第3話 職員室の交渉
「ちょっと翔子。本気なの」
「もちろん。突撃あるのみ」
不安げな秋穂を尻目に、翔子は握り拳を作る。朝の職員室は静寂に包まれており、独特の空気が漂っている。教室と違って喧しさもないため嫌でも緊張する。廊下からでは本当に数十人の教師がいるとは思えなかった。
「あれは絶対に凄い選手だったんだよ。私の目に狂いはない」
昨日は帰ってから真っ先に連絡した。嬉しさを抑えきれなかったのだ。
「あんたはいちいち大袈裟だからね。林間学校で見た鹿を、熊が出たとか騒いで怒られたのは誰だったかしら。他にもたくさんあるけど全部話そうか」
「む、昔の話でしょう。大切なのは今なの」
冷静な指摘に表情を歪ませる。小さい頃にやらかした話も秋穂はよく覚えている。
「まぁ今度ばかりはあながち間違ってないかもね。昨日ネットで調べてみたけど、名取先生の通っていた高校。全国に行ってる強豪校みたい。夏も冬も両方ね」
「どうして先生の高校を知ってるの?」
「授業中に何度か言ってたでしょう。聞いてなかったの?」
自己紹介で質問に答えており、地理や歴史の話をするときも地元を絡めて、わかりやすく説明するときがあった。もちろん翔子は覚えていない。
「半分寝てたから」
わかりやすい理由である。照れくさそうに頭を掻く翔子を呆れながら見つめる。
「それ黙ってなよ。きっと落ち込むから」
「これからもっと真面目に授業を受ければいいの。次の社会は百点を取るから」
自信に満ちているが根拠がまるでない。少し前の期末テストで酷い点数だったのを棚に置いている。秋穂はため息をつきながら話を続けた。
「先生の高校はあまり強くなかったのに、たった数年で全国に出場するレベルの高校になったみたい。しかもそのときのエースはBリーグで活躍してる。年齢からいって同期だったと思うよ」
Bリーグといえばプロの選手だ。翔子達にとっては雲の上の話である。ますます期待が高まる。
「でもあの名取先生がね。意外というか、人は見た目によらないというか。やっぱり想像できないな」
翔子と同じような感想だった。理屈ではわかっても腑に落ちないのだろう。強豪校にいたイメージなどまるで湧かない。
「本人に聞けばわかるよ。とにかく行こう。失礼します」
小さくノックをしてから扉を開ける。職員室では教師達が談笑したり、授業の準備を整えていた。同じ教師といっても、違う学年を担当しているため見覚えのない者もおり、緊張はより大きくなる。大人ばかりの空間は独特のものだった。
「あれ。二人ともどうかしました」
翔子の姿を見かけて、小清水が近づいてくる。
「あの、名取先生はいますか? ちょっと話がしたくて」
「こっちですよ」
にっこりと微笑みながら、二人を案内する。幼い顔つきをしているが、職員室で当たり前のように振る舞う姿を見ると、改めて大人だと再確認する。
自分の席でプリントを眺めていた家久が顔を上げ、小さく口を開ける。昨日の生徒だということに気付いたのだ。
「どうしたんだ。授業でわからないところでもあったかな」
職員室の空気に若干委縮していたが、改めて気合を入れ直した。腹に力を入れて、目を見開く。
「名取先生! コーチになってください!」
力が入りすぎて大声で叫んでしまった。大気を震わせるような声に職員室の空気が止まり、他の教師からの視線が集まる。
「えっと、その、どういうことだ?」
当の本人である家久も理解が追いつかず、眉間に皺を寄せ、目をぱちくりと動かす。秋穂や小清水もポカンとしていた。
「先生はバスケをやってたんですよね。だからコーチをやってもらいたいんです」
ようやく合点がいったのか、家久は小さく頷く。己の意思が伝わり、喜びの笑顔を浮かべるが。
「悪いけど無理だよ」
返ってきた言葉は極めて簡潔で無慈悲なものだった。いきなり希望を砕かれかけたが、ここであっさりと諦める訳にはいかない。
「そんなこと言わずにお願いします。私はもっと上手くなりたいんです」
「力になれるとは思えないけどね」
熱くなっている翔子とは逆に、家久は冷静だった。まるで心が動かされていない。
「でも先生は全国に出場した高校のバスケ部にいたんですよね」
それまで大人しくしていた秋穂が訊ねる。質問の意図に家久も気付いたようだ。
「俺はずっとベンチ外だったよ。うちは部員が多かったから、ベンチに入るだけでも一苦労でね。結局公式戦には出られなかったな」
強豪校にいれば珍しいことじゃない。ベンチに入れる人数よりも部員の方が多いからだ。
「しかも最後の一年は部活を辞めてたからね。それで歴史研究部に入ったんだから、よく大学に受かったもんだ」
落ち込んだ様子もなく朗らかに答える。部を辞めたことに拘りはないように見えた。文化部のような雰囲気というのは一応合っていたみたいだ。
「でもあんなに上手かったのに」
「そりゃ一応経験者だし、大人だからね。きっと実力以上に見えただけさ。上のレベルの連中なんてこんなもんじゃない」
「プロになった選手と同期なんですよね」
「あいつはちょっと桁が違ったよ。立っている場所が違うというか、何もかも別のレベルだった。プロになったのも納得だったね。今も頑張ってるし、よかったら今度試合を見てくれ。応援してくれるともっと嬉しいな」
「今は先生の事を話してるんです!」
話が逸れてしまったので元の方向に戻す。今はここにいないプロ選手よりも目の前にいる上級者の方が大切だ。
「私より上手いのは本当ですよね。意地悪しないで教えてください」
「だから無理なんだよ。単純な問題として、俺はバスケ部の顧問じゃないから」
「じゃあ今すぐ顧問に」
「それは俺の意思だけじゃ決められないよ。先生たちにも色々と事情がある。なって欲しいからと言って、簡単になれるものではないんだ。ここは君の意見だけが通る場所じゃない。もう中学生なんだからそれぐらい理解できるだろう」
叱るというよりは諭すような口調だった。恐らくは学校という組織の話であり、長く説明するのは難しいからこそ、簡潔にまとめて諦めさせようとしているのだ。
「だいたい今の顧問は小清水先生だよ。先生を追い出せというのか」
「えっ、顧問は二人いてもいいんじゃないですか。前も二人だったんですよ」
ここにきて初めて迷いが生じる。顧問は二人いるのが当然であり、小清水がいてもなれると思っていた。家久には顧問になって欲しいが、小清水にも辞めて欲しくない。これまでずっとお世話になってきたからだ。
「新しい顧問が決まったら、絶対に辞めなきゃいけないという訳でもないが、二人体制が当たり前じゃないのも確かだ。小清水先生だって色々と考えているし、予定もある。俺や君が口出しして、それを壊す訳にはいかないよ」
気遣うような視線を向けるが、小清水が気分を害したようには見えない。
「私のことは気にしないでください。もし先生の都合が合うなら教えてあげて欲しいくらいです」
むしろ家久がコーチになることを望んでいるようだった。経験や知識がないので有難いのだろう。
「そういう訳にはいきませんよ。とにかくコーチにはなれないよ。もうすぐ始業時間だ。教室に帰りなさい」
取り付く島がないという風ではない。家久は話せばちゃんと聞いてくれる。だからこそ無理だということがわかるのだ。どれだけ頼んでも顧問をできない理由が返ってくるだけだ。しかもわかりやすく丁寧に。秋穂からも諦めの空気が伝わってくる。
「諦めません! コーチになってくれるまで何度でも頼みますから」
だがここで利口になれるくらいなら、初めからここにはいない。
「いや、だから話を聞いてたか。俺や君の意思だけで決められるものじゃ」
「失礼します!」
威勢よく挨拶をすると、肩を上げて職員室から出ていく。諦める気など毛頭ない。気持ちだけは俄然燃えていた。
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