マルクス・マルクとの再会



 クラックス・クラウンは青色の鞄の中から鍵を取り出すと、南京錠に差し込んで扉を開けた。


 僕は所在なくその場に立ち尽くし、クラックス・クラウンの動作を見守っている。


 ウサギは入口の柵にかけられた柄杓を手に取り、井戸の縁に白い手をついて中の水を掬った。

 その後、真剣な赤い眼差しが僕を捉える。声はなかったが、来い、と命令されたのを理解した。


 招かれた僕は井戸の側に立つ。


 彼はおもむろに、水の入った柄杓を僕の唇に近づけた。これ飲めるの?と目で尋ねると、クラックス・クラウンは一度深く頷くのみだった。


 ウサギの毛が混じってないか心配だったけれど、僕は意を決して、美しい液体に口をつけて中身を飲み干す。なんといえば分からないけれど滑らかな味がした。


 クラックス・クラウンは柄杓を元に戻し、丁寧な動作で扉の鍵を閉める。


 あ、それ、洗わないんだ。

 僕は衛生面の心配をする。


 僕たちは入江を後にして、向こう岸に繋がる橋を渡った。僕は神さまに背中をむけて大丈夫なのかと心配したけれど、クラックス・クラウンが気にする素振りはない。


 地球にいた頃は神さまなんて信じていなかったのに。

 なんだか、調子が狂いつつある。


 白いモフモフしたクラックス・クラウンの後ろ姿は無口で沈黙している。けれど短い尻尾がよく動いていた。ともすれば愛らしい姿だ。あの毒舌さえさえなければ。


 やがて、先に橋を渡り切ったクラックス・クラウンはくるりと振り向き正面で僕を待つ。

 赤い瞳はせかすわけでもなく、ただ感情を無にして僕を見つめている。


「橋を渡り終えたら、ここの住人です」


 唐突にクラックス・クラウンは言った。そういうのは予め説明しておいてほしい、と思いながら僕は橋を渡り終えた。



○●



「では、私は帰り道が違いますのでこれにて失礼」

「えっ、帰りは僕一人なの?」

「いえ。案内人がいます」


 その後、再び現れた長い階段を慎重に登り切ると、ロープウェイの乗り場が二つに別れた。クラックス・クラウンは別れの挨拶もなく右側のゴンドラに乗りこんでしまった。


 途方にくれた僕は、今しがた登ってきた階段を振り返り、眼下に広がる湖を眺める。


 悠々とした山脈の奥深くに鎮座する湖はとても静かで美しい。いっそ飛び込んでしまえたら心地よいだろう、と思う。先ほど欄干から覗き込んだときもそうだった。水に誘われる感覚があるのだ。


 やかましいクラックス・クラウンはもういないし、もう一度近くまで行ってみよう、と足を一歩踏み出したところで、肩を掴まれる。

 振り返ると、今度はちゃんとした人間の大人がそこにいた。


「行ってはいけないよ」

「だれ?」

「僕は案内人のマルクス・マルク。初めましてルル。」

「…」


 マルクス・マルクと名乗る男は自己紹介をすると微笑みの気配を見せた。けれどその顔はぼやけていてはっきり見えない。まるで地球から眺める月のようだ。


「あれ?僕を覚えている?」


 マルクス・マルクは首を傾げた。


「僕たち会ったことがある?」

「ええ。一度だけ、ね。」

「…あ、僕を蹴った奴だ!」

「ふふ。さては銀蟾の胃液を飲まずに済んだんだね。」


 アンラッキーだ、と呟いたマルクス・マルクは黒い手袋をはめた手で僕の小さな手を繋ぐ。


「さあ帰ろうか。あの湖に心を奪われてしまう前にね」

「心を奪われる?」


 マルクス・マルクは、クラックス・クラウンと違って僕を押しのけると先にゴンドラに乗車した。浅ましい。畜生以下だな。


「神酒の海に行こうとしてたでしょ。君は銀蟾できちんと染まり損ねたから少し危うい部分があるとみえる」

「へー」


 僕の気の抜けた返事を聞いたマルクス・マルクが微笑む。といっても表情はぼやけて分からないのでその気配を感じるだけだ。


 子どもの僕からすれば危ういのはマルクス・マルクの方だと思う。なにが危ないって性格が歪んでる。


「ねえマルクス・マルク。僕疲れたから眠るよ」


 けれど今はそんなことなどどうでもいい。ただひどく眠たい。ゴンドラが高速で移動しながらゆらゆら揺れる。相変わらず窓の外の景色は幻想的で美しい。けれど、今日は色々ありすぎた。


「そうだね。僕が迎えに行った時君はちょうど寝るところだった。膝枕はいるかい?」

「いらない」


 マルクス・マルクの気持ち悪い提案をすげなく却下した僕は目を閉じて冷たい窓に頭をもたげた。不安はない。おやすみなさい、揺れるゴンドラの中でマルクス・マルクの優しい声が響いて消えた。


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