哀しみの潜む場所



 マルクス・マルクと別れた僕は、とほとぼと覚束ない足取りで月の街を歩く。今日は誰ともすれ違わない。まるでこの世界に僕一人だけ取り残されたみたい。でも、それもいいかもね。

 今日は、行きたい場所があった。

 そこはよく河童おじさんと過ごした隕石のある場所。

 そには今は、誰もいない。マルクス・マルクが言っていた。河童おじさんは消えてしまったと。煙草の副流煙を吸いたくない、というお爺ちゃんと、口論になった末、手を上げてしまったのだと。月の街では暴力は許されない。河童おじさんは、淡い光に包まれることもなく、ただ透明になって消えてしまったという。


 隕石のある場所につくと、確かに誰もいなかった。ただ無骨で大きな石が、レゴリスに突き刺さっているだけの光景。それを星影が照らしている。

 隕石に近づくと、ちょうど僕の背丈くらいの窪んだ穴に、一本の煙草とライターが置いてあった。その銘柄とライターの色で分かった。河童おじさんのものだ。


「さようならの、あいさつかな」


 僕の呟きが暗い宇宙に飲み込まれていく。薄ピンクのライターに火をつけて、煙草の先端を燃し、その反対側を口に咥え吸い込んでみる。


「ゴホゴホゴホッ」


 僕は盛大にむせた。こんなことなら、おじさんがいるあいだに習っておくのだった。


「はあ」


 おじさんに聞いて欲しかったのに。

 僕のむかしばなし。好きな子にフラれたはなし。どうせ殴るなら、オレを殴ってくれよ。ねえおじさん?会いたいよ。


“生まれ変わるなんざまっぴらごめんさ”


 蛍のように赤く光る煙草の先端から煙が立ち昇る。それをぼうっとみていると、おじさんの声が聞こえたような気がした。


 煙を吸う。

 二度目は先ほどより、うまくいったみたい。でも、かなり、気持ち悪い。とてもじゃないけれど美味しいとは思えないな。


「ぼくはさいてい。」

 あの夢を思い出し、呟いてみる。


 きみもさいてい。


 みんなさいてい。さいてい。さいてい。さいてい。


 ふう、と星が瞬く空に向かって煙を吐き出す。舞い上がるレゴリスと混ざり合って、消えてゆく。



○●



「この世界は哀しいね」


 マンションの屋上で、僕とノノちゃんは赤い赤い夕焼けに抱擁されている。右手に持ったカッターナイフは鈍になってきて切りにくい。潮時かな、なにもかも。

 僕は相変わらず冷たい言葉を吐いてノノちゃんを傷つけているけれど、ノノちゃんは今日、一度も涙を見せなかった。血だらけのノノちゃんの瞳は前よりも生気がない。ただ、傷口を見つめている。夜空の星だったその瞳に、今は違う色が差していて。夜明け前の海のよう。僕は初めてその色を綺麗だと思った。


「どうしてそう思うの?」

「ルルが哀しそうだからだよ」


 傷口に目を落としたままーーふっと、君は口端を上げた。自嘲めいた笑みだった。


「かっこいいなって思ったの。でも君は、ぜんぜん幸せじゃあないみたい。」


 傷口を見つめたまま。夜明け前の一番暗い空みたいな瞳のまま。


「君は幸せ?」

「シアワセにはなれないよ」

「へえ、それはなぜ」

「だって」


 世界がね。わたしたちの知らないところで、こんなに哀しみに満ちていることを知ってしまったから。


 砂地に落ちたお花の冷たい影に。紅い彼岸花のうらがわに。掌に刻まれた皺の隙間に。樹の幹が剥がれかかったところに。高層ビルと高層ビルの隙間に。赤いヒールの踵の裏側に。冷たい冷たい窓ガラスの中に。わたしの三つ編みに編み込まれた中に。孤独なおじいさんの欠けた歯に。


 一度見つけてしまったら、ずっと目について離れない。どこにいても目ざとく見つけてしまう。哀しみとはそういうもの。僕はようやく、君を許せたような気がして。僕はようやく、憂鬱に冒された君を綺麗だと思えそうで。でもそれは、魔がさしただけかもしれない。気のせいだったかもしれない。だって次の瞬間には、ノノちゃんの瞳を見ても、心を動かされることはなかったから。でも、例えそれが風の囁きくらい儚いものだったとしても、伝えておけばよかったなあと思った。その次の日きみは、消えてしまったから。

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