第7話

「……要」


 学生時代と変わらぬ艶やかな美しい声で、琉海が私の名前を呼ぶ。


「琉海」


 私もそれに答える。呼びながら髪を撫でると、飼い主に甘える猫のように満足そうに目を細め、私の肩にもたれかかってくる。


「シャワー、浴びないと」

「行かないで」


 清潔に整えられたベッドの、白いシーツの上で。ぎゅっと抱きつかれながらそんなことを言われてしまえば、すっかり熱くなった頭の中はもう、一つのことしか考えることができなくなる。


 一瞬だけ浮かんだ、優しい夫の顔を、真っ黒な罪の色で塗りつぶして。今、目の前にいる美しい女性を抱きしめ返す。


 すると、琉海は言った。


「要、ごめんね」


 泣きそうな声で。


「……要が好き。要が欲しい」

「もう……遅いよ」


 そう言いながら、私は琉海の唇に口付ける。首筋に、鎖骨に、唇を落としていく。初めてのときよりも深く、丁寧に。


 私を刻みつけるように。


 私は、琉海を抱いた。


 あのときと違って、琉海はもう驚いた顔はしなかった。ただ、本当に心地よさそうに目をとろんとさせるだけで。


 どこかで聞いたことのあるような周波数の嬌声に、勝手に恥じらいを覚えながら。それでも私は手を止めることができなかった。


「琉海……好きだよ」


 私はうるさいくらいに、ずっとずっと、その言葉を発していた。

 その度に琉海は、繰り返した。


「ごめんね……要、ごめんね」


 ひときわ高い声を上げて身体を震わせた琉海を抱きしめて言う。


「琉海と一緒になりたい。私もちゃんと別れるから……私と一緒に暮らしてほしい」


 だけど、勇気を振り絞って言ったその言葉に、琉海は首を振る。


「だめだよ、そんなの」

「どうして……」


 そんなの、聞くまでもない、当たり前のことなのに。


 駄々っ子のように言う私に、琉海は応える。

 言葉じゃなくて、優しい手を触れさせて。


 ……私の、大きく膨らんだお腹に。



 私は妊娠六ヶ月の妊婦だった。

 結婚して二年半。ほとんどそういう行為のなかった私たち夫婦が、そろそろ子供を、と行ったたった一度のそれで、私は妊娠した。


 琉海と連絡をとらなくなり、子供を授かったことで、私は夫をきちんと愛して生きていこうと覚悟を決めた。そのはずだった。


 それなのに。


 たった一度、こうして琉海を認識してしまっただけで。私は、再び彼女に惹かれてしまった。後先考えずに、こうして関係を持ってしまった。


 悪いのはすべて私で。

 罪を犯したのは、赦されないことをしたのは、私なのだ。


「要……」


 琉海は目に涙を浮かべたまま、私を抱きしめ、優しく髪を撫でる。


「琉海……ごめんね……ごめんね」


 涙を流しながら、私は再び、琉海に触れた。

 琉海の名前を何度も何度も呼んだ。自分自身の脳に、刻みつけるように。唇で、指で、琉海の身体をなぞりながら。


 自分自身の輪郭と、琉海とを重ね合わせて。


 このまま溶け合ってしまいたくて、このまま曖昧な世界を彷徨っていたくて。ただそれだけの想いで。


 なのに、私たちはどうして、ひとつにはなれないのだろう。

 どうしてこの腹に宿ったものは、琉海の半分ではないのだろう。どうして私は、琉海だけを愛せなかったのだろう。


 私の魂は、まるで自分の半身を求める化け物のように、ずっとずっと琉海を求めていたのに。


 涙が止まらなかった。

 疲れ果て動けなくなるまで、私たちは肌を触れ合わせ、夜が明けるまで互いの体温を感じ、寄り添って眠った。


 やがて目を覚ましたとき、琉海はもう、そこにはいなかった。

 代わりに置いてあったのは、短い手紙だった。



『要へ。

 わたしをずっと好きでいてくれて、ありがとう。

 わたしたちはもう、しばらく会わない方がいいと思います。

 元気でいてね。元気な赤ちゃん、産んでね。

 ずっとずっと、幸せでいてね。

 会えて、嬉しかった。 琉海』


 読みながら、子供のように声を上げて泣いた。

 手紙にはこうも書いてあった。


『追伸 

 ずっとずっと、友達でいてね。いつか、おばあちゃんになって、シワシワになっても。

 わたしのことを忘れないで』


 それは、私の心の奥にかけられた、一生消えない呪いだった。


 手紙に書かれた琉海の名前を、指でなぞって、また泣いた。

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