第55話 怒りの食卓


ダン! ドン! ガタン!


 勢いよく包丁が振り下ろされ、まな板が揺れる度に魚が捌かれていった。実に豪快な包丁捌きだが、決して雑ではない。とても丁寧に下処理をしている。

 彼の前に捌けない魚など存在しない。そう錯覚させるほど見事な手際の良さである。マグロなども解体してしまいそうだ。

 魚の調理が終わると、次の工程に取り掛かる。ぐつぐつと煮立っていた鍋の味を確かめ、調味料を追加した。怒りのオーラが上がっているが、手元や舌が狂うことはなかった。

 もう片方のコンロではフライパンが熱を上げている。頃合いを見計い、皿に入れていたものを投入する。小気味よい音を上げながら具材が踊り出した。

 戸倉は一言も発することはない。しかめっ面を崩さず、流れるように調理を進めていく。とんでもない集中力である。

 縦横無尽に駆け回る姿は凄腕シェフに引けを取らない。何の変哲もないマンションの台所が、三つ星レストランの厨房みたいに見えた。

 キッチンは赤く燃えている。


「どうしました?」

 口を開けて突っ立っている小清水に声を掛ける。

「い、いえ。その、凄いなって」

 素直な感想である。目の前で繰り広げられる光景に圧倒されているのだ。確かに初めて見たら面食らうのもわかる気がする。

 その手腕もだが、意外性もあるのだ。

 戸倉はわかりやすい男である。あまり細かいことができそうなイメージがない。少なくても体育館やコートに立つ彼からは想像もできない姿だ。

「とりあえず寛いでください。俺たちはお客さんですからね」

「何かお手伝いした方がいいのでは」

「放っておいて構いませんよ。本人も望んでないですし」

 こちらに声を掛けることもせず、作業に集中している。料理だけが魔法のように出来上がっていった。

「確かにあの中に入っていくのは大変だね。逆に足を引っ張るかもしれない」

 藤宮が冷静に状況を分析する。ハイペースで走るランナーの一団に入り込むようなものである。

「郷に入っては郷に従えっていうし、名取君の言う通りでいいんじゃない」

「そうかもしれませんけど」

 お客様と言われても、流石に何もしないのは気が引けるのだろう。家久にはない感覚である。

「完成したものを並べるのと、後片付けくらいでいいですよ」

 担いでいた一升瓶を下ろし、冷蔵庫から勝手にビールを取り出す。

 喉を潤す心地よい感触。腹の底から息を吐き、気持ちを緩める。一日の疲れが取れていくようだ。


「こっちはこっちで始めましょう。すぐに先輩も来ますから」

 冷奴に海鮮サラダ。枝豆に漬物。煮物に炒め物や小料理系。テーブルには既にいくつもの料理が置いてあり、つまみには事欠かない。

「何にしますか? サワーとかもありますよ」

「私もビールで。こっちもいける方?」

 持ってきたワインを下ろす。藤宮が買ってきたものだ。

「酒なら何でも。先輩も種類は選びませんよ」

 さっさと飲み始めた家久たちを見て、小清水も椅子に腰掛ける。遠慮がちな視線を向けながらも、勧められるまま煮物を口に運んだ。

 その瞬間、大きく目が見開かれる。

「お、美味しい」

 自然に漏れ出た言葉である。持っていた箸が震えていた。

「いや、ちょっと待ってください。これも美味しい。これも。うそ、どうやってこんな味が」

 興奮気味に箸を進めていく。その度に顔が緩んでいた。本当に頬が落ちそうになっている。

「これは凄いね。名取君の言ったことも大法螺じゃないって訳だ」

 藤宮も驚いている。楽しみにしてくださいとは伝えたが、自分の想像を超えたのだろう。

「あの男って無駄に凝り性ですからね。自分でやってるうちにこんな腕前になったんですよ」

 家久からしたら考えられないことだ。自炊など面倒な事にしか思えない。好きが高じるというのは恐ろしいものである。

「正直、自信を失くしてしまいます。私が作るより美味しいです」

 料理を楽しみながらもどこかショックを受けている。

「比べる必要ないと思いますよ。下手すりゃ家庭料理屋を開けるかもしれない男ですから」

「冗談に思えませんよ」

「腕が上がりすぎて、ますます嫁さんを取れそうにないですけどね。私生活でもプレッシャー与えて、どうすんだって話です」

 大笑いしていた顔に野菜くずが直撃する。見事な投球である。何時投げたのかまるでわからなかった。本人は目も向けずに調理を続けている。


「先輩はストレスが溜まるとああなるんです。一人じゃ食えないくらい作るんで、俺らが呼ばれるんですよ」

 怒りややるせなさを全てぶつけている。それでいて調理が雑にならないのだから大したものだ。

「飯をいただく代わりに愚痴を聞いてやる。酒はお駄賃代わりです」

 いわば戸倉流の憂さ晴らしと言ったところだ。学生時代も何度か付き合わされた。

「だけど色々と参考になる話も聞けると思いますよ。普段は聞けないようなことも口を滑らせるし」

 小清水を誘った理由である。少しでも彼女のためになってくればいい。後は単純に料理を片付けてくれる人が欲しかった。

「名取君、醤油取って」

 意外と言えば、藤宮である。話の流れで誘ってみたが、普通に来てくれた。正直あんまりこういう事に参加しない人間だと思っていた。小清水より先に馴染んでいるところを見ると、結構ノリが良いのかも知れない。

「そういうことなんで遠慮なくやってください」

「わ、わかりました」

 ようやくお酒に口を付ける。少しはリラックスしてくれたようだ。せっかくなんだから楽しく飲みたかった。



「この一杯のために生きてんなぁ」

 調理を終えた戸倉が席に着き、ビールを一気に飲み干した。気持ち良さそうに椅子へ沈み込んでいる。

「すいませんね。わざわざ付き合わせてしまって。大方、こいつに変なことでも吹き込まれたんでしょ」

「気になさらないでください。こちらも美味しい料理をいただいてますから」

「楽しませてもらってます」

 二人の箸が止まることはない。お世辞ではなかった。

「いっそのこと出来たものを生徒に食わせたらどうですか。案外喜ぶかも」

「アホ言うな。そんなことできるか」

「似合うと思いますよ」

 割烹着を着て、食事を配る姿が浮かんでくる。食堂のおじちゃんがぴったり当てはまった。

「でもなんか久しぶりな気がしますよ」

 色々とストレスを溜め込む人だが、家久が教師になってからは初めてかもしれない。飲みには何度も行くが、こうなるのは中々なかった。

「まさかまたフラれたとか言いませんよね」

「だったら一人で飲むわ」

「あんまり重苦しいのは止めてくださいよ。今日は俺だけじゃないんだから」

 恐らくバスケ関係だとは思うが、万が一のために予防線を引いておく。この状態は一種のバロメーターみたいなものである。学校や授業の事でこうなるなら、洒落にならない事態に陥っていると考えて良い。下手すれば事件に発展するようなものだ。

 自分は聞いてやれるけど、二人には辛いだろう。


「安心しろ。お前が思っているようなことはない」

 二缶目の蓋を開ける。今日はいつも以上にピッチが速い。

「じゃあ何があったんです」

 戸倉は重々しく口を開く。頭を抱えているようにも見えた。

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