第30話 どんなに小さな一歩でも


「だ、大丈夫ですか。風見さん」

 小清水たちが慌ただしく駆け寄る。翔子は無理な体勢からコートに倒れ込んだ。見ている方が怖くなる。

「へ、平気です。ちょっと顔を打ったけど」

 翔子はけろりとしているが、顔面が赤くなっている。爪が少し割れているが、どうやら怪我などはしていない。

「あんたはまた無茶をして。もう少し後先を考えなさいよ」

「熱くなるのはいいが、無茶しすぎるなよ。自分の身体を守るのは自分なんだからな」

 いつもと変わらない姿にほっとする。鼻血などは出ていない。


「それより先生。触った。触れたんだよ、ボールに」

 興奮冷めやらぬ様子で騒ぎ出す。今までほとんど反応できず、いいようにやられていたが、ついにボールを触ることができたのだ。喜びもひとしおだろう。

「少し爪が触れたくらいがそんなに嬉しい。止められなかったくせに」

「この指が今度は手になる。そして必ずあんたを止めるのよ。覚悟しておきなさい」

 これはただの一歩でしかない。実際にシュートは入れられており、まだまだ明確な差がある。それでも彼女にとっては大きな一歩なのだ。

「ただの偶然が起きただけ。次は二度と追いつけないところにいるから。それと指じゃなくて爪」

「指だろうが爪だろうが、あんたを捉えたことは変わらないわ。私が勝つ日も近いわね」

「調子に乗れるのは馬鹿だから。本当に豚も木に登るのね。木ごと落ちて水没しろ」

「もうなんで喧嘩になるのよ。そこはお互い認め合ってがっしり握手でいいじゃない」

 呆れながら仲裁する。とりあえず両者とも負けず嫌いなのはよくわかった。案外似た者同士なのかもしれない。


「一件落着、ということでいいのでしょうか」

「いいんじゃないですか。雨降って地固まるというやつですよ」

「ぬかるみの中で泥をぶつけ合っているようにしか見えませんよ」

 実に的確な表現である。ただ少なくても根に持つようなことはないだろう。ああやってわかりやすい対抗意識を燃やしてくれた方が楽でいい。陰湿な方向に向かうよりは遥かにましだ。

「ああ~くそっ。すっきりしない」

 一勝負終わったのにさくらはまだ納得していない。ギリギリと歯軋りしている。

「お前も意外としつこい奴だな。後は練習でやり合えばいいだろ」

「そうだけどよ。あたしはあの澄ました顔を変えてやりたい。一発がつんとくらわしてやりたいんだ」

 頭を掻き毟る。やられてばかりなのが悔しくて仕方ないのだ。

「低レベルの話をしないでください。耳が腐るので」

「この野郎。喧嘩売っているのか」

 翔子たちが炎と氷ならば、こっちは火と油だ。よく燃えている。

 芽衣には遠慮というものがまるでない。といっても部長や秋穂には普通に接しているのを見ると、ああいう言動をするのは無駄に攻撃的な相手にだけなのだ。

「部活内でやり合うなら大いに結構だが暴力は止めてくれよ。俺の責任問題になるから」

「やらねぇよ。それで憂さを晴らしても意味ないだろ」

 考えるだけで恐ろしくなる。部活内いじめなど対処の仕方もわからないからだ。


「そうだ。名取がいるじゃんか!」

 名案とばかりに指を差す。一瞬訳がわからずに思考が止まる。

「あたしらの仇を取ってくれよ。あんたならできるんだろ」

 ここにいる全員の視線が一斉に向けられる。気だるげに頭を掻いた。

「あのなぁ俺があいつと勝負しても意味がないだろ。だいたい仇を取るって言っても、俺からすれば彼女も部員の一人だ」

「連れてきたのは先生ですからね。どちらかというと里中さんの立場ですよ」

「細かいことはいいんだよ。散々あたしらをけしかけたんだ。今度はあんたがやってくれよ。ほれ、先生のいいとこ見てみたい」

 リズムよくぱんぱんと手拍子する。飲み屋で一気飲みを煽る歌だ。


「お前はいくつだよ。やけに古いものを知ってるな」

 理屈が通じない。問題は他の部員も盛り上がっていることだ。

「そうっスよ。私も先生がどんな風に止めるのか見たい」

 仇を取って欲しいというよりも参考にしようとしている。勉強熱心なのは素晴らしいことだが勘弁して欲しい。

「確かに先生の本気のプレーは見たことないよね。見本を見せるときは明らかに手を抜いているし、他人に言うくらいだからさぞ上手いと思う。完璧に止めてくれるんじゃないかな」

これまでの意趣返しとばかりに煽ってくる。とても面白がっていた。

「とりあえず一戦だけでもしてみたらどうですか。皆も納得すると思います。別に顧問が部員と一対一をしてはいけないという決まりもないですから。話で解決するより手っ取り早いのでは」

 冬美が冷静に解決案を提示する。皆の中には自分も入っているのだろう。見てみたいという気持ちはあるようだ。


「ということだ。どうする?」

 もう一人の当事者に話を振る。できれば断って欲しい。

「私は構わない。誰であろうと」

 思っていた通り受ける気満々だった。クールなようで意外と熱い。大人が相手でも本気で勝とうとしている。

「あの、名取先生。よろしいのですか」

この中では唯一といってもいい味方が心配してくれる。

「ま、仕方ないですね。流石にワンプレイで腰や足をやることはないと思います」

「でも知り合いの同期はノック中にいきなり腰をやったと言っていましたよ」

「マジですか。怖いな。ガタはいきなりくるというし」

 生徒の前で見本を見せるのとは訳が違う。多少なりとも本気で動かないといけない。果たして全盛期の動きができるかどうか。復帰したのはつい先日なのだ。この間の練習でも体力の衰えを実感させられた。


「や、やっぱり止めた方が」

 おろおろしているのを尻目に芽衣の元へ向かう。準備は万端といったところだ。

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