利をお母さんに渡すことにしたのよね」

「うん」

「そっか……」と含みのある表情で本棚を見つめる和泉。

「何?」と納子はその顔つきが気になる。

「あの細工好きのお父さんが、こんなシンプルな遺言状で終わりにしているのが気になるの」

「そりゃあ、遺言状に仕掛けや装飾は出来ないわ」と返す納子。


 納子の当たり前という風な台詞には、意見ありそうな顔を見せる和泉。

「ううん。そんな単純なモノじゃ無いと踏んでるから、私、知人の須磨子ちゃんに紹介してもらった探偵さんを頼んだの」

「ええ? 探偵って、なんで?」

「お母さんはあまり知らなかったでしょうけど、お父さんは絶対にお母さんに他の何かを残しているのよ。私はそう思っている。だからわざわざ本棚に入っているモノを譲る、って書いたんだわ。これは親子の間にある以心伝心、いわばカンよ」

「そんなものかしら?」

 深く考えずに返す納子。


 暫くしてマンションのドアをノックする音が聞こえる。

「はい」

 ドア越しに返事する和泉。

「逢野探偵事務所です」と青空麻鈴あおぞらまりんの声がする。

 案の定、乗り気で無い探偵の逢野おうのは、首根っこをつかまれて連行されてきていた。

「もう観念してください」

「そういうのは代書屋にでも相談すれば良いのに……」

 ごにょごにょと、歯切れの悪い言い分けを繰り返している逢野。相変わらず冴えないよれよれのスーツと無精髭だ。


 一方の麻鈴はカラフルなシャツとチュール・スカート。若者ファッションだ。


「こんにちは。助手の青空麻鈴と申します。こちらが当探偵事務所の所長の逢野安間郎おうのやすまろうです」


 軽い自己紹介が済むと、和泉は、一礼して「中へどうぞ」とすすめた。

 その時和泉は、逢野の顔を見て、「はうっ」と両手で口を塞いだ。彼の顔に何か覚えがあるのだろうか?



 二人は持参したスリッパを鞄から出すと、それを履いて部屋に入った。麻鈴の肩には姿を消した飼い猫のサリーが載っている。透明猫だ。サリーの協力無くして麻鈴の推理は成り立たないからだ。麻鈴と逢野は納子に軽く会釈をすると、テーブルの上に置かれた遺言状を見つける。日付も入って間違いの無い物だ。二人はすぐさま文脈の不思議さを感じる。


『マンションの権利と木製の書棚に入っているものは、写真立てを含めて全て清少納子きよすのうこに相続する』


「これが遺言状ですね」と麻鈴。

「はい」

 和泉の返事を聞いて麻鈴は静かに頷く。

 広げられたその遺言状を見て、

「わざわざ写真立てを強調した文脈だわ。まるで写真立てを見てくれと言ってきているように」

 サリーは姿を隠したまま、麻鈴の肩から降りると部屋中を見回してみる。やはり文意に沿って本棚には、本だけでなく唯一写真立てが置いてある。


「おい麻鈴、規則性から言うと、この写真立ておかしいぞ。この整理具合を見るに、本棚には本以外は置きたくないというタイプの人間だろうに。例外的に、いやとても不自然に写真立てだけがこんな場所に置いてあるのは変だ。遺言状の内容も含めて、この写真立てになにか裏があるな」


 もちろんこの言葉は麻鈴だけに聞こえている。彼女は無言で頷く。


 だが逢野にはサリーの声が少しだけ聞こえたようだ。

「いまお前さんの飼い猫の鳴く声が、ニャーと聞こえたような?」

 慌てて否定のジェスチャーを見せると、麻鈴は、

「嫌だな。幻聴ですか? これだから歳行くと困りますよねえ」と誤魔化す。

「そっか、幻聴か。オレもヤキが回ってきたかなあ」と自分の肩を叩く逢野。

「そうですよ」

 そう言いながらハンカチで冷や汗を拭き取る麻鈴。

 対して、腑に落ちない顔ではあるが、一応、疲れた声で納得する逢野。

「そうだよなあ」


「ねえ、あの写真立て取ってもらえます」

 背伸びしても届かなそうな本棚の一番上の段に置いてある写真立てを指さす麻鈴。

 逢野は、「済みません。この写真立てを拝見しても良いですか?」と納子と和泉に了解を取る。

「どうぞ」と二人の返事。

 裏返してあった写真立てを取ると、そこには義人、納子、和泉の親子三人で写した古い写真が入っていた。

「ご家族のお写真ですね」と麻鈴。


 麻鈴は写真立ての後ろ側を向けると、裏蓋を止める四隅のフックをひとつずつ横にずらして解除した。

 たちまち写真立ては、ガラス部分の額縁を兼ねた表面おもてめん、写真そのもの、裏紙の台紙、フックの付いた裏蓋に分解される。

 そこで麻鈴は裏紙の台紙に何かが挟まっていることに気付く。引き抜いてみると、綺麗な一筆箋いっぴつせんにアルファベットが綴られている。


『ma belle, clef, Le rouge et le noir』


「フランス語ですねえ」と麻鈴。

「分かる?」

 皆に尋ねるが答えは『ノー』という顔つきだ。

 その中で珍しく逢野が「分かるよ」と言って、その一筆箋を手に取った。

「マベル、クレ(フ)、ル ルージュ エ ル ノアールだ」

 驚いたのはサリーだ。姿は見えないが、しっぽを立てて目を大きく見開いたまま驚いている。

「おい、このおっさん、フランス語読んでいるぞ!」

 麻鈴も初めて探偵らしいところを見て、仰天している。


「みな単語だ。文章では無い。順に、私の愛しい人、手がかり、そして『赤と黒』だ」

「赤と黒?」と麻鈴。


「色の種類じゃ無い。故人の職業から察するに、フランスの作家、スタンダールが書いた十九世紀の小説のタイトルだ。立身出世を夢見る若者の生きた時代の世相と社会を描いた物語で、軍服の赤と聖職服の黒を表す文学作品だ」


 初めて覇気のある顔で説明をし始めた逢野にミスマッチさを感じる麻鈴。こんなに生き生きした彼を見たことはない。


「いつもの姿からは想像もつかないんだけど。逢野さん、小説なんて読むの?」

 仕事を忘れて、素で質問してしまう麻鈴。

「悪いか? こう見えても若いとき、大学時代は演劇青年だ」と笑う。


「人は見かけによらないわね」と麻鈴。


 サリーは憎まれ口のように、「このおっさん、大学出ていたのか? 知性のかけらも見えなかったんだが……」と呟く。

 麻鈴は軽く笑うと、その三つの単語が意味することを推理し始めた。彼女が何かを言おうと和泉の方を振り返った時、わずかの秒差で既に逢野が和泉に話しかけていた。


「この三つの単語は片言だが文章のように並んでいるので、愛する人に伝えます。鍵となる手がかり、それはスタンダールの『赤と黒』です、と解釈してはいかがでしょう」


 和泉はふと我に返り、「はい」と返事して、本棚の『赤と黒』を探し始める。逢野も手伝うように、何冊かを抜き取る。テーブルの上には外書、翻訳を合わせて五冊の『赤と黒』が置かれた。他に取り残しはないか、十分に確認する和泉と逢野。


 出し抜かれた形の麻鈴は、渋い顔で納得いかない表情。ぶすっとしている。逆に今日の逢野はいつもと違って冴えている。悔しいが惨敗だ。


 取り出した五冊の中から化粧箱に入った一冊に目星を付ける逢野。

 案の定、化粧箱の書かれた作者とタイトルの下に『訳 今川義人』と故人の名前があった。そして化粧箱に入っていたのは本では無く、その本のサイズに合わせて切られた木片だった。それを化粧箱から引き抜く。出てきたのは、いわゆる「くりぬき」だ。木片の真ん中がくりぬいてある。そのくりぬいた溝の部分に銀色に光る鍵と何かのメッセージが書かれた紙が出てきた。その紙には今風の二次元光学読取コードの図案が印字されていた。


「やっぱり」と逢野。


 まずは紙に書いてある文章からである。四人はテーブルの上にあるその紙に目をやる。

『招待状 まずはこのメッセージを見つけてくれてありがとう。ここにある鍵は下のQRコードを読み取って、映し出される地図の場所に行ってほしい。そこには僕と納子さんの思い出があるんだ。もちろん和泉も一緒にね。パパがママをどれだけ愛していたかが分かるよ』


 読み終えた納子は、

「何言っているんだか。白髪だらけのおじいさんのくせにロマチック風気取って」と軽い悪態を放つ。もちろんそれは長年連れ添った夫婦ゆえの愛情の裏返しと誰もが分かるモノだ。


「では和泉さん、QRコードを読んでみて」


 麻鈴の言葉に「はい」と言って頷くと、バッグからスマホを取り出して、カメラ機能から図案を読み取る。

 するとマップアプリが立ち上がり、ナビ機能でそこまでの道順が画面に表示された。




 四人が辿り着いたのは私鉄の平沼橋駅にほど近い一戸建ての平屋住宅である。一筆線と一緒に入っていた銀の鍵を取り出す和泉。

 木製の重装感ある大きな戸に開いた鍵穴。差し込んだ鍵を『ガチャ』っと回し、やや重めの音がすると扉は開いた。ほぼ生活感のない、新築の匂いのする家である。


「お母さん、知ってた?」

「知るわけ無いわ」


 玄関の横には白い陶器製の表札に『清少 今川』と二つの名字が並んでいる。

「私とお母さんで住めってことかしら?」

 和泉の言葉に納子は、

「とりあえず入ってみない?」と和泉に家の探索を優先させ、次のステージへと喚起する。

「わかった」


 心地よい木の香りに包まれながら玄関で靴を脱ぐ納子と和泉。

 和泉は、麻鈴と逢野に「どうぞ」と中に入るよう勧めた。

 リビングには一通の大きな角形の封筒が置いてあり、その表には『納子と和泉へ』と鉛筆書きでこれもまた大きな文字が書かれていた。今川の文字である。

「パパの字ね」と和泉。


 そのまま彼女は封筒の中から数枚の書類と手紙を出した。書類はいわゆる土地と建物の登記簿である。家の権利書だ。


 そして手紙にはこう綴ってある。

『納子、和泉 お疲れ様。この家は自由に使ってほしい。関内の球場近くのマンションは売却しても良いし、リフォームで賃貸に出しても良い。納子はずっとアパート暮らしで慎ましく質素に生活してきた。そして和泉を良い子に育ててくれた。そのお礼なので、余生をこの家で楽しく過ごしてほしい。ちなみにこの家の地下にはオーディオルームがある。そこには僕のコレクションが置いてあるので、若かりし時二人で聴いたあの曲をたまには聞き直して、僕の事も思い出しておくれ。ゆっくり、のんびり来てくれればで良いから、またあっちの世界で納子に会えたら二人で余生を分かち合おう。それまでの長い時間はここで楽しんでくれ』


「もう、本当に馬鹿真面目で、口べたな人」

 納子は満足げに笑う。


 四人は地下へと降りる階段を進む。防音壁と防音扉がお出迎えとなった。


 扉の向こうには、大きなスピーカーとオーディオセット。レコード盤の棚は、フレンチポップで埋め尽くされていた。


 納子は駆け寄ってそのジャケットを確認する。

「あら、あの人の好きなシルヴィ・バルタンね。フランス・ギャルもあるわ。こっちはダニエル・ビダル。ああ、ミッシェル・ポルナレフも」


 懐かしそうに棚に飾られたレコードのジャケットを眺める納子。

「シルヴィの映画DVD、『アイドルを探せ!』もあるじゃない。彼と一緒に銀座で見たのよ」

 目を輝かせている納子。

「お母さんの老後の楽しみはこれで十分ね」

 和泉はそう言うと、「ふふふ」と意味ありげな笑みを浮かべた。そして納子もまんざらでは無く、「まあね」と頷いた。


 和泉は麻鈴と逢野の方を向いて、

「今回はお知恵を拝借させて頂き、ありがとうございます。約束の代金は必ずお支払いいたしますので、マンションの売却が済んでからでも良いですか?」


「もちろん」と逢野。このところ、立て続けの麻鈴の活躍で、金銭的には余裕の出てきた逢野は、支払いを待つぐらい容易たやすい。


「ところで逢野さんって、新横浜公立大学の演劇学科にいませんでしたか?」と和泉は訊ねる。

 逢野は驚きながら、「何でそれを?」と返す。

「私も同じ学科の出身で、演劇研究サークルの活動でやっていた定期公演何度も観覧していたんです」

 遠い昔の学生時代の思い出を話す和泉。

「そうでしたか」と頭を掻く逢野。

 和泉は「先輩! 今度は依頼じゃ無く、後輩として事務所に遊びに行きますね。もし良かったら元町辺りでデートしましょう」とウインクした。


 ガラにも無く照れまくる逢野。反面ジト目の麻鈴。

「マジか!」

 麻鈴とサリーの声は重なった。


「おい、麻鈴。この女、どっかいかれているんじゃないか? このむっさいおっさんとデートとか、ぬかしているぞ」とサリー。

「うぬぬ……」と判断のつかない麻鈴。


 相変わらす姿を消してはいるが、麻鈴の頭上に載っているサリーは納得いかないようだ。


「なんか凶日きょうじつって気分。今回はほとんど逢野さんが自力で謎解きの仕事してましたし、私たちは帰りましょうね。日記には『蓼食う虫も好き好き』とだけ書いておきますよ。それでも良いですか?」

 サリーは了承したらしく、「やむを得ん」とだけ呟く。


「それと、今日は私の報酬はなさそうなので、今夜のご飯は普通のグレードの缶詰です」と加える麻鈴。

「なに?」

 不満げなサリーにそしらぬ顔で続ける麻鈴。


「だって電車賃も出ないんですもん。帰りは箒に載って帰りますよ。無料ですから」

「安全運転でいけよ」

「了解です」

 ハートマークで上目遣いの求愛の眼差しを逢野に送る和泉に照れまくる逢野。

 その光景を目の当たりにして、不快に思い、「けっ」と吐き捨てるような仕草の麻鈴。どうやら今夜、居酒屋でやけ酒は麻鈴の方である。


 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る