第32話 変化する常識
「行きます」
「おう。どんとこい」
格闘技で使うマットを持ってゴール下に立つ。柔道部から借りてきたのだ。
翔子がレイアップシュートを打とうとしたとき、その身体を横から押す。衝撃が和らいでいるため、多少強く押しても痛くはない。体勢が崩れながらもシュートを打つが外れてしまう。
「負けずに押し返してこい。これぐらいの当たりに負けるなよ」
反対側のゴールでは小清水が同じようにやっている。早速当たり負けしないための練習をしていた。
「よっしゃ。見ていろよ」
今度はさくらの番だ。相変わらずドリブルは高いが、ぶつかるとパワーを感じる。肉体の強さはファーストコンタクトで充分伝わってくる。これなら他の部員よりも強く押しても大丈夫だ。ぐぐっと力を入れたが、さくらも押し返してきた。
「どわっ」
間抜けな声を零しながらたたらを踏んだ。理由は簡単である。
「殴るな、アホ。手を出したら反則だぞ!」
「何でだよ。ぶつかり合いで負けてないじゃんか」
「すぐに退場するわ。喧嘩じゃないんだぞ」
相手のディフェンスを防ぐために、腕を使ってガードする技術はあるが、その腕を使って押したら反則である。さくらは頭に血が上ってやりかねないから怖い。
「腕で押すんじゃなくて、身体のぶつかり合いで勝つんだよ。フィジカルコンタクトが強くなれば、ディフェンスをかわすステップの使いどころがより増える。柔と剛。どっちも大切だぞ」
体勢を立て直しながら部員達にアドバイスする。
「強いチームはディフェンスでも全力で当たってくるぞ。その姿勢は見習うべきだ。お前達もやられたくないなら、相手を潰すつもりでいけ。ファウルするくらいが丁度いいぞ」
「せ、先生」
ぎょっとして大きく目を見開く。聞き逃せない不穏なワードがあったからだ。家久は気にした様子もなく続ける。
「もちろん潰せと言っても、相手を怪我させろとか、壊してこいって意味じゃないぞ。全力で止めてこいという意味だからな。あくまで心意気だから勘違いしないように。部活調書にも俺が言ったなんて書くなよ。クビになるから」
「あたしらが給料を握っているのか。気分が良いな」
「そしたらお前の家にたかりにいくからな。俺の生活能力の無さを舐めるなよ」
「堂々と言わないでください」
ちょっとした笑いが起きる。場が和んだところで笛を吹いて給水に入った。
「いいんですか。あんなこと言って」
このご時世ではああいう発言も問題となることがある。心配して当然だ。
「こういう言い方をした方がわかりやすいですからね。勘違いさせないようにわざわざ説明もしています。面倒なことですけど」
指導する際に潰せというワードは珍しくない。ファウル覚悟なども当たり前に使われていた。もちろん相手を本当に怪我させてこいという意味じゃない。あくまでもニュアンスである。常識で考えればわかることである。
それでも今の時代は問題が起きないように配慮しなくてはいけない。ワードを使うならば、わざとおどけてみたり、しっかりと意図を説明する必要ができてしまった。
「本当に時代は変わるものだ。年々付いていけなくなる」
歴史教師だからこそ、文化や風俗の移り変わりは他人より理解しているつもりだが、しっかり適応できているかと問われると自信を持って頷けない。置いていかれる感覚は何度もある。
常識や当たり前がどんどん変わってしまう。正しいことが間違いになり、気にしていないものを気にしなくてはいけなくなる。何も問題がなかったのに配慮しなくてはいけなくなったこともある。
こうして給水時間を設けているのがいい例である。今では考えられないが昔は練習中に水を飲むことは禁止だった。それが常識として受け入れられていたのである。
体罰もそうだ。昔は当たり前のように行われていた。これは相手との信頼関係があるからこそ成り立つのだ。もしくは見極めのできる人間がするべきだ。大丈夫な生徒とそうでない生徒。良い影響を与えられる者とそうでない者がいる。
今の時代は体罰にならないと思っていても体罰になってしまう。軽く小突くだけで問題視されてしまう。それでもなくならないのは効果があるからだ。
体罰は劇薬のようなものだ。即効性があり効き目がある。絶対的に肯定する訳じゃないが、有効性は認めざるをえない。しかもこの薬は使おうと思えば、いつでも使えてしまうことが問題なのだ。面倒な手続きをしなくてもよく、高い金を払う必要もない。
いわば引き金に指を掛け続けているようなものだ。頼みにするのは理性。我慢という枷を外してしまえば、どんな人間だっていつでも使える。
引き金を引くつもりなどなくても、反射的に引いてしまうことがある。だからこそ恐ろしい。慣れきってしまえば劇薬を使うことに躊躇いがなくなる。
できれば永遠に使わないようにしたい。自分には持て余す薬だからだ。でも絶対に使わないと限らないのが純粋に怖いのだ。自制していかないといけない。
鞄に入れていた携帯が鳴ったので画面を見つめる。戸倉と表示されていた。用件は何となく予想がついたが電話に出る。丁度話しておきたいこともあった。
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