第52話 私たちはどこにいる?


「あたしらって強くなってんのか?」

 帰路の途中でさくらが口にする。今日の試合を振り返れば、その疑問は当然のものだ。

「すぐに結果が出るものじゃないでしょう。先生が顧問になってまだ日が浅いんだから」

「そりゃそうだけどさ。あの平田二中にも勝ったんだぜ。だったら、もっと、こう上手くいくだろ」

 ちゃんと説明できていないが、言いたいことは伝わってくる。

 いくら三年がいなかったとはいえ、平田二中に勝つなど以前では考えられない事だった。単純な実力や大会成績を考慮すれば、他の中学にも当然勝てるはずなのだ。

 ところがチームの成績は安定しない。ここまで何回か練習試合をやっているが、勝ち負けを繰り返している。今日の試合も一勝一敗だった。

「今は勝ち負けより自分たちのプレーに集中する。先生に言われたじゃない」

 実際に家久は学年に関係なく、色々な組み合わせで試合に挑んでいる。秋の大会を見据え、チーム力を上げようとしているのだ。

 もちろん初めから勝ちを捨てている訳じゃない。明らかに実力が足りない選手は外れていたし、概ね納得の出来るメンバー起用だった。

「わかってるけどさ」

 眉間にしわを寄せ、口を尖らせる。頭では理解しているが、どこか腑に落ちないのだ。その気持ちはよくわかる。

 練習で良いプレーをしたら褒めてもらえるし、どこが良かったのか説明もしてくれる。胡散臭いところもあるが、これに関しては嘘を言っているとは思えない。少しずつ成長しているのは本当だろう。それは信じられる。

 だが実感が欲しいのも事実なのだ。そういう意味で試合の勝敗はわかりやすい成果である。はっきりと目に見えるのだから。


『目の前の勝敗に左右されるな』

『もっと内容に拘れ』

 家久の言いたいことはよくわかる。お世辞にも褒められる内容じゃない勝ち試合もあったからだ。叱られたら反省もしている。

 しかし、それはそれとしてやはり試合には勝ちたいのだ。さくらのように考えている部員は他にもいるだろう。

 他でもない自分がそうなのだ。

 我ながら単純だが嬉しいものは嬉しかった。平田二中に勝った日はベッドの中で何度もガッツポーズをしたくらいである。部に入って初めての事だった。

 もちろん浮かれているつもりはない。翌日からは切り替えたし、練習では気を抜かないようにしている。そんなことしたらすぐにチクリと言われるからだ。


「去年から見れば、平二は別世界にいるチームだからね」

 平田二中に勝ったのは劇薬みたいなものだ。家久がどこまで事態を予測していたかは読めないが、チームは変化したように見える。

 当然と言えるだろう。試合前はほぼ全ての部員が勝てないと思っていた。実績だけ見れば、勝てると思う方がおかしい。

 実力だけで勝ったのではないのはわかる。露骨に手加減された訳ではないが、相手がベストメンバーではないこともわかっている。

 しかし、そんな都合の悪い内容は得てして忘れやすいものだ。

 残るのは勝ったという結果だけ。

 実際にその後の練習試合ではちゃんと負けている。だというのに部員たちが思い返すのは二中に勝ったという事ばかりだった。


「景気の悪いこと言うなよ。もの凄い差があるわけじゃないって、名取も言ってただろ」

 これが強豪チームなら危険な兆候といえるかもしれない。すぐにでも空気を引き締めるべきだろう。

 だが、事はそう単純ではなかった。

 部が前向きになっていることは紛れもない事実だからだ。

 今まで以上に練習に励む者もいれば、どこか浮かれている部員もいる。今年はイケるかもしれないという雰囲気。自分たちならやれるかもという奇妙な自信。

 軽く考えていると言われればその通りなのだが、去年の今頃には間違いなくなかった空気感だ。

 自分たちは王者でもなければ、強豪校でもない。東大原中学なのだ。勝って兜の緒を締めろというが、そもそも締めるほど緒が長くなかった。

 果たしてこれが良いことなのか、それとも悪いことなのか。空気を引き締めるべきなのか、それとも流れと勢いでいった方がいいものか。下手に止めたら水を差すことになるのではないか。

 こういう空気感で何かに打ち込むのは初めてのことだ。何から何まで未体験の状況である。部長としてどう対応するべきなのか。悩みが尽きるとこはない。


(本当に一筋縄じゃいかない相手よね)

 チームに対して、家久が最終的にどんな形へ持ってこうとしているかはわからない。彼の頭の中で確かな絵は完成しているのだろうか。

 何を考えているかわからず、腹の底がまるで見えてこない。それでいて求める事は求めてくるし、指導はちゃんとしてくれる。今まで見てきた大人の中でも相当厄介な部類に立っていた。

 教師じゃなければ、悪どい商売をやっていたのではないか。これは紛れもない本音である。教員免許が取れたのが奇跡に思えた。

 目的地には連れて行ってくれるかもしれないが、とんでもない強行軍になりそうだ。

(こんなんじゃまたあの人に色々と言われるか)

 頭を小さく振る。考えすぎは毒になる。部長としてよりも、今は自分の事に集中しなければいけない。号令など最低限の仕事はするが、コートの中では部長という立場など関係ないのだ。



「冬美ちゃん、さくらちゃん」

 さくらの家の前で、落合香菜が手を振っていた。おっとりしており、外見だけならあまり運動部には向かないような気質だった。動きもどこかのんびりしたところがある。優しくて面倒見が良いので、下級生からも慕われている。

「あれ、どうしたんだ?」

 彼女の後ろには両親と弟妹が立っていた。香菜は四人姉弟の一番上である。

「部活終わりに皆でお昼を食べようって事になったの。さくらちゃんのところでね」

 祖父の代から蕎麦屋を営んでおり、商店街でも古株だった。部員はもちろん、家久も何度か来ているらしい。

「だったら早く言えって。サービスするよう頼んでくるわ」

「そ、そんなの悪いよ」

「気にするなって。どうせ客いなくて暇こいてるだろ」

 実に遠慮のない物言いである。

 さくらには三人の兄がおり、小中学校も全員同じだった。学校や商店街ではちょっとした有名人で、ほとんど顔見知りみたいなものである。さくらが入学したときも新入生という感じがしなかったらしい。

 男兄弟の中で育ったからこそ、こういう性格になったのもわかる。末っ子のさくらは香菜とは逆の立場だった。

「ほら、入った、入った」

 さくらに誘導されながら、香菜の家族が店の中に入っていく。弟妹たちもはしゃいでいた。


「香菜、ちょっといい?」

 店に入ろうとした香菜を呼び止める。目をぱちくりさせながら足を止めた。

「最近のバスケ部ってどう思う?」

 抽象的な質問だとは思うが、他に訊きようがなかった。マイペースであまり周囲に流されない彼女に、バスケ部はどう見えているのか。何となく気になったのだ。

「部の雰囲気とか、練習のこととか何でもいいから」

 家久が顧問になってから、部の空気は変わった。一見すると緩やかに見えるが、練習量や厳しさは増している。あの雰囲気に誤魔化されてはいけない。上手く気づかせないようにしているが、終わった後の疲労度が以前とは明らかに違った。

 そんな中で香菜は着々と出番を増やしていた。

 彼女がプレーするたびに、こんなことができたのか、あんなに動けたのか、と驚かされた。同じチームにいながら全く気づかなかったのだ。

 これまでも別に足を引っ張っていた訳じゃない。ただ厳しくなれば付いてこられなくなるのではないか、と心配したのも事実だ。他の部員も似たようなことを思っていた。

 もちろん劇的に動けるようになった訳ではない。まだまだ未熟なところはある。それでも今年の春先からは誰も想像しなかっただろう。


「楽しいよ。最初はちんぷんかんぷんな事も多かったけど、名取先生が説明してくれるし」

 わからないといえば、家久は面倒くさがらず教えてくれる。動きを理解させるための練習を組んでくれることもあった。そういうところは素直に賞賛できる。

「大変だったりしない?」

「うん。疲れる。今日もくたくたになっちゃった」

 試合は二回やったが、後半になると動きがかなり鈍っていた。いきなり出番が増えれば当然だろう。

「この前もご飯食べながら寝そうになったんだ。お母さんに心配されちゃったよ」

「それはあなたが悪い。疲れても気をつけなさい」

 容易に画が想像できた。家族もくたくたになっている娘を見たら、気を揉むに決まっている。これまでそんなことなかったのだから。

「でも頑張れって応援してくれたよ」

 真剣さが伝わるからこそ、口を挟まずに見守っているのだ。

「香菜はどんどん上手くなってるじゃない」

「まだまだだよ。皆に付いていくだけで精一杯だもん」

 負けて悔しいとか、試合に出られないのは嫌だとか、そういう感情はまだ湧いてこないのかもしれない。

 きっと考える余裕がないのだ。他人と競うことよりも、家久に言われたことを素直にやろうとしている。余分なもののないことが成長に繋がっているのかも知れない。

「ほら、先生も言ってたでしょ。上手くなるには差があるって。私もすぐに追いつけたらいいな」

 家久の言葉を思い出す。確かにそんなことを言っていた――。


『成長スピードに差が出るのも仕方ないことさ。人によって曲線なんて違うものだからね。こんな子もいれば、こういう子もいる』

 両手を使いながら空中に線を描く。大袈裟だが言いたいことは実にわかりやすかった。

『自分で計れれば楽なんだけどね。そう上手くはいかないものさ』

 苦笑しながら線を消した。肩を落としているのは気のせいではない。

『思い通りにいかないことはこれから沢山あると思う。そういうときにどうやって物事に向き合うかだ。腐るのは簡単だけど、なるべく自分で捨てないで欲しいかな』

 何となくバスケの事だけを言っていないのはわかった。口調は緩やかだが真剣に話しているのは伝わってきた――。



「平気で嘘を吐くくせに、真面目なことも言い出すから困るわよね」

 どれだけの部員に響いていたかはわからないが、少なくても香菜は覚えていたようだ。

「私は良い人だと思うよ。一筋縄じゃいかないってところは同意するけど」

 顔を見合わせて笑みを浮かべる。他人を疑わなさそうな香菜にすらこんな風に思われているのだ。流石としか言い様がない。

「あれで授業中は悪い姿は見せないって言うじゃない。どんな仮面を被ってるやら」

「大人って恐いね」

 秋穂たちの話によれば、余裕があるどころか四苦八苦しているらしい。部活にいるときは全く違う。さくらが見たら、間違いなく冷やかしているだろう。

「ごめんね。引き留めちゃって」

「参考になった?」

「充分よ。ありがとね」

 笑顔を浮かべながら店に入っていく。闘志ややる気を前面に出すタイプではないが、練習をサボることはない。勝利に浮かれることもなく、ただ黙々と頑張っている。一歩一歩確実に進んでいるのだ。

 自分だって立っている場所はほぼ同じだ。ほんの少しだけ前にいるが、いつ抜かれてもおかしくない。

 今は自分のプレーを確立しなければいけない。ようやく新しい形が見えてきたが、再現性はなかった。

 今日の試合も後ろに引いてしまった。あれこれと考えすぎた結果、求められていることができなかったのだ。

 いくら手応えがあったからといって、すぐに変われるのなら苦労はしない。そういう選手はいるのかもしれないが、自分は違うのだ。はっきり言って余裕などなかった。


「負けられないな」

 来年は本当にポジションを取られるかも知れないのだ。学年や立場など関係ない。名取家久という男は本当にやる男である。

 ただそういう緊張感は不思議と嫌じゃなかった。



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