第26話 彼女の事情


 練習が終わった後、家久は夕日の落ちる土手を歩いていく。川の水面に光が反射し、きらきらと光っている。水気を吹くんだ風が夏場には心地良い。岸を繋ぐ橋の上には絶え間なく車が行き交っており、のどかな土手とは対照的だ。

 土手は通学路になっているが、自宅とは違う方向にある。わざわざ遠回りしたのは、ある生徒を捜すためである。翔子達の情報からすれば自主練習をしているはずだが、すぐに見つけることができた。

 土手の下の広場でダッシュをしている。何度も往復しているが、速度の落ちる様子はない。手を抜いていないのがはっきりわかる。あまり邪魔をしたくはないが、こちらも用件を伝えなくてはいけない。

 なだらかな坂を下りて、ゆっくりと近づいていく。家久の存在に気付いたのか走るのを止めた。


「自己紹介は必要かな」

「いりません。ちゃんと覚えています」

 里中芽衣は表情を変えることなく答えた。

「ああ、よかった。なにせ新任教師だからね。顔と名前を覚えてもらっている自信がない」

 おどけた態度を取りながら話しかける。

「少し時間を取らせるけどいいかい」

「断っても勝手に話をするくせに」

「ありゃばれてる」

 苦笑しながら肩を竦める。余計な前置きやご機嫌取りなどいらないようだ。


「じゃあ単刀直入に言うよ。君にバスケ部へ入って欲しい。まだまだ時間は掛かるだろうけど、強くなろうと頑張っている。君が入ってくれると助かるんだ」

 芽衣は無言のままだ。何を考えているか読みにくい。

「もちろん君の事情は理解している」

 身体がピクリと動く。どこか警戒の色を含んだ顔をしていた。

「おっと誤解しないでくれ。邪まなことなんてしてないよ。俺は教師だからね。正攻法でいったのさ。君のお母さんが色々と教えてくれたよ」

 母親も娘に関しては色々と思うところがあったのだろう。予想していた以上にすんなり話してくれた。


「別に私は不幸だとは思っていない。無いものをねだっても仕方ないから」

 里中芽衣の父親は数年前に亡くなっており、母子家庭になっている。ミニバスをやっているときに選抜を辞退したのは、家庭の事情でゴタゴタしていたからだ。

 かなりの選手であることは間違いない。最初に聞いたときはどうしてこの中学にいるのか不思議だったが、話を聞いてからは納得した。経済的な事情から、バスケの強い私立校に行くという選択を取ることはできなかったのだ。


 もちろん区立校にもバスケの強い中学はあったが、問題は中学の仕組みである。

 学区外でも入学できるときはあるが抽選に当たらなければいけない。そもそも定員割れをしなくては抽選の機会がない。

 中学は高校よりも遥かに情勢が変わりやすい。強いチームも顧問が代われば、一気に弱くなることもある。その逆もしかりだ。中学の教師には必ず異動がある。自分の意思では決められず、突然決まることもあるのだ。

 期待して入学したら、お目当ての教師が異動していたという話も聞いた。ここ数年は少し状況が変わりつつあるが、それでも安定した強さを保っているのが王者の平田四中だ。


 しかしこの学校は同じ区内だが真逆の方向にあり、バスで通う必要がある。それでも朝練に間に合うかわからず、夜練は遅くまでやっている。こんな状態で通うとなると一体どれだけ負担が掛かるだろう。子供だけではなく親にも覚悟がいるのだ。車で毎朝送り届けるという父兄もいるくらいだ。

 結局芽衣は時間を最大限に活かすため一番近い東大原中にしたのだ。家事も手伝えるし、何より親の負担にはならない。


「バスケは止めません。三年間自分を鍛えて強い高校に行きます。入部試験があるなら認めさせる」

 バスケは野球やサッカーと違って、クラブチームの環境が整っているとはいえない。かなり困難な道であることはわかっているはずだ。

「しっかりしてるな。中学時代の俺に聞かせてやりたいくらいだ」

 現実的に考えた上で諦めることなくやるべきことをやっている。彼女もまた上を目指しているのだ。

「あり得ないことを口にしても時間の無駄。だから優勝だとか、何もわかっていないのに夢みたいなことを語る人は嫌い。口に出して満足しているだけの人間はもっと嫌い」

「随分と嫌われたみたいだな」

 誰の事を言っているのかすぐにわかる。

「けしかけたのは先生です」

「人聞きが悪いな。俺は純粋に勧誘して欲しかっただけだよ。生徒同士の方が話しやすいし、君みたいな生徒と触れると良い刺激にもなる。あいつはちゃんと努力しているぞ。まだまだ何十歩も劣っているが」

 同年代のライバルができたことでかなり燃えている。元々熱心だったが、ますます熱が増した気がした。こういう効果が出るから面白い。

「それに目標を口に出すのは悪いことじゃない。己を鼓舞することにも繋がる。言霊というらしい」

 小清水に教えてもらったことだった。自分はほとんどやったことはない。


「君がうちにきた理由はわかった。でもどうして部活に入らなかったんだ。君くらいの向上心があるなら、いくらでも上達できるだろ。何よりも体育館が使える。これは魅力的じゃないか」

 芽衣はチームが勝てないとわかっていても、自らを高めることに手を抜かない。鍛えるだけなら部活に入ってもできることだ。

「その使える時間が少ないから。面倒な先輩にも絡まれるし、自分で練習した方がまし」

 しっかりとした目標を持って進める人間には、去年の緩い空気や雰囲気は合わなかったはずだ。先輩と衝突するのは目に見えている。おまけに練習時間が少ない上に一年は雑用もしないといけない。

 去年までのチームならどれだけ上手くても、一年を特別扱いすることはない。試合に出すこともしないし、満足に練習できる環境ともいえない。本格的に中心に立ってできるのは、来年の夏からだろう。体育館が使えるという面を差し引いても、損しかないと判断したのだ。

 ストイックで現実的。一人でも練習できるプレイヤー。地味な練習も手を抜かずにやっている。大人でもモチベーションを保つのは難しいのだが、実にしっかりしていた。本当に中学生とは思えない。


「別に否定しているつもりはない。それも部活動だから。ただ私には必要ないだけです」

 弱い部を馬鹿にしている訳ではない。里中芽衣というプレイヤーにとっては無理して入る意味がないのだ。

「先生はどう? 優勝できると思ってる」

 真意を見通すように大きな瞳でじっと見つめてくる。本人にその気はなくても見定められている気がしていた。

「かなり難しいとは思うよ。あまりにも不利だから。でもやれるだけはやらないとね。せっかく顧問になったからにはさ」

 偽りのない本音である。優勝なんて口が裂けても言えない。今の段階では一勝できるかもわからない。だから目の前の問題を解決していき、少しでも確率を高めるだけだ。それぐらいしかできない。


「君が入部してくれば少しは楽になる。正直俺の指導能力の保証はできない。結果も出ていないから、手応えなんてある訳がないからね。君に判断してもらうしかない」

 真剣な眼差しで家久を見据える。

「でもどんな名コーチの指導でもフィットするとは限らないだろ。だったら後で基準にするために、経験しておくのも悪いことじゃないと思うよ。いずれ高校に行ったとき比較する対象にもなる」

 高校ごとに練習のやり方や指導の内容も変わってくる。同じような実力の選手がある高校では出場できても、違う高校では出られないこともある。監督の好みやスタイルに合わないということもあるからだ。

 一つのスタイルを知っておけば、部活見学などで自分に合う高校を見つけるのに役に立つかもしれない。


「だからこれは勧誘じゃない。取引だと思えばいい」

 強い風が二人の間を吹き抜ける。言葉は吹き消されることなく届いている。

「朝練も始めたし、練習時間は前より増やすつもりだよ。体育館が使えるのは君にも得じゃないか。悪い内容じゃないと思うけどね」

 個人練習ができる時間が取れれば、チームが弱くても上手くなれる。芽衣の不満の一つは解消してやれる。練習ができるなら、ある程度のことは我慢できる選手だ。

「新チームになったことだし、試合には一年も使っていくつもりだ。君が選ばれるかどうかはわからないが」

 練習試合もなるべく組むつもりなので試合勘も養える。勝ち負けを競う真剣な試合はチームに属していないと機会がない。


「じゃあそろそろ失礼するよ。気が向いたら見学にきてくれ。自己練もいいけど風邪は引くなよ」

「この後も練習の続きですか」

「仕事だよ、仕事。教師は部活だけやっていればいい訳じゃないんだ」

 本来なら仕事に回していた時間を部活に使っている。部活をやったからといって仕事がなくなることはない。仕事は仕事で片付けないといけない。

 このまま学校に戻って続きをやるのも考えたが、家に帰った方が早い。本当は家に仕事を持ち込みたくないがやらないと終わらないのだ。頭が痛くなりそうだった。

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