第5話 胃が痛くなる授業
「先生! 顧問になってください!」
授業が終わるたびに廊下で待ち構え、追いかけ回される。あまりにしつこくて辟易してしまう。用件は全て同じだ。そのたびに断っているのだが諦めることなくやってくる。まさかここまでしつこいとは思わなかった。
ついに翔子のクラスで授業をする時間がきてしまう。憂鬱で仕方なかったが逃げる訳にもいかない。何か言いたそうな翔子を無視して、挨拶を済ませるとすぐに授業を始めた。
黒板をチョークでリズミカルに叩く音。最初は何本もチョークを駄目にしたが、ようやく慣れてきた。四月に比べれば、ほんの少し余裕というものもできている。
だからこそ気付いてしまう。背中に感じる熱い視線に。
「歴史は暗記するのが大切だけど、ただ年号を覚えるだけじゃなく、繋がりを意識して覚えてほしい。全く関係ないと思える点と点が何十年も先で繋がっていることもある。繋がりというのは色々なところでできるからね」
振り向いたところで原因の少女の顔が視線に入った。やたらとキラキラしている目をしているが、授業に興味を持っている訳ではないだろう。悲しくなってしまう。
「もちろんテストは年号や必要な出来事だけを暗記すればいいかもしれない。でも全く興味ないことをただ覚えるのも苦痛だろ。最初から苦手意識を持たないで、ほんの少しでも興味を持ってほしいかな」
社会科は好きな人間は好きだが、嫌いな人間は嫌いになる傾向が特に多い。教師という立場になったからこそ、苦手な生徒の気持ちを理解しないといけない。
「大人になってからも意外と使えるものだよ。会話の取っ掛かりにできる。歴史が好きな大人も多いからね。最近じゃ歴女なんて呼ばれている人もいる。好きな女の子に近づけるかもしれないよ」
何人かの生徒が小さく反応していた。静かに笑みを浮かべる。
「ゲームとかもたくさん出ているけど、それらをきっかけにするのは悪いことじゃないよ。ゲームやドラマ、小説からの方が覚えやすいからね。好きな時代から覚えるのは正解さ」
最初に興味を持ったのは祖父の家にあったファミコンソフトからだった。今では時代小説はもちろん専門書も読んでいる。
「よく言われることだけど、関ヶ原で敗れた西軍の属していた陣営が、明治維新の立役者になった。この辺りはもう少し後でやることになるけど、興味ができたら先に調べてみるといい。大切なのはほんの少しでもいいから触れてみることだね」
好きが高じて社会科の教師になるとは夢にも思わなかった。高校三年のときの自分が見たら何て言うだろうか。
一人の生徒の手が上がったのは、次に進めようとしたときだった。
「・・・・・・どうした、風見」
頭を抱えたくなったが、無視する訳にもいかない。翔子は溌剌と答える。
「先生がバスケを始めたきっかけは何ですか」
がっくりと肩を落とす。思った通り授業とはかけ離れている質問だった。
「やっぱり高校から始めたんですか。それとも中学。もしかしてミニバスから」
「授業に関係ない質問は後でするように」
さっさと打ち切って先に進めようとする。わざわざこの場で答える必要のないものだ。
「一応関係ありますよ。これも歴史といえば歴史ですから。さっきの繋がりという話にも合っていると思います。教師と生徒。点と点が繋がっています」
秋穂がさりげなくサポートする。翔子に対して目配せしているが、きっと授業前に打ち合せでもしていたのだ。
「個人のことでも歴史を好きになるきっかけになるかもしれませんよ。知りたいという気持ちに応えるのも大切だと思います。生徒のやる気に水を差すのはどうなんでしょうか」
「俺は教科書に載るような人物じゃない。知っても面白くないし、時間の無駄だぞ」
身近にいる個人のことから歴史に興味を持つのは、素晴らしいと思っている。誰もが教科書に載る人間ではないが、その歴史や人生に意味がない訳がない。きっかけは本当に何でもいいのだが、今は本心と裏腹なことを言う。とにかく質問を終わりにしたかった。
「そんなことありません。教えてください。私は先生のことが知りたいんです」
頑とした態度で引く気配がない。初めて授業を熱心に聞いてくれたのが、こんなことでは悲しくなる想いもある。
困ったことに教室の空気も変わっている。今まで退屈そうにしていた生徒や眠そうにしていた生徒も起きていた。単純に良い刺激になったのだ。最初から起きていて欲しいのだが、まだそういう授業ができないのが辛い。今や話さなくてはいけない空気が出来上がっている。
「バスケは中学から始めた。運動不足解消のために何か始めようと思ったんだ。バスケを選んだのは、単純に跳べるのがカッコいいと思ったからだよ」
仕方なく話し始めるが、自然と早口になる。何が悲しくて三十人以上もいる前で、昔のことを話さなくてはいけないのか。経験のある教師ならばもっと流暢に語れるかもしれないが、今の自分には酷だった。
授業や自己紹介で高校や大学のことは話したが、ここまで詳しく身の上を話してはいない。恥ずかしいことこの上ないが、最早止めることはできない。
「中学のときも凄かったんですか」
「いや、だからそんな大した選手じゃなかったよ。趣味の延長さ。ただ好きだったから高校では続けたけど」
「そして高校で全国に出場するんですよね。しかも初出場」
何やら勘違いしているようだが、他人の話をちゃんと聞いているのだろうか。少し心配になってしまう。職員室でベンチ外だと教えたはずなのだが。
「さっきも話したけど、田沼というプロになった凄い奴がいたんだ。そいつは一年の頃からチームの中心で活躍してね。無名の高校だったうちがいいところまでいったんだ。本格的に強くなるのは次の年からだよ」
バスケ部の評判が一気に上がり、良い選手が入ってくるようになった。学校側が外部からコーチも雇い、部員が増えたことで練習も打って変わったように厳しくなり、何人も辞めていった。
自然と無名校のような緩い雰囲気に慣れていた者は付いていけなくなった。気付けば強豪校に変貌を遂げ、元からいた部員の出番は追いやられていく。
もちろんこの辺りの詳しい事情は話さない。あくまで要点だけを伝える。
「中々できない体験をしたのは確かだよ。本当に面白かった」
ドラマチックな展開ではあるが、家久は舞台に立てなかったうちの一人だ。話せるのはこれぐらいである。
「流石に大学ではやらなかったけどね。スポーツは大人になってからも楽しめる。探せばチームはあるものだし、社会人でも無理なく続けられるよ。運動不足の解消にはもってこいだ」
部活が終わってもスポーツが終わることはないし、この世からなくなる訳でもない。ずっと続いているのだ。
「もちろん自分がプレーするだけじゃない。今は大抵のスポーツがネットやケーブルテレビで観られるし、趣味としてずっと楽しめる。大人になってからも色んな形で付き合えるから、自分なりの付き合い方を見つけるといいよ」
昔はビデオを借りるなり、直接会場へ観に行かないといけなかった。今は家にいながら世界の試合を観られる。良い時代になったものである。
「よし。じゃあ授業を再開しようか」
きりのいいところで話を打ち切る。時間を使いすぎてしまった。
「まだ聞きたいです。もっと話してください」
「これ以上無駄話をする訳にはいかないよ。ほら、教科書をめくって」
不満げな翔子の言葉を受け流し、再びチョークを持って黒板に書き込む。家久にとってようやく安心できる時間が戻ってきたのだった。
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