泡沫のごとく



 月の街は不思議だ。こんなに人が沢山いるのに、彼らの声は、僕たちの元まで響かない。まるで、途中でぷっつりと途切れてしまっているみたい。だからこの街は、いつだってとても静か。そう、例えるなら、水中のなかにいるときみたいな。


「ノノちゃんが一昨日ということは、僕と一日違いですね」

「年も近いし、偶然ね。もしかして、ご近所さんだったのかも」


 僕は二人、もといミツコさんと会話をしながら、テーブルの上に散らばった砂を払いのける。


 ご近所、かあ。僕は記憶を巡らせるが、やっぱりあの青く美しい星にいたときのことは、思い出せない。

 そんな僕の一番古い記憶といえば、マルクス・マルクと別れて銀蟾の口内に呑まれてゆくところ。


 あれは、嫌だった。

 僕はひとり、苦虫を噛み潰したみたいに顔を顰める。そして、会話する二人の親子をちらりと見た。


 こんなに綺麗なミツコさんも、こんなに可愛いノノちゃんも、あのヒキガエルの体内を潜り抜けてきたのだろうか?


「ざんねん。旅の行程は人によって違うんだよ」


 突然現れたマルクス・マルクはひらひらと手を振ると僕達のテーブルに近づいた。


 …コイツは要所要所で僕の前に現れるな。

 微笑みの気配を漂わせた、白くぼんやり発光する顔を見上げ、僕は思う。

 ストーカーなんだろうか?


「あら、マルクス・マルク。突然現れてなんの話かしら」


 ミツコさんはベンチの砂を払いのけると、ノノちゃんと並んで腰掛けた。


「僕が考えていたんです。月の街へゆくのにヒキガエルの体内を通ってきたんですけど、大変だったなあって。」

「え?簡単だったよ」


 そのとき初めてノノちゃんが僕の前で口を開いた。

 僕はいろんな意味で驚いてしまって、不躾にも少女をまじまじ見つめた。

 するとノノちゃんはさっと目を逸らしてしまう。僕もなんだか落ち着かなくなって、ノノちゃんから目を離した。


「ほうら。あの旅路は地球上での生き方によって軽度が変わる。君はとても業が深いね」

「大人気ないわ、マルクス・マルク。子供相手になんてことを言うのかしら」


 マルクス・マルクを嗜めるミツコさんの背後には、足を組んだウサギたちがテーブルに着いて楽しげに談笑している。なんの話をしているんだろう。ウサギは何に関心があるのだろう。


「マルクス・マルクは仕方がないんです。残業続きで疲れているから。ここの職員たちは、みんな疲労で思い遣りの心を持つ余裕がないんです」


 僕はフォローなのかフォローじゃないのかよくわからない弁明した。


「それも人によって違うんだよ。要するに業の」

「しつこい男ね。ルルくんは礼儀正しくていい子よ。なかなか今時、こんな子見かけないわ。」

「ふふふ。どうだか」


 マルクス・マルクは一体僕のなにを知っているというのだろう?

 しかし彼はミツコさんに睨まれ嘲笑を解いた。


「マルクス・マルクは仕事が忙しいのじゃなかった?油を売ってて大丈夫なの?」


 コイツがいると場の雰囲気が悪くなると判断した僕は、さりげなくお帰り頂こうと水を向けることにした。


「僕は有給休暇をとったんだよ。もうクタクタでね」

「クタクタには見えないけど」


 それは鈴の音のように可憐な声だった。ノノちゃんの純真な発言に、「見えない、見えない」と、僕たちは声を出して笑った。マルクス・マルクだけがバツの悪そうな表情を浮かべている。まあ雰囲気で感じとるだけだけど。


「嫌味をいう元気があるから大丈夫だね」

「君ねえ、あんまり月の使者をぞんざいに扱ってはいけないよ。」

「マルクス・マルクさんも、あまり人をいじめちゃだめだよ」


 おっと。おっとりしているように見えて中々気の強い少女だ。しかし、そう言い放ったノノちゃんの声はまだ年相応にあどけない。ミツコさんはノノちゃんの隣で月の使者を睨みつけているし、女を敵にまわすと怖いことを僕はこのとき思い知った。


「そうかい、そうかい。あ、さては君、ルルのことが好きなんだね? ほら、顔が真っ赤だ。」


 ああ羨ましい。よかったねルル? マルクス・マルクはわざとらしく声をあげると、僕達に背を向けた。「邪魔者は退散するよ。じゃあね」笑みを滲ませた言葉と共に、その後姿は砂煙のなかへ消えてしまった。


 僕のことが好きだって?


 僕はミツコさんの横に座るノノちゃんを見た。ノノちゃんは確かに顔を真っ赤にして俯いている。


 ミツコさんはどんな反応だろう、と思って顔を伺うと、驚いていると同時に嬉しそうでもあった。


「よかった。わたしが消えた後、この子はどうなるんだろうって心配だったのよ。ノノをよろしくね」


「うん」


 僕にしては珍しくはっきりと頷いた。ノノちゃんは顔を上げて驚いていたけれど、一番驚いたのは僕だった。


 地球にいた頃の記憶はないけれど、僕の体が知っている。自分がとてもお節介な性格ではなかったということを。それともマルクス・マルクの言う通り、ヒキガエルの体液を飲まなかったせいで少し記憶が残っているのかもしれない。


「ぼくがノノちゃんをまもってあげる」


 ノノちゃんの、星が瞬くような瞳を見つめ僕は宣言した。この宇宙のただなかで。


 ミツコさんはそんな僕達を見守ってくれていた。背後の職員のウサギたちは、にんじんを食べると栄養過多になってしまうから、やっぱり牧草が一番だとか、そんな訳のわからない話をしていた。


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