ルール違反と月の使者



 遠いところで砂地を踏む音がする。それは夜の海のさざめきのよう。最初はちいさく、間近で大きく、音が鳴る、あれ。そいつは闇をのせてやってくる。ぽふ、ぽふ、とか、ぼす、ぼす、とか。ほとんど音の聞こえない月の街でこんなにもはっきり聞こえるのは、僕の心が空虚なせいか。


 波は穏やかに砂地に吸い込まれていった。

 そうして消沈している僕のとなりに、静かに立つ人影がある。


「ルール違反はしないのじゃなかった?」


 顔を見るのが腹立たしくて、僕は正面を見つめたまま口を開く。相変わらずマルクス・マルクは微笑みの気配を纏っている。


「疲れてしまってね」

「ああ。ついにバグったんだ?」

「そんなところ。それよりーー否定しなかったのかい?僕じゃないと。」


 おかしな質問だ。月の街に住むものは記憶がない。記憶がなければ、否定も肯定もできない。だから僕は少し押し黙ってから、「…夢を見たんだ。」と言った。


「そう」


 僕たちは二人並んで、月の街の光景を眺めている。決して移り変わらない、宇宙の景色を。


「どうだい。自分自身に絶望する気分は?」

「あっはは。最低だよ」


 僕は屈んで青く発光するレゴリスを手で掬ったり零したりして遊ぶ。砂、というよりも灰の感触に近い、これは。


「それはなにより。」

「ねえマルクス・マルク。僕も教えてくれよ。地球にいたときのこと」

「聞いてどうするの?」

「感傷に浸ってみたい」

「ふふ、合格。君のママは外に男を作ってその人に夢中だった。きみは家でママと二人暮らしでも心はひとりぼっち。その穴を、あの子を傷つけることで埋めていたんだよ」


 「ああ」と僕はあごを引く。今度は人差し指で、発光する灰をかき混ぜてみる。「その他」って、ノノちゃんを虐めたことだったんだ。


「僕のママは死んだの?」

「ええ。君がさよならしたのは死体だった。その彼氏と、同じ時間に死ぬんだって言ってね。ーー憐れだったよ。僕が迎えにいく数時間前。君は柄にもなく取り乱して泣いててね。僕も少しばかり情が動いたなあ」

「嘘つけよハイエナ」

「ふふふ。きみらしくなってきたね」


 地面のレゴリスを掴んで、持ち上げて、落とす。ふわふわと、光が舞うみたいに灰が舞う。

 やっぱりコイツは碌なやつじゃない。早く、月の街の神さまのお叱りでも喰らってしまえ。


「ねえ、ルル。もういいだろう?」


 と、男が唐突に言う。

 その声がやけに哀願めいていて、僕は息を潜めた。


「なにがだよ」

「僕と世界を壊してみないかい」


 ーー一緒に怒られてみる?


 思わず顔をあげて男をみる。斜め下から眺めたその顔は、なぜだか少しだけ寂しそう。そうして僕の脳裏に、いつかのマルクス・マルクのセリフが蘇る。あれは冗談じゃなかったのだろうか。コイツはどこまで本当のことを言っていて、どこまで嘘をついているのか分からない。


「オレはいいよ。アンタ一人でやれば。」

「そう言うと思った。だって君は薄情だものね」

「アンタに言われたくない」


 忙しいとのたまう割に、いつも暇そうなマルクス・マルクは、夜空に浮かぶ月のようにその場に佇んだまま。


「ねえ、マルクス・マルク。僕はどうしたらいいと思う?」


 こんな奴に聞くのは間違っている。非常に不服だ。腹立たしくさえ思う。けれど僕は、いまコイツにしか頼れない。僕の過去を知っていて、ノノちゃんの過去を知っているのは、ここの職員たちだけ。そして、ここの職員で一番話しやすいのは、マルクス・マルクなのだから。


「行って話をしてきたら」

「なにを話すんだよ」

「…きみは、どうして日々のフラストレーションの捌け口にあの子を選んだ?」

「…たぶん。」


 目線を落として、夢のなかの僕に思いを馳せる。憑依するように、心を通わせる。すると、すんなり景色が浮かんだ。白い雲と青い空、僕の目の前で、血だらけになって泣くノノちゃん。


「不幸なんて知らないって顔してたから」

「へえ。それって、どんな顔?」 


 なんだ、この会話は。

 僕は眉を上げてマルクス・マルクを睨むけれど、本人はいたって真面目のようだ。ちっとも意に介さないのだから。


「まだ分からないんだね。」


 と、僕を責め立てるような口調でマルクス・マルクが言う。どの口が言うんだ、と僕は言ってやりたいけれど、違和感を覚えて口を噤む。


「お馬鹿なルル。それに気付けたら、きっと上手くいくよ」

「…そもそもアンタが余計なことをしなければ、僕たちは上手くいってたんだよ」

「そうだったね。僕がニクイ?」


 わざと可愛らしく小首を傾げたマルクス・マルクの膝を蹴ってやろうと思ったところで、思い止まる。この街では暴力禁止なんだった。


「ああ。死ね。」


 僕は笑って吐き捨てた。マルクス・マルクは嬉しそうに微笑みの気配を見せる。君らしいね、とのたまいながら。

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