3日目
河童おじさん
「月の街はいいよ。年金の心配も、孤独死の心配もしなくていい。俺が死んだあとの骨の行方とか、その際に必要なお金だとか、なあんにも案じなくていいんだからな」
「へえ、大人になるといろいろ大変なんですね」
「今の時代は死ぬことですら責任を求められるんだ。昔と違って野垂れ死ぬことなんて出来ねえよ」
そのおじさんはどことなく河童に似ていた。別に頭が禿げているわけではないけれど、甲羅を背負ったように背中が曲がっていて、上唇が尖っているのだ。
河童おじさんは昨日衝突したばかりの隕石に腰掛け、どこで入手したのかわからない煙草を呑んでいた。
「おじさんはここへ来て何日目になるんです?」
「5日かな?もうすぐいなくなる。会えてよかったよ、坊主」
「ぼくもです、おじさん」
月の街での近所付き合いは楽しい。色んな話を聞くことができる。みんな記憶を失っているから細かい話はできないけれど、記憶の喪失には個人差があるみたい。河童おじさんは地球にいた頃の悩みを覚えているらしかった。
「坊主はなにか覚えてないのか?」
「そうですね僕はなにも。朝と昼と夜があるとか、あと、季節は秋だったとか。それくらいですかね」
「季節?」
おじさんは四季を覚えていないみたいだった。目を瞬かせるおじさんの背後には宇宙が広がっていて、思わず目を奪われそうになる。
「一年が四つに分かれているんです。心地よいのが春、暑いのが夏、涼しいのが秋、寒いのが冬って具合に」
この説明で合っているのか分からないけれど僕はなんせ子どもだ。これで勘弁してほしい。
「心地よいってなんだ。お前さんの説明だと寒いと暑いの中間が春ってことじゃねえのか」
「あ、そうそう、それです」
僕が尊敬の眼差しで河童おじさんを見やると、彼は煙草の煙を吐き出したあとニヤっと笑った。
○●
河童おじさんは煙草を貰ってくると行ってロープウェイ乗り場へ向かった。この辺りには静かの海展望台があって、そこからロープウェイに乗ることができる。おじさんは役所の職員に頼んで煙草を貰っているらしかった。役所の場所は雨の海中央0丁目3番。ここからは少し遠い。
「役所、かあ」
まだ2日しか経っていないというのに懐かしい。僕は目を閉じた。紳士で少し口の悪いクラックス・クラウンは元気だろうか。瞼の裏に赤い目をした白兎が浮かぶ。今度おじさんが煙草を貰いにゆくときは、僕も一緒に連れて行ってもらおう。
ほの青く発光するレゴリスに座って漆黒の空を行き交いするゴンドラを眺めていると、星影が遮られ視界が暗くなった。
隣を見ると、さっきまで河童おじさんがいた場所にマルクス・マルクがいる。
マルクス・マルクはどうやらこの辺りに住んでいるらしい。とにかくよく出逢う。もしかしたら、静かの海辺りの諸々の業務を任されているのかもしれない。例えば治安維持とか。とにかく、そうとしか思えないほどよく出現する。
僕の考えを裏付けるように、マルクス・マルクはおじさんがポイ捨てした煙草の吸い殻を拾い集めていた。
「困るんだよこういうの。君も見ているなら注意してくれないかい」
「気をつけるよ」
珍しく感情を露わにしたマルクス・マルクに僕は苦笑する。マルクス・マルクは汚いものを触るかのように吸い殻を拾う。手袋が汚れるのが嫌なのだろう。
「ねえマルクス・マルク?あの人はどうしてここへ来たの?」
ここへ来た、という表現はすこし違うかもしれない。それだと自発的な行動を意味してしまう。月の街へ移住する人たちは、どちらかというと連行される形でここへ来ているのだから。
「哀しみ事項記録の中身のこと?それは君でも言えないなあ。」
「今更なに言ってんのマルクス・マルク。アンタけっこう口軽いよ」
「軽いながらも大事なところは弁えてるんだよ。これはルールなんだ」
「ルールを破ったらどうなるの?」
「神さまに怒られるの」
悪戯っ子のような気配を漂わせたマルクス・マルクに既視感を覚える。似たようなやり取りをしたことがある気がした。
「神さまはこわいんだよ」
「どうこわいのさ」
「ふふふ。きみがいいのなら一緒に怒られてみる?」
「いや、僕はいい」
相変わらずマルクス・マルクの提案は碌なものではない。相手にしてられなくなった僕は立ち上がって彼に背を向ける。
「ノノちゃんのところ?」
「…そうだけどなにか?」
僕が振り返るとマルクス・マルクは微笑みの気配を見せた。でもそれは優しくなかった。冷笑だった。
「いいえ。行ってらっしゃい」
初めからそう言って送り出せよな、僕は内心ぶつくさ文句を言いながら、発光する砂煙の中を歩いて行った。
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