第25話 教師の理性


「お疲れ様です」

 小清水がタオルを渡してくれる。大きな汗の粒を拭き取っていく。

「昔みたいに身体が動かないですよ。しんどいです」

 想像していた以上に負担が掛かっている。現役と同じ頃の動きは一応できるが、持続力がなくなっているのは確実だ。

 現役を引退してから、気が向いたときはジョギングなどをしていたが、ここまで鈍っているとは。体育館はこれからもっと蒸し暑くなっていく。身体かもつだろうか。

「それはそうと小清水先生。できるなら消してくれませんか」

 持っているノートには、家久の指導内容や練習メニューなどが書き込まれていた。

「そうはいきません。私はまだまだわからないことばかりですから」

「だったら練習メニューだけにしておいてください」

 勉強熱心なのはわかるし、素直に感心しているが、発言したことまで残されると妙に恥ずかしい気持ちになる。

「社会科の先生が何を言うんです。資料を残すのは先人がしてきたことですよ。歴史研究において重要になるじゃないですか」

「そんな大層なものじゃない。比べないでください」

 歴史上の人物と並べられると肩身が狭くなる。結果を出した名指導者の言葉ならともかく、何も成していない己の言葉など説得力がない。同列に扱われるなんておこがましい。


「でも少し意外でした。チームを強くするといったからてっきり」

「鬼のようにフットワークを何時間とか、シュートを数百本とか、外れたらダッシュを何十本とかもありますね。大声で怒鳴りつけるのもプラスしましょうか」

 考えていることを指摘する。実に想像しやすい風景である。

「このチームでやれば一気に退部者が続出しますよ。そんな集中力やメンタルはないですから。高い意識も持っていない」

 強豪校に入部する者はきつい練習をする覚悟はできている。後は付いていけるか、いけないかだけである。

「朝練も同じです。いきなり強制しても最初しか来ませんよ。だからまずは来なくちゃいけないのかな、という空気を作り出します。慣れていけば自然と長く練習できるようになる。勉強が嫌いなら机に座る習慣から身につけさせないと」

 これは練習を見学し、試合をさせたときに決めた方針である。

「緩やかな体制に慣れすぎていますからね。ゆっくり変えていかないと。ぬるま湯がいきなり熱湯になったら、風呂を出ていきますから」

 このチームには一部を除いて、厳しい練習をする覚悟もない。部員のメンタルはまだまだ未熟だった。もちろん責められることじゃない。普通の中学校では当たり前のことである。


 休憩を終えて部員たちが集まってきた。ひとまず話を区切ることにする。

「次はレイアップだ。ただし適当にやっちゃダメだよ。できない子は確実に打てるようにすること。ある程度打てるなら、少しでも速いスピードでやる。ドリブルパフォーマンスを入れたり、ステップを変えてもいいぞ。自分たちで工夫していけ」

 大きな返事が返ってくる。まずは声を出すことからだ。声を出すのはコミュニケーションの一つである。チーム内の意思疎通は大切な要素だ。ちゃんとできるようにしたかった。

「わからないことがあったら遠慮なく聞けよ。別に先生じゃなくてもいいからな。恥ずかしいことじゃないぞ」

「もちろんっスよ。どんなときも元気よくいきます」

「別にずっとでかい声を出さなくてもいいからな。相手と意思疎通ができればいい」

 笑いながら翔子を手で制する。この明るさと真っ直ぐさは美点であるが、全ての者が持てる訳じゃない。

「そういう事が苦手な子もいると思う。気持ちはよくわかるよ。ただ困ったことに挨拶とかは大人になってからの方が使うんだよね」

 誰とも喋らずにすむ仕事など中々ない。相手と特段な仲良くなる気がなくても、最低限のコミュニケーションは必要になってくる時がある。

「そのときのための練習だと思えばいいさ。じゃあ練習始め」

 部員たちがそれぞれ位置に着き、練習が再開した。


 

「練習時間は確実に増えていますが、飽きさせないように工夫しないといけませんね」

 先程の話の続きをする。基本的なレイアップシュートも位置を変えたり、コーンなどの器具を使うなど、微妙にやり方を変えていく。

「もっと悪く言うなら、いかに上手く騙すかですよ。大変だと気付かせないためにね」

 細かい練習をいくつも入れ、色んなことをやらせる。本当は同じような練習なのに、新しいことをしているように錯覚させるのだ。

 集中力のないチームが同じ練習を何時間もやっていると必ず緩む。効率も悪くなり、練習にならない。長時間きつい練習を黙々とできるところが、強豪校とのわかりやすい違いである。

「これでも結構気を遣っていますよ。頭も痛くなりましたから」

 もちろんこのやり方には欠点もある。とにかく時間がかかるのだ。ただでさえ切り替えが遅いチームで違う練習をいくつもするのだから当然だろう。

 てきぱきと動けておらず、中には喋りながら歩いている者もいる。緊張感が途切れることも頻繁にあった。前の人間が終わったらすぐに準備をしておくという、当たり前のことができていない。

 ほんの数分の遅れが積み重なり、限られた時間を圧迫する。タイムマネージメントは本当に難しい。最初は計画通りに進まないと聞いていたが、嫌でも思い知らされた。何度も修正し、ギリギリでやっている。だからといって削ることができない練習ばかりなのだ。


「しばらくは我慢してやっていくしかないですね」

 まずは下手な小細工をしなくてもいい段階までもっていく。次の段階に移るのは耐性をつけてからだ。

「私は誤解してました。先生は立派ですよ。部員のことを思って、そこまで我慢できるんですから」

 目を輝かせながら感動している。初練習や試合での件から、何かとんでもないことをやらせるのでは、と心配していたのだ。実際は想像していたよりも生徒のことを思い、チームを強くしようと考えている。

「買い被らないでください。俺は聖人君子じゃないですよ。というか苛立ちまくっていましたよ。今すぐ叫び出したいくらいね」

 にこにこと人の良い笑顔を浮かべたまま答える。小清水は唖然としながら見つめる。感動はぶち壊され、目の輝きは一気に消えた。


「安心してください。手を出したりはしませんよ」


「だ、駄目ですよ。絶対に」

 子供は可愛く、教え子は尊いという気持ちはわかる。まだそこまで長い時間を接した訳ではないが、部員を成長させたいという気持ちは芽生えていた。

 だがそれと同じくらい苛立ちもあるのだ。

 下手なことはまだ耐えられるが、プレー以外の部分が問題なのだ。集合が遅いとか、話が聞けないとか、そういう光景を見るたびに何度も失望感を抱いた。疲労感に襲われることもある。

 覚悟はしていたが予想以上に精神へのダメージが大きかった。もし力を入れて指導しても結果が変わらなかったら、より大きくなるだろう。教育者や指導者だからといって全てを許容し、受け入れられるようにはなれない。


「選手を信用しすぎない方がいいですよ。信頼もするし、大切に思うけど、それとこれとは別くらいに考えるようにしています。俺にはそっちの方が楽ですから」

 だからこそ一歩引いておき、頭の中で線引きをしておくのだ。無駄に力を入れ、気張りすぎると自分では絶対に上手くいかない。

「怒鳴るときは耐性を付けてからですね。まずは怒られることに慣れさせないと」

 相手を嫌っているから怒るのではない。必要だからそうするのだ。感情任せに怒るのはダメだと思うが、締めるところは締めなくてはいけない。


『恐怖』

 ある程度は必要なものである。子供は大人が思うよりもシビアなところがある。子供を相手にするからこそ手は抜けない。

 だからといってただ感情任せに怒れば、納得などしてくれない。どんなに正しいと思ったことを言っても理解してくれる者ばかりではない。受け取り方など人それぞれだからだ。伝わらないことなど沢山あると戸倉には何度も言われた。

 それでも遠慮したり、必要だと思ったら言わなくてはいけない。嫌われるとわかっていても言わなくてはいけないときがある。

 切り替えが遅いときはちゃんと注意する。本当に理解するまで根気よく教える。すぐにできるようになる生徒は中々いない。怒鳴ってもできるようにならないなら、少しずつでいいから守るべきことを浸透させていく。部員を思いながらも目を曇らせない。ダメならダメなものとして試合では使わない。

『常に冷静に、時に冷徹に選手を見る』

 これが顧問としての自分が取るスタイルだ。コーチとして選手を信じたい気持ちと、監督として冷静に見切りをつける思考。この二つを両立させるために。


「あんまり思い詰めないでください。いきなり全部はできませんよ。ゆっくりでもうちだけのチームを作っていきましょうよ」

「わかっています。そのためにもう一つのピースを埋めに行くとしますかな」

「また何かよからぬことを企んでいませんか」

「まさか。正当な手段ですよ」

 表情を歪める小清水に軽く答える。これから行うのは一つの勝負である。バスケ部を変えられるかもしれない。とても大きなギャンブルだ。


「先生の気持ちや考えはわかりましたけど、一つ言わせてください。絶対に面白がってますよね」

 困難や試練を与えるときに見せる顔は生き生きとしている。そこにあるのは間違っても悲嘆や失望などではない。詐欺師を逆に騙してしまいそうにも見えるのだ。


「そんなことありません。俺はいつでも心苦しいですよ」

 いまいち信用できない笑みを作り、部員の元へ向かう。練習は活気に満ちていくのだった。

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