第33話 先輩の申し出
「試合をやるぞ」
行きつけにしている居酒屋のテーブルでいきなり切り出される。戸倉は気持ち良さそうにビールを飲み干し、ジョッキを置いた。
「秋に向けてやりたいと思ってたんだろ。だったら都合が良い。うちとやろうじゃないか」
練習試合を組むにも色々と連絡を取らないといけない。試合会場などで人脈を組んでいく必要がある。これが大変なのだ。家久は夏の大会が終わってから顧問になった。この人脈が築けていない。
小清水も戸惑うばかりで上手くいかなかったという。初めての顧問、ましてややったこともないスポーツの顧問になったのだ。上手くいかなくて当然だ。
人脈が多ければ区外や県外の学校とも組むことができる。丁度相談しようと思っていたのだが、どうやらお見通しだったみたいだ。戸倉にはそういう人脈が十二分にある。
「そりゃ助かりますけどね。正直相手になりませんよ」
練習試合にも目的がある。調整や腕試し、経験を積ませるためなど、自分達のレベルや目的に応じて、相手のレベルを考える必要があった。
今の東大原中は勝敗などを競うレベルではない。経験を積ませたいがあまりにも相手が強いと試合にならない。平田二中は強すぎるということはないが、それでもレベルは離れている。あまり練習にならないだろう。
「心配するな。連れていくのは一年と二年だけだ。それならお前の望みも叶うだろ」
ピクリと眉が動く。確かに勝ち負けは別として、良い練習試合にはなる。
「先輩にそんな暇あるんですか。都大会はもうすぐなんだから詰めに入らないといけないくせに」
平田二中は夏の総体で三位になり、都大会への出場が決まった。七月の中旬には都大会が始まる。今が一番忙しい時期のはずだ。
「時間は作ってやるよ。今日の飲み代でチャラにしてやるから感謝するんだな」
「足元見やがって。それなら結構ですよ。他の中学の人を紹介してもらおうかな」
「じゃあ仲介料を払ってもらおうかな。お前の家にある大吟醸を寄越せ」
本気だが冗談だかわからない。もちろんそれなら断る。貴重な酒もあるのだ。
「まぁ忙しいのは本当だが、下の子にも経験を積ませてやりたいんだよ。ただ他の学校との兼ね合いもある。こちらの都合だけで申し込む訳にはいかないからな」
夏の大会に勝ち上がると三年の引退は伸び、どうしても新チームへ取り組むのが遅くなってしまう。もちろん三年を蔑ろにはできない。
秋の大会は夏休みが終わればすぐにやってくる。夏を勝ち上がった強豪校も秋では完成度が低いこともある。王者である岩四も区ならば問題ないが、都の大会だと完成度が劣ることもあった。この時期はどの学校も新チームを作らなくてはいけないので忙しい。
「その点お前なら気を遣わなくてもいいし、面倒な段取りや予定を擦り合わせる必要もない。終わった後に飲みに行ける。至れり尽くせりだろ」
「こっちの都合には気を遣ってほしいんですけどね」
お互いの思惑が一致するのは確かだ。むしろメリットはこちらの方が大きい。
「他の学校の先生には俺からも話を通してやる。これで少しは練習試合が組みやすくなるだろう。そのぶん秋の大会は吹いてもらうからな」
「いきなりですか。初めて顧問になったんだから、少しはのんびりやらせてくださいよ」
審判には基本的にライセンスが必要であるが、区の一回戦などはライセンスがなくても吹ける。区の大会は主に顧問が審判を吹くことになっている。
「お前は経験者だろ。つべこべ言わずにやれ。俺に今までの恩を返すと思ってな」
「酷いな。恩の押し売りで通報するぞ」
「人が足りないんだよ。お前のところの先生にも吹いてもらいたいくらいだ」
顧問の中にはバスケ経験者もいれば未経験者もいる。審判部も配慮しており、未経験の者には一回戦や、優勝候補と弱小校など差が開きやすい試合を吹いてもらっている。
都大会や区の準決や決勝など、笛が勝敗に影響するような試合。ライセンスを持っている者が吹くのはこの辺りからだ。
「あんまり強引にやらせたくはないですけどね」
藤宮は既に吹いているが、小清水はまだ吹いたことがないと言っていた。あまり運動が得意にも見えないし不安になる。
「しょうがないだろ。大会を運営していくためだよ」
経験者だけが審判をやればいいという考えは理解できる。審判は難しく、運動量も多いからだ。もしも未経験者ならば家久も同じことを思っていたかもしれない。
ただ大会が回らないのも確かなのだ。予選をやる会場は一つじゃない。当然顧問は自分の部を引率しないといけない。試合の組み合わせはクジで決めるので自分では選べない。
必然的に会場にいる者が吹かないといけなくなる。経験者が少ない会場もあるのだ。
審判の身体は一つだ。同じ人間が何試合も吹いていたら動けなくなってしまう。そのために一回戦くらいは吹いてほしいのだ。
「育成するのもお前の仕事だ。経験者なんだから色々と教えてやれ」
「無茶言わないでください。こっちはただでさえ限界なのに」
部活と仕事。二つをしっかりこなすのは本当に大変だ。嫌というほど苦労を味わっている。肉体的にも精神的にも負担が大きい。
「今まで楽をしていた罰だ。頭を使え。身体を動かせ。何度失敗してもいいから、少しずつできるようになっていけ。ただし子供に責任は押し付けるなよ」
「頭が痛くなるな。折れそうな心をケアすることもできない」
酒量は増えており、酒代がかさむばかりだ。女性と恋をする暇もない。そもそも出会いがないのだ。合コンなど当然できない。友人とは時間が合わないし、わざわざ遠出するなら寝たいくらいだ。個人的な歴史研究もしたいというのに時間が取れない。
「おいおい随分枯れているな。もっと人生を謳歌しろよ」
「人をこんな窮地に追いやった一端のくせによく言えるな」
戸倉に遭わなければ、そもそもバスケとはきっぱり縁を切っていた。指導する知識などなく、家にある大量の専門書もなかったはずだ。今となっては資料を買う必要ないので助かるが、苦労を背負うことになった元凶にもなっている。
「人生が潤うだろ。やり甲斐ができるんだからな」
「その潤いのために相当な苦労と負担があるんですけど」
「師匠を敬え。熱い涙を流しながら拝んでも罰は当たらないぞ」
「止めてくれ。蕁麻疹が出そうです。学園ドラマ世代はこれだから」
「何だよ、面白いだろ。今でも通じるものがある。腐ったミカンなんか感動するぞ」
世代的には合わないのだが、戸倉は昔の学園ドラマが好きだった。家久からすれば荒唐無稽と思うものも素直に感動していた。
「しかし楽しみだな。純粋に興味があるよ。お前がどんなチームを作るのか」
顧問に就任してからここまでやれたのは、戸倉の指導があったことが大きい。何も知らない状態だったら、右往左往していたはずだ。本来なら頭が上がらない人だが、恩に着せるような人間じゃない。嗜好や考え方は合わないのに、不思議と意気投合できた。
「あんまり期待しないでくださいよ。まだまだ土台作りの最中なんだ」
「うちも同じようなものだ。良い一年もいるし、やらせてみるのも面白い」
戸倉には部活だけでなく、授業でも色々と相談することが多い。教師になってからも面倒を見てもらっている。
もちろん家久はお礼など口にしない。素直に言うのは何か引っ掛かるからだ。戸倉との関係はこういう感じで良いと思っている。
細かい段取りを決めながら飲み会を続ける。自然と話が熱中していくのだった。
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