第4話 職務と顧問
「台風みたいな奴だな」
元気よく去っていく姿を見ながら呟く。あれだけ真っ直ぐだと呆れるよりも感心してしまった。職員室が急に静かになったような気がした。
「諦めが悪いというか、往生際が悪いというか、しつこいといった方がいいのかな」
獲物を追いかけ回す犬を連想する。ぴったりと一致したので吹き出してしまった。
「あの、名取先生。私に遠慮しているなら構わないですよ。私は本当にバスケットのことがわかりません。先生が教えてくださるなら願ってもないことです」
小清水は自分の立場を考慮して、断ったのだと思っている。家久が顧問になれば、彼女を押し退ける形になる。面子や立場を潰すことと同じだ。
「だからそんな訳ないですよ。これはもう決まったことです。先生だって教頭先生に要請されたから引き受けたんでしょう。俺達がどうこう言えるものじゃない」
東大原中学では校長と教頭が相談して顧問を決める。任命されると大抵は断れない。事情があるならばともかく新任教師などまず無理だ。外部コーチという手段もあるが、自分の時間を削ってまで来てくれる人は少ない。
そのため自分に全く経験のない運動部を一人で担当しなければならないこともある。小清水の例は珍しいことじゃない。どこの学校でもある光景の一つである。
小清水は病気がちの下口を支えるという形でバスケ部の顧問に任命された。こうなるかもしれないことを考慮した上で配置されたのだろう。
「だけど先生も人が悪いです。経験者だなんて初めて聞きましたよ」
「言ってなかったですか。おかしいな」
赴任してから約三か月。授業をこなしながら生徒の名前と顔を覚え、職場でもコミュニケーションを取らなくてはいけない。自分より一回りも二回りも上の大人がいるので一苦労だ。激動の中にいたので言い忘れていたのかもしれない。
「でも一応調査票には書きましたよ。隠していた訳じゃありません」
きっと書いただけで周囲にも言った気になっていたのだ。顧問を決める際、調査票に部活の経験を書き込むのだが、任命されることはなかった。そのときには小清水に決定していたのだろう。彼女は去年赴任しており、順番で任されたのかもしれない。
本人に経験があっても希望が通らない場合はいくつもある。同じように教師をしている大学の先輩がいい例だった。彼は知識や経験が豊富だったにも関わらず、全く未経験の運動部を任されることになった。
もちろん本人の希望がすんなり通る場合もある。男子バスケ部の藤宮だ。彼女は一年目からバスケ部を担当している。藤宮も元選手だが高校はもちろん大学でも結果を出しており、家久とは雲泥の差がある。元々顧問をしていた教師は違う部の顧問になった。顧問の交代がスムーズにいった例である。
どちらのケースであれ、全ては学校の都合で決まるのだ。
「経験者だから良い指導者になる訳じゃない。学生時代に未経験者だった人でも素晴らしい指導者は何人も知ってます。その逆もしかりです」
名コーチなど中々なれないものだ。実際にプレーするのと指導するのはまるで違う。感覚などを言葉にして説明しないといけないからだ。
「困ったら相談に乗りますよ。簡単なアドバイスくらいならできるかもしれませんから」
できることといったらこれぐらいだ。顧問でない人間が出しゃばることはできない。人間関係の拗れに繋がる恐れもあった。
小清水は家久よりも年下だが、教師としては小清水の方が一つ先輩である。赴任したのが小清水の方が早いからだ。年が近いこともあり、色々と助けてもらっている。彼女とは上手くやっていきたかった。
「先生は自分で子供達に指導したくないんですか。バスケットをやっていたのに」
「はい。できればやりたくないです」
迷いなく答える。小清水の方がたじろいでしまった。
「経験者だからずっとやりたいと思う人間もいませんよ。あとは単純な話で一年目くらいは授業に集中したいんです」
まだ数か月だが目を回している。準備や授業計画を練るだけでも大変であり、初めてテストを作るときは頭を悩ました。
やることは授業以外にもたくさんある。学校行事の手伝いはもちろん地元の祭りなどがあるときは、巡回に駆り出されたりもした。出張もしなくてはいけないし、担任でなくても保護者の対応をしなくてはいけない。これで顧問までやったら確実に寝る時間は削れるだろう。
教師は人手不足である。新任だろうが人がいなかったら、クラス担任をしなくてはいけないし、任命されたら部の顧問をしなくてはいけない。経験を積んでから満を持してという訳には中々いかないのだ。
教師の数を学校側が勝手に増やす訳にはいかない。文科省が定めた厳然としたルールがあるからだ。限られた人材で生徒を見ないといけない。学校が回らないからだ。数々の黒い話を聞くと、どんなブラック企業よりもブラックではないかと思える。
だからこそ担任も部の顧問もやらなくていい今の状態は幸運ともいえた。忙しいことは忙しいが、少なくても他の同僚よりは比較的時間ができる。来年になれば恐らくどこかの部の顧問にならなくてはいけないはずだ。
「じゃあ個人的に教えるというのは」
「教師がわかりやすく依怙贔屓する訳にはいきませんよ。あの子はともかく他の保護者から何を言われるかわかりませんから」
気にしすぎということはない。信じられないようなクレームの話はいくつも聞いた。顧問という立場なら許されることも、個人の立場で同じことをしたら認められない。生徒が思わなくても、保護者がどう思うかはわからないのだ。気を遣うことが多すぎて嫌になることもある。
「でも風見さんの気持ちを無視するのも」
学校運営の仕組みや理屈など、小清水にも充分わかっている。それでもあれだけ熱心な生徒のために何とかしたいという気持ちもある。ましてや翔子は自分の部の生徒なのだから。
「かわいそうだけど仕方ないですよ。学校といっても自由が許されるものじゃない。思い通りにはいかないものです。それを学ぶにはいい機会だと思います」
別に翔子の意思を無視したい訳じゃない。ただ現実としてどうしようもないのだ。
家久も翔子がこれで諦めると思っていた。それが甘い考えだということを、嫌というほど思い知らされることになる。
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