第2話 横浜二丁目 生きるといふこと

 神奈川県横浜市のほぼ中心部に石川町駅というJR線の駅がある。運河沿いにある駅で、元町、中華街や山下公園などの最寄り駅である。その駅前の横丁にある雑居ビルの一階に青空麻鈴あおぞらまりんの経営する欧州雑貨を扱うショップがある。看板にある黒猫のイラスト通り、店の前に置いているロッキングチェアーの上で丸まっている黒猫。その名前をサリーという。何故この猫がサリーというのか。「それは店主の麻鈴が魔女だったのです」という理由だ。


 この店の二階には『逢野探偵事務所おうのたんていじむしょ』という看板がある。探偵、逢野安間郎おうのやすまろう。しゃくれた顎に、放置された髭、よれよれのジャケットとぼさぼさの髪。刑事コロンボと金田一耕助を足しただらしなさと親しみやすさが売りで、いかにも小説に出てくる探偵といった感じだ。


 数日前に出会ってひとつの案件を片付けたこの二者。難しい顔で、別々の場所、それぞれの店の中で椅子に座って険しい表情をしていた。


 麻鈴は会計カウンターの椅子に座って、一冊の雑誌を凝視している。

『ヨーロピアン・テーブルウェアの知られざるニーズを先取り!』と謳う記事に仕入れを検討している。写真にはピーターラビットの描かれたウエッジフォーレスト社窯の皿が掲載されている。

「やっぱセレクトショップのように、商品の先取りできるとお客さんを取り込めるのよね。しかも横浜には洋食器マニアの年輩の人は多いわ」

 お茶を一口含みながら、ため息だ。

「何か良い手はないものかしらね」


 逢野はたばこをくわえて、事務所の机で依頼内容の手紙を読んでいた。

「ふう。妻の伝言と幻の碧玉へきぎょく仕上げのテーブルウェアの謎か……。そんな探偵小説のようなミステリー事件をオレが解決できるわけ無いだろう、断ろう……」

 見たくも無いという風な態度で、そっぽを向きながら、机上にその手紙をぽいっと放った。

 その封筒には差出人、即ち依頼人の名前、『楠まさし』という名前が書かれていた。

「ふん。そうやって、またやる前から諦める。ダメ男の典型だな」

 この辛口の独り言は、探偵事務所の換気窓から覗く黒猫、サリーの声だ。サリーは依頼の内容と金額を知ると、二階から下に伸びる雨どいを伝って一階の雑貨店の勝手口に戻って行った。もちろん麻鈴にその依頼内容を知らせるためだ。


 モノの五分としないうちに探偵事務所へと登る階段で足音がする。その音が部屋に到達すると、机上に投げ出された手紙を掴む人影があった。麻鈴である。

「ほうほう。伝言解読とテーブルウェアの依頼ですか。悪くない案件ですね」

 椅子の背もたれに、「わっ」と仰け反る逢野。

「お前、どこから入ってきた?」

 彼の問いに、

「そこのドアが開いていたもので。正面からお邪魔しました。そして考え事をしていたようで、私のノックにも、入ってきたことにも気付かない様子でしたよ」と当たり前のように応える麻鈴。

「そうか」

 くわえていた煙草を左手でもみ消すと、残りの煙をフッと天井に向かってはき出した。


「それはそうと、これ、碧玉仕上げってジャスパーウェアに託された依頼ですね」

「じゃすぱあ?」


「古代ギリシャの碧玉へきぎょく色の両手取手ダブルハンドルの付いた器です。古典古代のギリシャやローマのカメオ風の白色大理石の質感を模した白に、背景の瑠璃色とも水色とも言える美しい色が有名なテーブルウェアシリーズの名称でもあります。実際に窯職人である社長のウェッジフォーレストが作ったのは十八世紀末ですが、その数年後に新古典主義という美術様式の大流行で、十九世紀の初頭に爆発的なヒット商品となったウェッジフォーレスト社のメイン商品のシリーズ名でもあるのです。かなりの美術的価値を持ちます。もちろん日本には限られた数しか入っていませんから高価な品でしょうね」


「詳しいな」

「雑貨屋ですし、英国帰りですから。『妻の最後の言葉だった、陶磁器と神話にちなんだメッセージを解いて下さいね、と言われたが自分には分からないので代わりに解いてほしい』と書かれた文面には興味がわきます」と笑う麻鈴。


 そして手紙の文末にある報酬を確認すると、なんと『成功報酬は二百万円』と書いてある。それを見逃さない麻鈴。


「話だけでも聞いてみませんか? 楠さんのお宅に伺って」

 難色を顔に出す逢野。あまり気乗りしていない。

「迷子の犬や猫の捜索なら、何とかなるが、こんな高級品、オレにはさっぱりだ」

「探偵のくせに、何言っているんですか! とりあえず出かけますよ」

 そう言って、逢野の背中を押して事務所を出る麻鈴。自分の店は既に『午後半休』の貼り紙があった。彼女は最初からこの案件にやる気満々で逢野の事務所を訪れていたのだ。重ねてになるが、この依頼の案件を伝えたのが窓越しに逢野の手紙を読んでいたサリーである。


 山手の高級住宅街にある開業医の楠まさし宅。大きな時計台が付いた洋館を模した現代住宅である。洋館の建ち並ぶ山手地区、近隣の景観にもマッチしている。麻鈴はインターホンを押して、カメラの前で待ち構える。

「はい」

「逢野探偵事務所の者ですが、まさしさんのご依頼を受けまして伺いました」

 見た目三十代半ばの女性、給仕らしき者が、メイド服姿で玄関の扉を開けて、門扉の前に出てきた。

「こんにちは。旦那様より申し受けております。どうぞ」

 礼儀正しく、給仕の者は丁寧に会釈をすると、金属製の大きな門を屋敷がわに引いて扉を開けた。


 二人は暖炉のある応接間に通されて、柔らかいビクトリア調のソファに腰を埋める。ビクトリア様式独特の丸みをおびた『猫足』と呼ばれる木製の四つ足とクッション部のバラの模様が上品さを演出している。暫くすると、さっきの給仕が、銀盆にコーヒーを載せて戻ってきた。

「暫くお待ち下さい。旦那様はもう少しでお戻りになるそうです」

 そう言って、二人の前にソーサーに載ったカップと砂糖、ミルクの器を置いて、一礼の後、部屋を出た。


「世の中にはお金持ちはいっぱいいるなあ」と苦笑いの逢野。

「何を今更」とあきれ顔の麻鈴。

「いや。かつて依頼のあった家の犬のえさがオレの夕食より高いと知ったときはショックだった」

 コーヒーを飲みながら続ける逢野。貧富の差を噛みしめた言い回しだ。

「見た目に騙されない方が良いわ。それならお金では無い貧しさが、そう言う家には存在していることもあるわ」

「ん?」

 知った風な小娘の説得にぽかんとする逢野。

「諸事情で、子供や孫が出来ない家だってある。そんなペットだけの家からすれば、人間を育てるなんて、子供を持つなんて、贅沢に見えるほどうらやましいことかも知れないわ」

「まあな」と苦笑いの逢野。

 そして「お金基準とは違う、幸せの法則だな」と続けて、肩をすくめる。独り者の彼からしたら、所詮どちらの種族も贅沢に見えるのも間違いないのだが。



 言葉が途切れると、逢野はぼんやりと窓の外を眺め始めた。麻鈴はその横でワイヤレスのイヤホンを片耳に引っかけた。彼女が優しくイヤホンの縁を撫でると、コーヒーカップのささやきが聞き取れた。

「そうさ。このコーヒーを入れたのは紛れもなく、旦那様の娘、肉親なのさ。メイドのフリしてお屋敷にいるけど、亡くなった奥様がお優しいから前妻との娘を、旦那様には続柄を隠して住まわしているんだ。彼女は紛れもなく、旦那様の血縁者、血を分けた娘なのさ」

 麻鈴は「なるほど」と言う顔で、頷くとイヤホンを外した。そして何事もなかったようにコーヒーを飲み干した。


 やがてパタンとドアの開く音がして、一人の白髪の老人が入ってきた。

「いや、お待たせしましたな」

 二人はソファを立ち上がりお辞儀をする。それを止めるように老人は、

「いやいやそのままで」と笑う。

 老人は向かいのソファーに座ると、

「お手紙に書いたとおりの依頼です。探偵さんはおふたりですか?」と話してきた。

 応えたのはまたしても麻鈴。

「逢野が探偵で、私は助手の麻鈴と申します」

「ほほう。さながら横浜のホームズとワトソンにお越し頂いたというわけですかな? それは光栄だ」

 その言葉に麻鈴は『うちのホームズは何も出来ないホームズだけどね』と心中で呟いていた。


「実は私には二年前まで妻がいました。重い病で先立ってしまいました。その妻の唯一の楽しみがテーブルウェアを集めることでした。ジノリ、マイセン、クリスタルのバカラ、そしてこのウェッジフォーレストなど、子供のいない我が家にとって、欧州の焼き窯の新作は夫婦共通の楽しみでした。毎年更新されるイヤープレートは半世紀分が壁に掛けてあります。一昨年分までは妻が集めていたので、そこまでは揃っています。でも昨年と今年のものはありません。そこまでで止まっています」


「イヤープレートって何だ?」

 小声で尋ねる逢野に、

「ヨーロッパの焼き窯が毎年決まってクリスマスの時期などに出す西暦年号の入った収集目的の小皿です」とやはり小声で応える麻鈴。

「ふーん」と奇妙な顔で半信半疑の逢野。


「リビングに、やはり一昨年夫婦で最後の欧州旅行に行ったとき、向こうで買ってきた限定のジャスパーウェアがあります。金額はたいしたこと無いのだが、妻がどうしてもその図案が良いと言ってね。掛け替えのない品になった。最後にふたりで手に入れた思い出の品というわけです。その花瓶にまつわる妻の伝言があって、解読してくれると嬉しいと思ったんです。それが今回の依頼という事ですね」


「うむ」と唸る逢野。

 それとは対照的に麻鈴は目を輝かせて、身を乗りだして尋ねる。

「そのジャスパーウェアの意匠は何ですか?」

「後でお見せしますが、ギリシア神話の神々、ゼウスとヘラがカメオ風に浮き彫りにされ、背景が瑠璃色の花瓶です。そこに何故かいつも春の花がありました。妻はいつも、そう、真冬でも頑固に春の花を飾るのが常でした」

「ゼウスとヘラか……。典型的な新古典主義の主題を模したジャスパーウェアですね。そして奥様はとてもロマンチストで、ギリシア神話がお好きだったように思います」

 軽く拳を顎に当てながら麻鈴が言う。

「うん、いかにも。あなたはその筋にはお詳しいようだ」と頷く老人。

「いいえ。たまたま知っているだけです」と気をよくする麻鈴。

「ではその問題のリビングにご案内しよう」

 杖に重心をかけて立ち上がると、部屋の外に待機していたさっきの給仕が、間合い良く部屋に入ってきて寄り添う。



「これが例のジャスパーウェアの花瓶です」

 固定電話の置かれるリビングボードの上には、無地で白いレースのクロスが置かれてあった。いかにもといった風に、その上にオブジェとして陶磁器が飾られている。その横には写真立てがあり、新婚旅行の神戸旅行で撮影したものの様だった。フォトフレームに『新婚記念』とシールが貼られている。そしてそれらの真後ろの壁には、陶磁器とセットで何かを物語るようにカッコウの刺繍画と美しいおびが額に入れて飾ってある。まるで何かのメッセージのように。


 リビングの中は大きな薄型テレビが部屋の角にあり、中央にはガラス製のテーブルと奥には洋酒が並んだサイドボードがあった。きっと洋酒を飲みながら映画鑑賞などをすることも多かったのだろう。DVDのケースがラックに並んでいる。


 花瓶の背後、壁には老人の表彰状がいくつか掛けてある。その額縁の上にはオリュンポスの山並みの写真が飾ってあった。ギリシアの最高峰、三千メートル弱の雪山である。『旅行記念』と額縁に書かれてある。


 不思議なのは、この部屋には廊下側以外にも扉があり、木目調の重厚な重い扉があった。不思議に思った麻鈴は、

「この扉は?」と楠に尋ねる。

「ああ、そこは前妻の愛した書物が置いてある書庫なんですよ。彼女が亡くなってからは、この給仕の一宮充照菜いちのみやあてなに管理を任せています。生前、妻は『あなたの智の泉』と言っていました。私はあまり入ったことはないのですけどね」

 老人の言葉の言い回しに少し引っかかった麻鈴。

「すみません。興味本位では無く、大切なことなのでお伺いしたいのですが、一昨年お亡くなりになった奥様は三人目の奥様では無いですか?」と麻鈴。

 その質問に楠は少し恥ずかしそうにしながらも驚くと、「いかにも。何故それが?」と感心する。

「しかも三人目の奥様とは略奪婚の末に、ご主人をその奥様が勝ち取った」と続ける。

「ええ? 何故それを?」と本当に驚いている楠。まるで見てきたかのように言い当てる麻鈴。彼からすれば占い師のようだ。

「この部屋は奥様の残したメッセージで満ちあふれています。まるでお二人の夫婦としての人生を大切になさってきた痕跡が見受けられるのです」と麻鈴は先に包括を述べた。

「なんと!」と楠は少し驚きながらも、すぐに受け入れて笑った。


「ご主人、このジャスパーウェアの後ろに掛けてある刺繍画とワンピースドレスの帯紐の意味はご存じですか?」と麻鈴。

「いや、単に妻の趣味から来たオブジェだと思っています」

「なるほど」


 頷いた後で麻鈴は、「このリビングボードと背面の額縁には、ご主人と奥様たちの物語が暗示されているのです。一般にメタファーなんて言います。『例え隠喩いんゆ』なんて言う人もいますね」と頷く。

 楠は麻鈴の不思議な推測に興味を持ち始めた。


「助手のお嬢さん、どうやらあなたはだいたいの事を見抜いていらっしゃる。その巧妙に組み立てられた妻のメッセージを出来れば、私にも教えて頂けますか? もはや焼き物などどうでも良い。妻の残したメッセージを読み解いて、彼女の愛をもう一度感じたいのです」

 老人は穏やかにそう言った。そこには妻への愛が溢れる笑顔があった。差し込む陽光を浴びた優しい微笑みだ。


 麻鈴はその笑顔に応えるように頷いてから、

「それには、そこにいらっしゃる充照菜さんの許可が必要とお見受けしました。よろしいですか? 故人の冒涜はいたしませんので」と彼女を見る。

『何故?』という顔の楠だが、無言で推移を見守る。

 メイド服の給仕は、ドングリ眼で驚きを隠せない。そしてみるみるうちに表情を変えて、観念したかのように首を縦に振り、コクッと頷いた。


「何を聞いても動揺せずに、私の推測をまずはお聴き頂けますか?」

 念を押すように、麻鈴は楠に言う。

「大丈夫です。天涯孤独になった私が、何を恐れることがありましょう。妻も身内もいない身です。何を聞いてもたじろぐことは無いでしょう」と真面目に返す楠。

「分かりました」と大きく息を吸い込んで麻鈴は話し始めた。


「まず前提として、早速今のお言葉を覆すようですが、楠さんはお一人では無いのです。それを念頭において私は推理します」と言って、散らばったパズル、ヒントのかけらを重ね合わせることにした。


「神戸旅行の写真、なんでポートタワーでも、異人館でも無いのでしょう? 何故三宮駅なんでしょう?」

 麻鈴の言葉に、

「彼女が新婚旅行は神戸が良いと言ってきかなかった。外国では無く神戸が良いと」と伝える楠。

「その彼女の願いが、今回の物語、即ち長いメタファー物語の最初の一コマ、はじまりだったのです」

『三宮駅』という駅名看板の前で写した写真を見ながら言う。

「なんと?」

 目を白黒させる楠に、何度も頷く仕草の充照菜。

「私が最初にこの奥さんの仕掛けに気付いたのが、お給仕さんの一宮さんの存在でした。充照菜というお名前がいかにもギリシア神話っぽいからです」

「一宮さんは三宮さんとはどんな繋がりでしょう?」

 軽く話を振った麻鈴に、充照菜は「奥様とは私の母が友人でした」とだけ話す。


「ギリシャ神話において、神々の王はゼウスです。その『智の泉』を提供したのが一番目の妻、メーティス。つまりは一番目の妻の書庫を三番目の奥様はそれをもじって『智の泉』と別名を付けたのでしょう。そして自分の親友でもある一番目の奥様に敬意を表して」


「なんと、二人は知り合いだったのか? しかも何故それをメイドの充照菜くんが知っているんだ」


「二人目の奥様がなんらかの火種を持っていたことをもともと知っていた三番目の奥様は、二番目の奥さまからの災いに面したあなたを、そう親友の亭主だったあなたをその危機から救うためにあなたに近づいた。そして二番目の妻、彼女から引き離しあなたを守ろうとしたのです。その時の暗示がカッコウと宝帯なのです。ふたつとも『ギリシア神話』の有名なエピソードに準えています。三番目の妻ヘラが、ゼウスを二番目の奥さんと別れさせた時のエピソードに由来します。宝帯たからのおびは『アプロディーテの宝帯ほうたい』と言われる媚魔術の一種アイテムです。すなわちあなたと三番目の奥様の恋愛の発展過程に必要な恋の暗示を示しています。神話においては、ゼウスの妻、ヘラが用いてゼウスを虜にした恋の魔法のアイテムです。カッコウはゼウスがヘラを口説くのに化けた鳥なのです。つまり楠さんと三番目の奥様の関係をゼウスとヘラの関係に見立てたシンボルがその一角にあるオブジェと額縁なのです」


 占い師顔負けの話術も相まって、麻鈴の推理に磨きがかかる。横で何も口出しできない逢野はぽかんと口を開けて、だらしない顔でその場の推移を見守るだけだった。

『こいつ、何者だ?』


「そしてご主人が一番大切だと暗示させた愛のメッセージは、毎日のように、このジャスパーウェアに込められた奥様の飾る春の花なのです」

「どういうことですか?」


「ヘラはゼウスのためにいつまでも美しくいることを願う女神でした。彼女は魔法を使って毎年春に若返る神様だったのです。ここが日本のアマテラスさまにも合致します。常若とこわか思想、二十年に一度のご正殿建て替えをする神事、式年遷宮ですね。でもヘラは愛するゼウスのためだけに毎年春に若返りました。愛されるために」


「それで春の花をこのゼウスとヘラの花瓶に生けていたんだね」

「はい」

「彼女の愛を感じるよ」と嬉しそうな楠。

 麻鈴は人差し指を立てて、皆の注目を引くように、

「でももっと凄いメッセージは先立つ自分と残された楠さんの身を案じたメッセージなんです」と噛みしめるように言う。

「えっ?」

「最初の奥様は身ごもったあと、生まれた子がいましたね」

「はい。彼女の実家で忘れ形見として育てたいという理由で、泣く泣く譲りました。あの頃は私も若かったし、自信も無かった。以来私は子宝に恵まれず、独り者になりましたけど」

「その実娘が密かに三宮たる奥様とも仲良くて、お給仕としてこの家で雇っていたとしたらどうします?」

「えっ?」

 楠は充照菜の顔を見る。

「もちろん一宮充照菜は偽名でしょうね。奥様が採用したのなら、旦那様の楠さんは分からなくて当然。奥様は自分が余命幾ばくも無いということを悟った辺りから、頻繁にメッセージをご主人との生活の中に挟んでいます。それも『ギリシア神話』のエピソードをオマージュのようにしながら。だからゼウスの最初の夫人だったメーティスの子である女神アテナを彼女の偽名に選んだ」


「じゃあ」と充照菜を見る楠。

 充照菜は静かに頷く。

「君があの時の一絵いちえの娘……」

「はい。祖父母の元で育てられ、祖父母他界後にここにお仕えするようになりました」

「ありがとう」

 楠はたった一人の肉親を柔らかな眼差しで噛みしめるように呟いた。


「奥様からお預かりした手紙があります。このジャスパーウェアのミステリー物語を全て解いたときに旦那様に渡してほしいと言うことでした」

 そう言って、充照菜は楠に一枚の便せんを渡した。


『この手紙を読んでいると言うことは、あなたの最初の妻である一絵いちえと私、一絵とあなたの娘、充照菜ちゃんの関係をご理解したと言うことですね。一絵と私は、実は幼なじみでした。あなたのことはそこそこ一絵から亡くなる前に聞いていました。そしてあなたと出会ったのは一絵が亡くなった後でしたね。しかも生前、彼女にあなたのことを頼まれていたんですよ。だから一宮たる一絵に準えて、三番目の後妻ということで、三宮を象徴する思い出作りに新婚旅行の先を選んだのです。そこからの暗喩はギリシア神話の神様に準えて残しました。もうお気づきの事と存じます。あなたの血を分けた娘を残して行きます。彼女にお婿さんを取らせても良いので、あなたを一人にはしない手はずを一絵に負けないくらい残して、私も天に召されます。今までありがとうございました』


「本名は楠須磨くすのきすまと言います」

 深々とお辞儀する充照菜、改め須磨。

「須磨海岸の須磨なのかい?」

「はい。母の生まれ故郷です」と笑う。

 笑顔の須磨とは対照的に、涙が溢れて止まらない楠氏。老人の目の嬉し涙というのは何と美しいモノなのだろうと麻鈴は感じていた。


 サリーがどこからともなく現れて、麻鈴の肩にのった。そして楠を見る。

「この男は幸せ者だな。こんなに愛してくれる女性が二人もいて、娘もまた愛情を向けている」

「うん」


「回想録には、人間の愛の形なんて様々だ。ステレオタイプのような人生に意味は無い。社会のルールさえ守っている前提があるのなら、生きていくことを一番に考えて、互いを思いやって人生を愛とともに歩んでいくのが一番美しいし、そうやれば自ずと人生のグランドデザイン、形は見えてくると言うことだ、という旨を書いておくと良い。すなわち詩的表現で換言すれば、それが『生きるということ』だ、としましょう」


「うん」

 珍しくサリーは憎まれ口ではなく、嬉しがっている口調だ。


「ニャーニャー、とうるさい猫だ」と、魔法使いについて何も知らない逢野は、サリーの首根っこを捕まえて、麻鈴の肩から引き離すとポイッと床に逃がす。

 怒ったサリーは「ふごーっ!」と逢野を睨むが、逢野は見ていない。



 探偵事務所に戻った逢野は二百万円の報酬が振り込まれた銀行の通帳を確かめる。

「ん?」

 通帳には百万円しか振り込まれていない。

 驚いた逢野は階段を駆け下りて、一階の雑貨店奥に座る麻鈴の元に向かう。

「おい、助手!」

 逢野の声に麻鈴はニヤリとする。

「振込額が足りなかったんでしょう?」

「ああ」

「いつものごとく、私の成功報酬はあらかじめ別口座で振込依頼をしておきましたよ。ここから家賃テナント料も半年分先払いで頂いております。支払いが滞ることなく、明瞭会計ですね」


 二本指で挟んだ家賃の領収書をヒラヒラとさせて、底抜けに明るい笑顔で麻鈴が言う。横で黒猫のサリーが興味なさげに、缶詰の高級猫用食材を美味しそうに食べていた。

 そしてテーブルウェアのカタログを机上に開いた状況を察した逢野は、

「そのカタログは?」と尋ねた。

「えへへ。お亡くなりの楠さんの奥様が上得意先だったと言うことで、旦那様にヨーロッパの焼窯と直に取引できる口利きをして頂きました。おかげでこの店の仕入れ先が随分増えました。しかも日本の販売代理店のライセンスを頂いた窯もあるんですよ。いいでしょう」

 自慢げに喜ぶ麻鈴。

「うちの会社を踏み台にしてからに!」

 半ばご立腹の様相で恨めしく見つめる逢野。

「あら、横で何もしないでコーヒーを飲んでいるだけで百万円入ったのだから、文句はありませんよね。おほほほ」

 口に手を当て、小憎らしい顔で笑う麻鈴に絶句の逢野。

「うぬぬ」

 その横でサリーは逢野の肩にのると、

「おう、元気出せよ。しょぼくれるな。そのうち良いことあるから」と気休めでしっぽを使って肩を叩く。

 もちろん逢野には「ニャー」としか聞こえないのだが。

 結局、逢野は仕方なくしょんぼりして、肩を落とすと隣の居酒屋に入っていった。   

               了

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