第2話 野母(のもん)アジ

 数年前のこと、拙書「音酒麒ノ介日乗」という物語執筆の為の長崎取材旅行で出会ったのが「野母(のもん)アジ」でした。

 海岸線の長さは北海道より長いんだと、長崎空港から乗ったタクシーの運転手が自慢気に語ってくれたのですが、私は〈ふむふむ〉と納得し、車窓を過ぎる長崎郊外の町並みを眺めていました。

 何度も訪れた長崎で、うちわ海老やイカなどの海鮮を楽しんだ食の思い出がふつふつと湧いていたのは言うまでもありません。

 その旅では、坂の多い長崎の街をてくてくと歩き回り、夕方ホテルに戻るとベッドに身体を沈め、そのまま眠りこけようかと思った私ですが、やはり長崎の海鮮の魅力には勝てず、シャワーを浴びるといそいそと夜の街へ向かいました。

 スマートフォンでお勧めの店を探すのも面倒で、勘を頼りに適当に海鮮居酒屋の暖簾をくぐりました。

 注文を取りに来たおばさんに、あれこれお勧めの刺身を見繕って欲しいと注文すると、大皿でドンと新鮮な刺身たちが運ばれてきました。そこにいたのが「野母(のもん)アジ」でした。

 これまの数十年の人生で、アジに多大な期待をかけたことなどない我が食人生でしたから、その時も特段大きな期待はありませんでした。

 さて、刺身と刺身のつなぎのような酷い扱いで「野母アジ」をひと切れ口に入れるや、私は驚きました。

 身の締まり具合やアジ特有の味わい……。

 いやはや、脱帽でした。

 何種類も盛られた長崎の海の新鮮な刺身の大皿のなかで「野母アジ」は主役として躍り出たました。店員のおばさんに訊ねると、野母崎近くで採れるアジだとのことでした。ホテルに戻り地図で調べてみると、軍艦島近くの南西に突き出しているのが野母崎という岬でした。関門海峡の関アジ関サバは有名でもちろん知っていましたが、おそらく超ローカルな「野母アジ」は初めての食体験でした。ただ、何が初めてかをこと細かく語るのには時間がかかりそうですし、特にアジという魚の美味さを語るのは難しいもので、「感激した」と言うのが正直なところだと思います。

 東京の自宅に戻り何年も経過した今も、野母アジを忘れられぬ私は、近くの海鮮推しの居酒屋に行っても、アジの刺身を注文できずにいる日々を過ごしています。早く長崎に行かねばなりません。中嶋雷太


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る