2日目

失踪少女、現る



「このせかいはかなしいね」


 夢である。この声はいったい誰のものだろう。僕は体を横にしたまま、うつらうつらと船を漕いでいる。そんな僕のあたまに直接語りかけるかのように、誰かの声が響いているのだ。


「かなしいって、なあに」


 そう尋ねたいけれど、どうしてだか口が動かない。体が金縛りにあっているみたいだ。


「もうわすれちゃった?」


 だれの声だ、考えるけれど、誰も思い浮かばない。


「うん」


 そうだね。僕は忘れちゃった。そちらにいたときのことは、殆ど。

 だから僕は、この世界が哀しいものだとは思わない。

 もしかしたら、そう思えないことのほうが、哀しいのかもしれないね。



○●



 目を覚ますと僕は見知らぬ部屋にいた。眠っている間に運ばれたらしい。最低限生活できるかな、っていうくらいの小さな部屋はキッチンもなければ浴室もトイレもない。


 ただ部屋の中央に丸いテーブルがあって、その上には昨日役所に提出したはずの月の街移住証明書が置いてあった。僕の名前と顔写真、汚い字で書かれたサイン、月の街で暮らすルール、地球で得た哀しみの重量。必要な事柄だけが記載された、一枚の紙切れ。


「母の自死…」


 だれもいない部屋でぽつりと呟く。身に覚えのない言葉はまるで違う人のものみたい。


 ドアを開けて外に出ると宇宙が広がっていた。静かの海2丁目2番。夜とは違う暗さがそこにはある。月の街にはどうやら朝がない。つまりここには夜もない。だからこの地表を覆う闇は、月の街という概念の一部を担っているわけだ。たぶん。


「あら、新しい子ね。」


 見慣れない景色に見惚れていると声をかけられる。水色の眼鏡をかけた30代くらいの女性だった。その横にはパジャマ姿の僕と同じ年くらいの女の子がいる。


「わたしたちは四日前と一昨日ここへ移住したのよ。わたしは桐谷ミツコ、この子はノノっていうの。宜しくね」

「初めまして。上嶋ルルです。こちらこそよろしくおねがいします」


 ノノと紹介された少女は、黒く丸い、星をあつめたような瞳でじいっと僕を見つめた。とても可愛らしい女の子だと思った。ごめんなさいね、人見知りで。ノノちゃんのお母さんはそう言って苦笑した。


 二人はお散歩の途中だというので僕も混ぜてもらうことにした。ミツコさんが街の案内をしてくれるのだという。


「案内といっても、殆どなにも知らないんだけどね。」


 話によると、お母さんは四日前に月の街へやってきて、ノノちゃんは一昨日移住してきたらしい。二人とも親子であった記憶はないとのこと。けれど月の使者のマルクス・マルクから、あなたたちは親子だから一緒の家に住みなさい、と説明されたらしい。


「ここを真っ直ぐ歩くと大きな桂の木があるのよ。とっても甘い匂いがしてね。遠いから今回は行かないけれど、気が向いたら行ってごらん。人も沢山いるから退屈しないわ。」


 そう言って、ミツコさんが案内してくれた広場にはたくさんのテーブルとイスが並んでいて、人と動物で賑わい、静かの海の社交場みたいになっていた。


「わあ、すごい。」


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