第54話 藤宮 奏
練習が終わった後で喫煙所に向かう。ちょっと吸いたくなったのが、そこには先客がいた。
「どうも」
藤宮に軽く頭を下げる。この時間なら誰もいないと思っていた。
切れ長の目にしっかりと通った鼻筋。顔は整っているが静かにしていると冷たい印象を与える。普段は髪の毛をまとめているが今は解いていた。静かに煙を吐く姿は画になっている。
背丈は百六十後半くらいあるだろう。細い腕や足は締まっているし、余計な脂肪など付いていないように見える。
元スポーツマンという点は変わらないが、経歴には天と地ほどの差がある。
何しろ全国の舞台で活躍した選手である。ベンチにも入れず、途中で部を辞めた自分とは立場も見てきた景色も違う。
「珍しいですね」
先に話しかけてくれた。鈴のような凛とした声音である。
「喫煙所じゃあまり見かけないものですから」
「毎日のように吸うわけじゃありませんから」
普段から喫煙所に来るわけではない。酒は毎日のように飲むが、タバコはたまにしか吸わなかった。
「学校には慣れましたか?」
「慣れたというか、そうなる前の問題というか」
余裕などほとんどない。日々の業務をこなすだけ精一杯だった。
「なんか、こう、あっという間に数ヶ月が過ぎていました」
吐き出した煙がぼんやりと揺れている。曖昧な記憶はこの煙より頼りない。どんな話をしたのか、どんな授業をしたのかほとんど覚えていなかった。
「学校ってやることが沢山ありますね。わかってはいましたけど」
中間や期末テスト。進路相談に三者面談。運動会に修学旅行。諸々の地域行事。普段の授業に加え、一学期だけでもこれだけ予定が詰まっていた。
担当学年が違うので、全てに関わっていた訳ではないが、準備などを手伝わなくてはいけないときもあった。
戸倉が事前に話を聞いてはいたが、ここまでだとは思わなかった。これで部活まで追加されている。忙しさは拍車を掛けていた。
「気持ちはわかります。私もそうでしたから」
「あんまり想像できませんけどね」
実際に家久の印象に残っているのは、職員室でクールに振る舞っている姿だ。トラブルなどで動じているところなど見たことがない。
歳はそこまで変わらないはずだが、ベテランの風格がある。並んで立っていると同じ教師には見えないだろう。戸倉とはまた違う意味で大人だった。
「慣れないのはわかります。でも身だしなみにはお気をつけて。生徒だけでなく、保護者にも見られる職業なので」
以前もシャツがよれていた。クリーニングに出すのも面倒くさいときがある。
「男の一人暮らしですから」
「それとこれとは話は別です。気をつけていればできることですよ。いつまでも学生気分ではいられません」
痛いところを衝かれる。確かにやろうと思えば出来ることだからだ。彼女は普段の身だしなみもきっちりしており、スタイルが良いのでより映えた。
「・・・・・・自覚ですか。あんまり実感はありませんけどね」
社会人一年目というやつだが、どうにもはっきりしていない。というより自覚を持つことの方が難しい。仕事だって何とかこなしているだけなのだ。
「いっそ投資にでも使ってみますかね」
給料の使い道も学生の頃と変わっていない。趣味や好きな物に使っているだけだ。将来のために使えば、少しは大人らしさを証明できるだろうか。
「始めるなら紹介しましょうか。詳しい友人がいますので」
藤宮の友人ならしっかりしているだろう。難しい会話をしている画が浮かんでくる。
「止めときます。頭が痛くなりそうだ」
金の流れにまで頭を使い始めるとパンクしそうだ。将来のために大事なのはわかるが、自分がそういう計画的な事をできるとは思えない。
「保険や年金とかの話もNGで。うるさくて敵いません」
教師になってから、そういう業者や知らない人間たちから何枚も名刺を渡された。一体どこから調べてくるのだろうか。同じような話をされて嫌になる。
「でも大切なことですよ。こういう職業ですからね」
「構いませんよ。死ぬときは死ぬんです。将来のことなんてわかりはしません」
両親は今のところ元気だし、他に兄弟もいない。難しいことなど後になって考えればいい。
「無駄遣いばかりしてそうですね」
「無駄ではありません。立派な活力となっています」
読みたい本や論文などいくらでもある。今はそちらの方が遙かに重要だ。
思えばこうして二人きりで話すのは初めてかもしれなかった。同じ部活と言っても、顧問になってからまだ数ヶ月も経っていない。担当する学年も違うし、中々話す機会などなかった。
それでも問題なく会話は出来ている。とりあえずは安心できた。自分のコミュニケーション能力などどれだけあるかわからないからだ。
部員たち相手に喋るのとはまた違う。職場にはほぼ歳が上の人間しかいない。個人の好き嫌いだけで相手を選んでいる余裕はない。会話も仕事みたいなもので、業務を円滑に進めるための手段である。これが一番大変かもしれない。
そういう意味では藤宮とは喋りやすかった。同じ部活の担当でも考えが合わなかったら、色々と面倒な事もある。
この間の練習試合や練習を見ていて感じたことだが、彼女とはバスケ観が似ているのかもしれない。
「あの、一ついいですか?」
藤宮が小さく指を立てる。
「こういうときはあまり畏まった口調で話すのは止めませんか。正直収まりが悪くて」
その提案に眉を寄せたが、すぐに理由が思い当たった。
「ああ、なるほど。何となくわかりますけどね」
生徒や他の先生方がいるときならともかく、こういう場では普通に喋りたいのだ。これが普通の職場なら、また少し違うのかもしれない。
だが学校という場所はとにかく目が多かった。職場には歳上の教諭ばかりだし、生徒たちや保護者にも気を遣う。色々と気苦労も多くなる。
せめて歳の近い同僚とは、楽に付き合いたいというのが本音だろう。ましてや彼女とは同じ部活の顧問をしており、お互いに接する場面も増えるのだから。
「俺は別に構いませんよ」
藤宮の気持ちは家久にも理解できる。戸倉に対してが、まさにそうだった。
戸倉は先輩だし、恩人でもあるが、酒の席や喫煙所では畏まった態度を取りたくない。せっかくの酒やタバコが不味くなる。というか気持ち悪くて鳥肌が立つ。仮に彼と同じ職場で働くことになったとしても、やはり恭しく接することはしたくない。
むしろそんな態度を取ったら、彼の方が怒り出すだろう。新手の嫌がらせかと思われるかも知れない。
「じゃあ藤宮さんでいいのかな」
「それでよろしく、名取君」
彼女とは同じ部活の顧問。お互いに接する場面が増えるし、愚痴や文句を言いたいときも、気兼ねなく言えるのは助かる。相談事があったときも気を遣わないのはありがたい。
流石にいきなりタメ口にはなれないが、これまでより随分と楽になるだろう。重石が一つ取れるようなものだ。
「あんまり気にならないと思ってましたけど」
意外なのは藤宮がこの提案をしたことだ。何となくもっと厳格というか、そういう態度でいることが平気な人だと思っていた。
「それこそ買いかぶり。苦手なものは苦手なの」
教師としての経験値、というより社会人として何歩も先に行っているが、見えないところで苦労しているのかもしれない。完璧に振る舞うのは疲れるものだ。
「小清水先生にも頼んだんだけどね」
「まぁ彼女はね。中々難しいと思いますよ」
その性格上、砕けた態度になるのは難しいだろう。おまけに家久や藤宮の事をバスケの先生として見ている。無茶な注文と言えるだろう。
「小清水先生のこと、ちゃんと教えてあげてください。彼女は本当に熱心だから」
「だからですよ。正直持て余しています」
戸倉の手伝いならしたことあるが、実際にチームを任されるのは初めての経験だ。いくらバスケ経験者と言っても、プレイヤーと指導者は違うのだ。戸倉のような指導ノウハウなど確立されていない。
「参考にならないと言ってるんですがね」
生徒だけで手一杯なのだ。コーチまで育てるなど至難の技である。出来ることは、今まで聞かされてきた話をするぐらいだ。
「まぁこういうことは往々にして選べないものだからね」
強い学校に入ったとしても、その監督が自分を指導してくれるかはわからない。試合に出る者は限られており、全員を見ることなどできないからだ。同じチームでも、一軍にいなければ接する機会もないのではないか。
もちろんこれは中学にも当て嵌まる。ある指導者がいるからとその中学へ入ったら、異動になっていたという話はいくらでもある。三年間面倒を見られず、途中でいなくなるケースもある。何時になるかは本人にも読めない。これは当たり前に起こる事なのだ。
プロの世界ならコーチの配置転換など、より顕著に起こるだろう。選手が指導する相手を指名するなど特別なケースだ。
これはスポーツだけに限らない。入社する会社は選べても、自分を指導する人間は選べないものだ。
そういう意味では子供たちと変わらなかった。
「だからファーストコンタクトは重要だよ。彼女の未来を左右するかも」
「止めてくれませんか。タバコが不味くなるんで」
己を形成する上で誰と接してきたかは大切だ。特に初めて関わった相手は良くも悪くも影響を受けやすい。
家久が顧問になる上で意識したのは、言うまでもなく戸倉である。当然彼の影響をもろに受けている。指導ノウハウを真似ているのだから。
今までバスケをやってきて何人かのコーチと出会ってきたが、指導者という点では彼が一番に思えた。
現役を辞めてから、そんな指導者に出会うのは果たして幸運なのか、それとも不幸なのか。
「藤宮さんも助けてくださいよ。同じ女性だし、色々と相談に乗りやすいでしょ」
二人の仲は悪くないと思える。楽しそうに話しているところも見たからだ。
「顧問は君でしょう。あまり口出しするのもどうか思うけど」
気楽そうに煙を吐く。タバコを吸う仕草もどこか余裕に満ちていた。
「この際だから飲みにでも誘ったら。腹を割って話せるかもよ」
会話はするが、授業やバスケのことが多く、あまり私生活のことは話していない。
「いいですね。酔わせてみたら素が見えるかもしれないし」
「それ、パワハラ。いや、アルハラって言った方がいいのかな。訴えられたら負けるよ」
「親睦を深めるだけなんだけどなぁ」
別に飲みニケーションが絶対必要だと思っている訳じゃない。家久はあまり親しくない人と積極的に飲みにいく人間ではないし、嫌がる人間を誘うのもしたくなかった。
ただどんな風になるのか、興味が働くのも事実だ。酔い潰れるのだろうか。それとも絡まれるのだろうか。可能性としては素直に寝てしまうのが一番高い。
「お酒は強い方?」
「それなりには」
自分以外がへべれけになったこともある。酷い有様を何度も見てきた。
「じゃあ自然に相手の弱みを握るタイプだ。ずるいことするね」
「こっちが頼んだわけじゃない。勝手にへべれけになってるだけです」
大学時代も飲みの席で痴態を晒す人間たちを何度か見てきたが、周囲に漏らしたことはほとんどない。口は固い方だった。
「悪人みたいに扱わないでください。俺を何だと思ってるんだか」
最近やたらと性格が悪いとか、顔が恐くなったと言われるようになった。別にそこまで悪いことなどしていないと思う。
「滲み出るものがあるんじゃない」
鋭い指摘に肩が落ちる。痛くない腹が痛む気がした。
「ごめん、ごめん。大当たりってところかな」
タバコをくわえながら、片手で礼の形を作る。確かに気兼ねなくといったが、いきなりすぎる気がする。
大きくため息をついたとき、懐に入れていたスマホが揺れた。画面を見ると実に簡潔なメッセージが表示されている。
『来い』
誰からかなど問うまでもない。苦笑しながら煙を吐く。
「ちょうどよかった。タイミングはばっちりですね」
ためになるか、ならないかはわからないが、勉強になる機会はやってきたみたいだ。早速、小清水にも連絡を入れてみる。
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