第9話 初めての練習


 体育館に備えられた部活準備室の椅子に腰かける。用具が置かれた部屋とは別になっており、こちらには洗面台や机が置かれている。これからはここが仕事場の一つになるのだ。

 バッシュの紐を締め終えると、爪先で地面を蹴って履き心地を確かめる。もう何度もやってきたことだが新鮮に感じた。気持ちが自然と引き締まっていく。戸倉に言われたので仕方なく新居にも持ってきたのだが、まさか本当に役に立つ日が来るとは思わなかった。


 準備室を出て、体育館に足を踏み入れた。バッシュがコートを擦る独特の感触。床を切るような甲高い音を鳴らす。こればかりは上履きでは味わえない。

 懐かしさすら感じる体育館の雰囲気。ボールの弾む音。威勢の良い掛け声。コートを走る足音。リングにぶつかる音。いくつもの音が重なり合い、体育館の空気を作り出している。赴任してから何度も来ているはずなのに、違う場所のように感じた。


 家久の姿を見て、部員達が集合する。ずらりと並ぶ女子部員の前に立つ。これも現役時代にはなかったことだ。


「話は聞いていると思うけど、今日から小清水先生と一緒に顧問を務めることになった名取家久です」

 無難に挨拶をすませる。期待する者や興味深そうな者、不安そうな者、値踏みするような視線を送る者。反応は様々である。この時期に新しい顧問がくることはあまりない。珍しいと思われても仕方ない。


「部長の三橋です。よろしくお願いします」

部員を代表して前に出る。声音も固く真面目な印象を受ける。

「一応経験者だけどコーチとしての経験は素人も同然だ。わからないことがあったら俺の方から質問するので、君達も気になることは気軽に聞いてくれ。色々と不安に思うかもしれないけど、あまり難しく考えずにやっていこう」

 部員を見渡しながら語りかける。不安なのは家久も同じなのだが、部員達の前には出さないようにする。

「今日はとりあえずいつも通り練習してみてくれ」

 練習前に小清水から色々と聞いてはいたが、情報がまるで足りない。個々の実力どころか顔や名前も一致していないのだ。部の様子や雰囲気、どんな練習をしているのかも見ておきたかった。このチームはどういうチームなのかを知ることが第一歩だ。


「わかっていても意外と緊張するものですね。授業で慣れていたと思ってたのに」

 部員達が離れていくと小さく息を吐いた。練習する前から疲れた気分になる。

「私も初めてのときは上手く喋れませんでしたから」

 授業をするのとはまた違った感覚である。一番の違いは生徒との距離だ。ほんの少し前に出れば触れる距離である。そんな近くで二十人近くの生徒がいるのだ。妙な緊張感がある。


「部の練習メニューは誰が考えたんですか」

 コートでは学年ごとに別れ、基本的なレイアップシュートからやっていた。

「昔からあるものを使っていたそうです。下口先生も前任の方に聞いたそうですよ」

「オールコートのときも変わりませんか」

「はい。特別なことはしていませんよ」

 東大原中学の体育館は一般的な体育館と同じ造りでゴールが六つある。二階には小体育室と窓を閉めるための通路が備え付けられており、今は卓球部が活動していた。

 バスケ部は男女でコートを半分に割って使っており、片方が全面を使うときは片方が外錬になる。男女で混じって練習する学校もあるが、この部は違うようだった。レベルの差があるから仕方ないことでもある。

 反対側のコートでも男子が本格的に練習を始めたのか、活気に満ちていく。


「三年がいたときはどうしてました? 人数はかなりいたでしょう」

 新入生が入ってきて、必ずぶち当たるのが練習場所の確保である。何しろ一気に部員が増えるのだから。興味本位やとりあえず入部してくる者も多い。

「コートが空いているときは隅で基礎練習をしたり、外で練習していましたよ」

 顧問の指導方針が違う場合を除き、基本的に一年が堂々と体育館が使えるのは三年が引退してからだ。どこの中学にもあるわかりやすいルールである。

 見たところ技術的に未熟な子が多い。レイアップが形になっていない子もいる。尤も二年の中にも安定していない子はいるが。


「一年生も辞めた子が多くて。正直ショックでした」

 わかりやすく肩を落としている。面倒を見てきた部員がいなくなるのだから当然だ。

「そういうものですよ。夏までに大抵の子は辞めるものです。無理に引き留める訳にもいきませんからね」

「下口先生にも言われました。でも」

 運動部では至極当たり前のことだが、小清水は割り切れていないようだ。生来の優しさからくるのだろう。こればかりは慣れてもらう他ない。


(やっぱり言わない方がいいかな)

 言い掛けた言葉を心にしまう。まだ第一段階を超えただけである。部活の本番はこれからなのだ。夏はもっと苦しくなる。恐らく辞める生徒はまだ増えるだろう。

 家久が中学生のときもそうだった。特段厳しい練習はしていなかったが、それでも夏を過ぎた頃にはかなりいなくなった。元は三十人近くいた部員も最後に残ったのは十人にも満たなかった。


 練習は滞りなく進んでいく。レイアップにフットワーク、ドリブルにジャンプシュートやツーメン、一対一といったバスケの基本的な練習だった。確かに一通りのメニューはこなしている。

 家久は練習に口を出すことをしなかったが、ただじっとしていた訳じゃない。体育館の中を歩き回っていた。

 椅子に座って見ていたかと思うと、コートの隅を歩きながら見学する。その場で立ち尽くしてじっくりと見ていたかと思うと、邪魔にならない場所に座り込んで見る。貰った名簿を確認しながら、自分の順番を待っている部員と話したりもした。名前と顔をなるべく早く一致させるためである。


 やがて実戦形式の三対三が始まると一年生は外に出た。二年生が中心でやっており、余った時間で一年が実戦練習をやるのだろう。家久は見学していた翔子達に話しかける。


「あの二人は三年の試合に出なかったのか」

 冬美とさくらのことだ。今の段階ではある程度できる生徒で、二年の中でも目立つ存在だ。家久の目から見れば、三年に交じっても充分やれそうな気がした。

「たまに出るくらいでした。試合は三年生が中心でしたから。でも実戦練習は三年生とずっと一緒にやっていましたよ」

 バスケは五人でやるものだが、ぴったり五人だけで回るものでもない。実戦練習をする際にも人はいる。少数精鋭でチームを作れるのはよほど強いところか、人数がいないところくらいだ。

 三年は試合に困らない程度には人数がいたのだろう。だから練習は参加させても、レギュラーにする必要はなかったのだ。


「ああもう。部長もがつんと突破しちゃえばいいのに」

 コートに目を向けると、冬美がドリブルをしながらゆっくりと進んでいた。翔子は見ているだけで熱くなっている。

「お前ならどうする。色々と選択肢はあるぞ」

「突撃あるのみっス」

 目を輝かせながら自信満々に言い切った。迷いなど欠片もない。

「正解といえば正解だな。まだまだ細かい技なんてできないからな。見て覚えるのはまだ難しいだろうが、しっかりと盗めるものは盗めよ」

 技術などないことは練習を見ていればわかる。下手に悩むくらいならできることをやればいい。


「何でもかんでも突撃すればいい訳じゃないでしょう。先生も甘やかさないでください」

「だって部長ならどんどん突破できるもん。あそこで止まる必要なんてないよ」

 ドリブルをつきながら、メンバーの様子を見ている。シュートを打つ気配はない。

「あれは行けないんじゃなくて、わざと行かないの」

 家久の眉が小さく上がり、目付きが細くなる。

「どうしてそう思ったんだ。言葉を飾る必要ないぞ。翔子みたいに感覚でもいい」

 質問されるとは思ってもいなかったのか、秋穂は慌てて言葉を紡いだ。


「どうしてって言われても、部長がボールを持つとテンポというか、リズムというか、とにかく落ち着く感じがするんです」

 自分の発言に自信を持てなさそうだった。感覚を言葉にするのは難しい。ましてや知識や用語などをほとんど知らないのだから。

 ただ秋穂は自分が試合に出ていなくても、他のチームの試合は観ているはずだ。そういうチームと比べて、何となく思ったのだ。

「うん。全くわからん」

「だから説明するのは難しいのよ」

 どこか能天気さすら感じる感想。翔子には全くわかっていない。翔子は感覚に全振りしているタイプだ。秋穂とはまるで違う。


「だってそんな風に思わないもん。難しく考えても仕方ないよ。いつもそうじゃない」

「あんたは考えなさすぎなのよ。少しは頭を使いなさい」

 言い合いをしているが険悪な空気はない。何となく普段の姿が垣間見える気がした。

「なるほど。テストの引っ掛け問題に騙されるタイプか。要領が悪そうだからな」

「ば、バスケに関係ないですよ」

 図星だったのか顔を赤くする。翔子に隠れて目立たない子だと思っていたが、こういう場では自己主張をしている。教室で話しているだけじゃ気付かない一面だった。


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