第8話 逃れられないもの


「それは本当ですか?」

 確かめるように聞き直す。朝の職員室が異空間のように感じた。出勤すると教頭に呼び出されたのだ。何か不手際があったかと不安に思ったが、話の内容は思ってもみないものだった。


「ええ。女子バスケットボールの顧問になってみませんか」

「でもバスケ部の顧問は小清水先生ですよ。先生を押し退ける訳には」

「ですから顧問は二人でやってもらいます。名取先生は顧問をやっていませんし、丁度いいでしょう。これは小清水先生からも了承を得ています」

 チラリと視線を向けると、小清水がそわそわしながら様子を窺っていた。


「授業も大切ですが、生徒と触れ合う経験を積んでおくのは大切ですよ。ましてや先生は経験者でしたし、色々とやりやすいでしょう」

 これまで一切言われなかったのに話が急すぎる。原因を考えてみたが、すぐに浮かんできた人物がいた。


「も、もしかして」

「あれほど熱心な生徒がいるとは嬉しいことですよ。まさか直談判してくるとは思いませんでしたが」

「す、すみません。風見が迷惑をかけたようで」

 反射的に頭を下げてしまう。自分が悪いことをしたような気持ちになったのだ。あのテンションで校長と教頭に頼みこむ絵がありありと浮かんでしまう。


「それでどうしますか。もちろん急な話ですし、お断りして頂いても構いませんが」

 そんな言い方をされて、素直に断れるクレイジーな新任教師がいるだろうか。本人の事情や意思など関係ない。強制力がまるで違う。


「お引き受けします」

 もう一度頭を下げ、自分の意思を伝えると教頭はにっこりと微笑む。ぎこちない笑みを何とか作ると、ふらふらとした足取りで自分の席に戻った。

 椅子に座った後で重い息を吐き出し、机に突っ伏したくなる気持ちを何とか抑える。今すぐタバコを吸いたくなる。酒があるならとっくに飲んでいたかもしれない。


「あの、すいません。私も今日いきなり聞かされて」

 小清水が申し訳なさそうに話しかけてくる。

「いえ、小清水先生のせいではありません。先生はただ生徒の熱意に応えようとしただけでしょう」

「私はそんな良い人間じゃないですよ。本当に不安だったんです。自分一人で顧問が務まるのか。話を聞かされたときも嬉しかったくらいですから。先生の気持ちを知っているのに」

 何となく暗い表情をしている理由がわかった。彼女なりに罪悪感を抱いているのだ。人間なら当然抱く感情の一つであり、気に病むことでもない。やはり良い人である。


「気にしないでください。いつかはこうなっていたかもしれないんだ。少し早まっただけですよ。ただいきなりすぎて頭が追いつかないだけで」

 先日まで部活と関係ない日々を送っていたのだ。社会人一年目は激動だと聞くが、数日でここまで話が動くとは予想していなかった。


「俺はバスケの経験はありますけど顧問は初めてです。ご迷惑をかけると思いますけど、よろしくお願いします」

 気を取り直して、頭を下げる。数か月とはいえ、小清水の方が先に顧問になっている。部の事情も詳しい。これから色々と助けてもらうことになる。


「もちろんです。一緒に頑張りましょう」

 いつもの優しい表情が戻ってきた。やはりこちらの方が似合っている。

「頼りにさせてもらいますよ、先輩」

「や、止めてくださいよ。先生の方が歳上じゃないですか。私の方こそ勉強させてください」

「あんまり期待しないでくださいよ。俺だって本格的な指導はしたことないですから」

 今でも本当に顧問をやりたいのかどうかわからない。二つの気持ちが混じり合っている。綺麗に分けて考えられるほど、自分の意思が定まっていなかった。不安や緊張も当然ある。上手くやれる自信はない。

 だが顧問になってしまったからには、できるかぎりのことはやろうと思っている。情熱や熱意と言えるかはわからないが。


 ただ今は何よりも心配しなくてはいけないことがある。


「騒がないといいけどな」

 困ったことに今日の一限目は彼女のクラスだ。顧問になることを伝えたらどうなるのか。頭と胃が痛くなる気がした。

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