第2話 ある社会科の教師


 練習が終わり、帰宅する途中で翔子は学校に引き返した。忘れ物に気付いたのだ。既に帰宅時間を過ぎているため、生徒はほとんど残っていない。夕陽に染まる校舎は昼間の喧騒が嘘のようにひっそりとしている。


(あれ、どうしたんだろ?)

 校庭を歩いていると、ボールが地面に弾む音が聞こえてきた。飽きるほど聞いているが、自分が出す音とはまるで違う。とてもリズミカルで聞いていて気持ちが良くなるほどだ。

 部活は終わっており、生徒は帰宅しているはずである。一体誰がやっているのか。つい気になってしまい、急いでゴールに走る。

 目に飛び込んできた光景に思わず足が止まる。それはあまりにも予想外のものだった。


 ドリブルをついていたのは名取家久という社会科の教師だった。新任の教師で翔子達の学年を担当している。授業はわかりやすいのだが話が長くなったり、脱線することがある。また試験と関係ないことも話すので、一部の生徒からは若干敬遠されていた。

 穏やかで人当たりも良く、声を荒げることもない。見た目の印象や雰囲気も体育会系というよりは明らかに文科部なので、活発に動いている姿はどこかアンバランスに見える。

 およそスポーツをするような人間に見えないからこそ、驚きも大きい。時間が止まったような感覚。言葉も忘れて、目の前のプレーに心を奪われていた。


 重たいスーツを苦にもせず、空中を高々と飛び、ワンハンドで構える。綺麗なシュートフォーム。放たれたボールは吸い込まれるようにリングへ向かい、ネットを揺らす。落ちてきたボールを取るとそのままドリブルを始める。

 フロントチェンジから股の下を通すレッグスルー。足を交互に動かしながら、何度もボールを行き来させる。翔子は最高で三回くらいしかできない。ボールハンドリングに決定的な差がある。

 再びシュートを放つが今度はリングに弾かれた。高々と舞い上がったボールは地面に落ちることはない。素早く距離を詰め、空中でタップして押し込んだからだ。何度か失敗はしているが、家久は本当に楽しそうだった。


「せ、先生」

 心の中で何かが大きく弾け、衝動のままに声を上げる。ようやく翔子に気付き、家久も目を向けた。

「えっと、かとう、かやま、じゃない。かざみだったよな。まだ名前と顔が完全に一致しなくてさ」

 どこか自信なさげだったが、翔子が頷くと安心したのか肩を竦める。

「こんな時間にどうしたんだ。もう下校時間は過ぎてるぞ」

「忘れ物をしちゃったんです。そ、それより先生はバスケをやってたんですか!」

 興奮しているためか口が上手く回っておらず、自然と口調が早くなる。

「学生の頃に少しな。久しぶりにやったけど随分鈍ってる」

 ボールを人差し指で回すがすぐに落ちてしまった。苦笑しながら拾い上げる。

「そんなことないです。バスケ部の私よりもずっと上手い」

「流石にまだ中学生よりは動けるよ。いつガタがくるかわからないけどね」

 重そうに肩を回した後で腕を伸ばす。今にも錆びついた音が聞こえてきそうだ。


「そうだ、先生。ダンクしてください!」

 映像なら何度か観たことあるが実際には見たことない。生で見たらどれだけ迫力があるのだろうか。

「無理だよ。経験者だからって簡単にできると思わないでくれ」

 苦笑しながら顔の前で手を振る。家久は決して小さくはないが目を引くほど高くもない。百八十センチはいかないだろう。特別ジャンプ力がある訳でもなさそうだ。これではダンクどころかリングに手が届くこともない。

「君もバスケ部なら備品はしっかり管理しないと駄目だよ。隅の方に落ちていたぞ」

 体育館とプールの間に挟まれた暗がりを指差す。建物の影になっているので昼でもわかり辛い場所だ。

「すいません。うっかりしてました」

「外練だとたまにやっちゃうから気をつけなよ。俺としては久しぶりに良い運動ができてよかったけどね」

 家久は満足そうにボールを宙に投げる。キャッチしたときにネクタイが揺れた。


「先生こそバスケをやってたなら言ってくれればいいのに」

 自己紹介のときも歴史の話はしていたが、バスケ部だったという話はしなかった。男子バスケ部顧問の藤宮も経験者だが雰囲気がかなり違う。

「あれ、話してなかったか。まぁ話してもしょうがないからな」

「しょうがなくないですよ!」

 興奮している翔子とは対照的に家久はのんびりとしたものだった。なぜ翔子がここまで熱くなっているのかをわかっていない。翔子にとっては大きな衝撃でも、家久からすれば単に運動不足を解消していただけだからだ。


「ボールは俺が片付けておくから帰っていいよ。もう下校時間は過ぎているからね」

「お、お願いします」

 踵を返そうとするが、家久に呼び止められる。

「忘れ物はいいのか」

 慌てて隅に置きっぱなしにしていたタオルを拾うと、頭を下げて校庭を後にする。背後からはボールの弾む音が再び聞こえてきたが、振り返ることはしない。


 景色が忙しく通り過ぎていく。足取りがとても軽い。胸の高鳴りに合わせるようにどんどん足が進み、気付けば走り出していた。

 自分にもわからない熱いものが全身を駆け巡っている。夜が近づいているのに驚くほど目の前が明るい。何かがはっきりと動き出した気がした。

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