第6話 先輩

 居酒屋には賑やかな声が溢れ返っている。グラスのぶつかる音と愚痴が混じり合い、複雑なメロディを奏でていた。酒を飲む客は一日を労いながら騒いでおり、解放感に満ちていた。


「大した熱意じゃないか。教師冥利に尽きるというもんだ」

 戸倉晃二がにやにやした顔でグラスを煽る。同じ区内である平田二中の体育教師で大学の先輩でもある。大きな身長にがっちりした体格、さっぱりとした容姿でいかにも体育会系な人間だ。女子バスケ部の顧問もしており、つい先日都大会の出場を決めた。


 先輩といっても歳は離れており、家久が入学したときには既に卒業していた。大学のゼミで同じ教授に習っていたので、その縁で知り合いになったのだ。同じバスケ経験者ということもあり、妙に気に入られた。

 大学時代から世話になっており、食事はもちろん遊びに連れて行ってもらったことは何度もある。


「笑いごとじゃないですよ。こっちは大変だったんだ」

 疲れた様子でジョッキに口につける。喉を震わす心地良い刺激もやけに重く、いつもより苦く感じた。

「引き受ければいいじゃないか。生徒の期待に応えてやれ」

「嫌ですよ。こっちは新任です。ただでさえ辛いのに」

 授業が終わればどうにかなると思ったのが甘かった。あの後も追いかけ回され、すっかり疲れ果ててしまった。部活の終わった後も押しかけてくるのではないかと思い、早めに切り上げてきたのだ。残った仕事は明日やることにする。


「他の教師も同じだよ。新任だろうがやらなくちゃいけないものだ」

「先輩は体よく使える駒が欲しいだけでしょう」

「そりゃそうだ。どこも人材不足だからな。俺の苦労も考えろ」

 戸倉の地元ということもあり、区のバスケット協会にも顔が利き、上からかわいがられていた。本人も情熱があり、理事会の若手では中心的な人物になっている。新任の頃から仕事をしながら、自分の部だけでなく、区のバスケにも積極的に関わっているのだ。


「生憎俺は先輩みたいに余計な苦労を買いに行く人間じゃありませんからね。そこまでの熱意もない」

 一体どれだけ忙しいのだろうか。家久からすれば相当な物好きとしか思えない。若手をまとめて、アグレッシブに動く姿を見ていると感心してしまう。将来的にはもっと上の協会役員になるのではないかと思える。間違っても自分にはできないことだ。


「だいたい区の上位は決まっているでしょう。余程のことがない限りは揺るがないと思いますが」

 区立校でありながら、都大会はおろか全国大会さえ出場したことのある王者平田四中。それ以下というのが現在の状況である。

「そうでもないぞ。昔に比べて平四も落ちてきている。少しは肉薄できるようになってきたんだ。今はミニバスの子も入ってくるからな。勢力図なんて一気に塗り替わるぞ」

 ある程度は上位の変わらない高校と違い、中学の部活は一部を除けば、入賞するチームが変わることが多い。受験などで自由に学校を選ぶことができないからこそ、有望な人材が年度によって偏ることがあるからだ。


「お前のところにも確か面白い子が入ったみたいだぞ。うちの子が言っていた」

「本当ですか? 男子じゃなくて」

「女子だよ。間違いないと思うぞ」

 頭の中で疑問符が浮かぶ。そんな有望な選手がいるなら、翔子や小清水から聞いてもおかしくない。少なくても今日は一度もそんなことを言っていなかった。


「まぁ、俺には関係ないか」

 ビールを飲み干し、違う酒を注文する。所詮は他人事だった。

「あるだろ。ちゃんとスカウトしろ」

「先輩からすれば厄介な相手になるかもしれないのに」

「それとこれとは話が別だ。俺は自分の部だけじゃなくて、区そのものを盛り上げていく必要がある。地元のレベルはどんどん上げていきたいじゃないか」

 区のレベルは年々上がっており、ミニバスのレベルも高い。戸倉が子供のときでは考えられないくらいだという。関係者が努力をしてきた証である。だからこそ戸倉もそれに応えて頑張ろうとしている。

 わかっていても中々できないことである。戸倉のこういう面は純粋に尊敬するが真似はしたくない。身体がもたないからだ。


「そもそも新任の意思でどうにかできないくらいわかるくせに」

 同じ教師なのだから説明しなくてもいいはずだ。戸倉の方が経験もあるのだから。

「抜け道を探すのがお前の仕事だろう。生徒のために力を尽くせ」

 赴任した当初は戸倉もバスケ部の顧問になれなかった。だからこそ説得力はあるが見習いたくない。

「無茶苦茶言わないでくださいよ。苦労を背負い込むために頭を使いたくないです。それに向き不向きもある。俺ができるとは思えませんがね」

「やってみなくちゃわからないものさ。経験者だからって上手くいく保証はないし、その逆もしかり。お前が言ってたことだぞ」

 痛いところを衝かれて喉の奥を鳴らす。


「お前は向いてるよ。美点がたくさんある。微妙に性格が悪くて面の皮が厚い。かなり捻くれているし、平然と嘘もつける。生徒に厳しくしても屁とも思わなそうだ。実に素晴らしいな」

「おい。褒められている気がしないぞ」

 好き勝手に言っているが気にした様子はない。間違っても酔った勢いじゃないのは保証できる。

「本人を前にしてよく言えますね。あんたも相当面の皮が厚いですよ」

「今更気にするようなタマじゃないだろ。そういうところも含めてだよ。指導ノウハウもちゃんと教えているだろう」

「他人の家に来て、酒を飲んで愚痴ることがノウハウですか。いい加減あれ捨ててもいいですか。邪魔なんですけど」

 自宅で飲むこともあるのだが、そのときに試合のBDや専門書などを持ってくるのだ。厄介なのはそれらを置いていくことだ。ただでさえ広くない部屋が狭くなってしまう。


「勉強道具をタダで貸してやってるんだ。ありがたく思え。専門店やサイトで注文しないと手に入らない物もあるんだぞ」

「頼んじゃいませんよ。取りにこないなら本当に捨てますからね」

 勝手に押し付けているのに全く悪びれていない。面の皮が厚いのはどちらなのか。

「どうせお前の部屋なんて小難しい本ばかりだ。一冊くらい増えても変わらないだろ。片付けたいならまずあの本から捨てていけよ」

「誰が捨てるか。必要な物ばかりなんですよ。今でも読み返しているんだ」

 大学時代から揃えている歴史の専門書である。古本屋など買い集めた物もあるので貴重なのだ。


「だったらバスケの本を読むのも手間にならないだろ。指導しているところも見せたし、お前が名監督になったら俺のおかげだな。酒ぐらい奢っても罰は当たらんぞ」

 練習だけでなく試合も何度か会場で観戦した。酒の肴に試合映像を解説付きで観ることもあり、自分の経験談や理論なども教えてもらっていた。

 業界のことに詳しく、現役時代よりも知識があるのは戸倉のせいでもある。いわば師弟関係みたいなものだ。


「あの若月とも練習していたんだろう。お前が教えたと言ってたじゃないか」

「本当に基礎ですよ。一緒に練習しただけ。大層なことはしていない」

 翔子達には言わなかったが、若月とは共に練習していた。同じクラスだったので、初心者の彼にバスケの基礎や知識を教えていたのだ。監督の言うことがわからないときは噛み砕いて教えたりもした。

 調べるのが好きだということもあり、知識だけは得るようにしていた。最終的にレギュラーにはなれなかったが、あのとき得た知識が役に立っていないとは思わない。少なくてもテレビで試合を観るときにはより面白く観られる。大学時代に戸倉と仲良くなったのも、この知識があったからだ。


「あいつも雲の上にいったからな。本当に同じ部にいたのか今じゃ疑ってしまいますよ」

 若月の成長は目覚ましいものだった。高校から始めたとは思えないほどで、入部してからあっという間にレギュラーになってしまった。彼の軌跡はどこか現実離れしており、本当にドラマを観ているような気分だった。

 高校を卒業してからは連絡を取り合うことはない。今やプロ選手となり、住んでいる世界が違う。体育館の隅や夜に集まって汗を流したことが夢のように感じる。


「懐かしいな。まだ十年もたっていないのに」

 感傷的な気持ちを吹き飛ばすようにコップを煽る。心地良い熱が喉を通り抜け、胃の中を刺激した。

「今からそんなこと言ってどうするんだよ。三十路になったらもっと早いぞ」

「流石に足を突っ込む手前の人は説得力が違いますね。もうちょっと健康に気を遣ったらどうですか」

 家久も決して弱くはないが、目の前の男は次元が違う。

 学生時代に朝まで付き合わされることは何度もあったが、戸倉が酩酊しているところなど見たことがない。どれだけ飲んでも職務に影響を出さないのだから凄い体力だった。時折怪物か何かに思えることもある。


「試合中にぽっくり逝かないでくださいよ。後処理が面倒ですからね」

「バカ言うな。試合が終わるまではもたせるぞ」

「そういう問題ですか」

 家久からすれば過労死する未来しか見えない。コートの上で倒れるのが一番想像しやすい最期だ。

「血糖値はまだ低いからな。少なくても結婚するまで死ぬ気はない」

「今のままじゃ相手なんてできないと思いますがね」

 ただでさえ忙しいのに、自分から休みなく動いているのだ。しかも仕事ではなく部活のことである。本人は楽しいだろうが彼女からしたら、さぞ困るだろう。恐らく戸倉は歳を重ねても変わらない。だとすれば余程理解のある人じゃないと無理だと思う。


「お前には言われたくない。さっさと作っておいた方がいいぞ」

「できたら苦労はしませんよ」

 他人のことは言えない。忙しくて出会いもないし、歴史研究もやっているのだから。

「とにかくあいつには言い聞かせないとな。また授業が逸れてしまう」

 あの様子じゃ明日も諦めずにくるかもしれない。胃が痛くなってきたので、酒を飲んで誤魔化した。


「お前はどうしたいんだ」

「俺の意思だけじゃどうにもなりませんよ。何度も言わせないでくださいよ」

「ルールとか、制度とかそういう余計なものは取っ払った上で考えろ。お前自身はどう思うんだ。力になってやりたいのか、なりたくないのか」

 翔子の情熱や熱意は呆れるほど素晴らしいと思う。これでも少なくない期間バスケに関わってきた。上手くなりたいと思っているなら、どんどん上達して欲しいし、試合に勝って欲しいとも思う。同じスポーツをやっていたのだから気持ちはわかるのだ。


 だが正直自分の時間を削ってまでできるのかと言われれば、やはり躊躇ってしまう。


「諦めさせるならそういう伝え方をしろ。言葉で納得させるのは教師の仕事だぞ」

 戸倉の言葉は経験からきている。何年も教師として働き、顧問を務めていれば、他人に言えない苦労などいくつもしてきたはずだ。きっと部活のことだけじゃない。

「わかっています。すいません。おかわりください」

 しんみりした空気を打ち払うため、残っていた酒を飲み干し、追加の注文をする。今は飲みたい気分だった。


「おいおい明日もあるんだぞ。お前はもう学生じゃないんだからな」

「このぐらいで響くような歳じゃないですよ。先輩とは違いますからね」

「俺は楽しみながら飲んでいるんだ。お前みたいに勿体ない飲み方はしないだけだよ」

 多少強引なところもあるが、戸倉は決して強制するような人間ではない。本音じゃ人手が欲しくても、家久を無理に指名することはない。やろうと思えば、顧問じゃなくても審判として吹かせることもできるのだ。無闇に権力を振るう人間じゃないからこそ付き合いやすい先輩だった。


 家久は歴史研究で飯を食うことを考えていたのだが、現実は上手くいかなかった。教師になったのは戸倉の勧めがあったからである。教員試験も助けてもらわなかったら、まず受からなかった。まさか同じ区内の学校に配属されるとは思わなかったが。

 戸倉に感謝はしているが素直に口にしない。照れくさくて言えるはずがない。恩に着せるような人間でもないので別にいいと思っている。こういう関係でいたいと思っていた。


 話題が変わり、飲み会は続いていく。二人の会話も喧噪の中に溶けこんでいくのだった。

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