5日目
僕が呑み込まれるまえに
眠ることは赦されないと思い知った。
酷い夢を見たからだ。あれはただの幻か。それとも地球にいた頃の記憶か。ドクドクと脈打つ心臓に手を当てる。暑いわけでもないのに、パジャマは寝汗を吸ってべったりしている。酷くキモチワルイ。
恐ろしい。
氷のように冷たい、夢の中の自分の思考に恐怖する。これが真実ならば、君は悪い子だね、では済まないだろう。
気分を落ち着けたくて。玄関の横のカーテンを開き、静かに輝く月の街を眺める。
天の川のような、青い光の砂煙が流れてゆく。その背景には、黒い袋に覆われたような空。どこまでも暗い宇宙。瞬く数多の星。
今日はノノちゃんと月の街移住証明書を役所に提出しにゆく。そこで、婚姻届けなるものを受けとり、入籍する予定なのだ。
夢の中の、怯えたノノちゃんの顔が脳裏をよぎる。その大きな瞳の中で、煌めく星が揺れていた。唇は真っ青に染まっていた。今ならはっきり分かる。僕はノノちゃんを幸せにできない。その資格もない。
いいのだろうか、このままで。
何も告げず。知らんぷりをしたまま、あの子と一緒になって、いいのだろうか。
たぶんあれは真実だ。夢幻ではない。きっとあの夢だけが真実だ。そう、ノノちゃんの哀しみは僕のせい。すべて僕のせいで、ノノちゃんは此処へ来てしまったのだ。
なんという神の采配。
どうして僕はノノちゃんと出会ってしまったのだろう。
地球で僕と出会わなければ、ノノちゃんのちゃんは今頃、パパとママに愛されて、友達に恵まれて、幸せに暮らせたはずなのに。
月の街で僕と出会わなければ、僕に騙されずに済んだのに。ただ静かに傷を癒せたはずなのに。
どうして2回も、僕たちは出会ってしまったのだろう。
街のひっそり閑とした光景を眺めていると、あの白いレゴリスみたいに、心に不安が積もってゆく。この先のことじゃない。あと数日で消えることなんて、僕はどうでもいい。
つめたい、つめたい波が押し寄せている。その透明な水は、すでに僕の膝下辺りまで迫っている。潮が満ちたら。水に飲み込まれてしまったら。きっとあの僕が出てくる。僕はまたノノちゃんを傷つける。僕はきっと、ノノちゃんを愛せない。
ーーマルクス・マルクだ。
不服であるが、あの嘘くさい口調で話す、怪しい月の使者にしか、この相談はできない。他には誰にも、打ち明けられない。
そうと決まれば探さなくてはならない。ノノちゃんが月の街移住証明書を持って、僕の家にやってくる前に。
●○
誰に急かされるわけでもなく憔悴していた僕は、カーテンを閉めると玄関の扉を開き、外へ駆け出した。
足は、一歩目で止まった。
僕の家の前に。無数の星の明かりに照らされた、ノノちゃんがいた。
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