4日目
ミツコさん消失
紫のパーマおばさんと別れて、ノノちゃんのお家を訪ねると、少女は低いテーブルの傍で一人泣いていた。僕は入り口で一瞬ためらったけれど、そうっと玄関の扉を閉めて、小さく体を丸めたノノちゃんの背中に近づいてみる。
ノノちゃん、どうしたの?
とは、聞かなかった。なんだか白白しくって。だから僕は、ノノちゃんが心を開いて話してくれるまで、ノノちゃんのそばに腰を下ろして、待った。そうして、薄緑のカーペットに目を落とす。
「ママがきえちゃった」
五分くらいしたところで、ノノちゃんは側にいる僕を見あげた。僕も、カーペットから目を離し、向かいの少女を見た。
涙をぽろぽろと流すノノちゃんのかたわらで、燐光みたいな青白い光がふわふわと浮いている。説明されずともわかった。それはミツコさんだった。
月の住人のなかには青白い光を放つ人がいる。先ほどの展望台のおばさんも、ぼくが望遠鏡を覗くまで、指先が光っていた。僕はそれが何なのか、このときようやく腑に落ちた。ここでは、人が7日目を迎えて消えるとき、ミツコさんみたいな淡い光になってしまうらしい。僕が見ていたあれは、前兆だったのだ。
「大丈夫だよ。僕がいるよ。」
ノノちゃんのピンク色の背中をなでる。ひとりじゃない、ひとりじゃないよ。柔らかいパジャマの質感はそれだけで幸せな心地がした。
「僕がいるよ。」
宥めた甲斐があって、ノノちゃんは少しずつ泣き止んできた。おかしいな、僕は少し惜しいと思った。ノノちゃんの泣き顔は何故だかひどく安心する。それでいて可愛らしかった。愛、ってこういうことをいうのかな。
落ち着いたノノちゃんと僕でミツコさんだったものに触れてみる。光は透けてぼくたちの手が青白く輝く。きれいだね、と君が笑ったときには、僕たちはこの月の上で二人きりのような心地がした。
やがて、ミツコさんだったもの、が名残惜しそうにゆっくり消えると、室内はとっても静かになった。光をうしなった空間を茫然と見つめる、ノノちゃんの瞳が揺れた。
不安なのだろうか。記憶がなくとも、ママと名乗る人物が消えたのだ。
ノノちゃんはきっと考えている。この街で、たった一人きりになってしまったって。
けれど、どうしたことだろう。その可憐で不安に満ちたノノちゃんの顔を見つめていると、僕は心がすうっと冷たく凪いでいく心地がした。
氷のように冷たい風が、心のなかにあった温かいものを全て、攫っていくみたいに。
自分の体がくらりと揺れて、ノノちゃんが何重にも重なって見えた。視界がぶれる。頭がぐわんぐわんする。激しく揺さぶられたみたいに、平衡感覚を失う。
やがて揺れがおさまったとき。ノノちゃんは相変わらず空虚な瞳に涙を溜めていて。泣いては泣き止む、泣いては泣き止む、を繰り返していた。
僕は少女を見つめている自分の視線に、既視感を覚える。
これは、誰だろう。
突如沸いた、自分の心の冷ややかさを、さぐる。これは、なに? 僕は温かい人間ではないかもしれないけれど、冷たい人間でもなかったはずだ。まるで先ほどまでの僕ではない。ちがうだれかに、入れ替わってしまったみたい。
ふとノノちゃんの背後に人の気配を感じた。いつからそこにいたのだろう、顔をあげると、マルクス・マルクが微笑んでいた。
背後に月の使者がいることも知らず、ノノちゃんはひっく、ひっくと嗚咽をあげている。
マルクス・マルクの顔は、何か言いたげ。
僕の心の機敏を、見透かしている。
その透明な視線のなかで、ぱち、ぱちと、パズルを嵌め込むように、物事の辻褄があってゆく。マルクス・マルクの冷笑の理由。僕を碌でなしと言ったわけ。
ーーミツコさんは後悔しているかな。
大切なノノちゃんを僕みたいな子に預けたこと。ノノちゃんは僕に騙されている。けれど僕も僕に騙されていた。
「悪い子だね君は」
マルクス・マルクはなにも言わなかったけれど、僕はたしかに彼の声を聞いたのだった。
けれどすべては、僕の幻かもしれない。
ここの街には、確かなものなど何もない。僕がノノちゃんを守りたいと言ったこと。ミツコさんとノノちゃんが親子であることでさえ。確信はない、だってそれを知っているのは、マルクス・マルクや、ここの職員だけ。
ぼくは途端に恐ろしくなった。
(こわくない、こわくないよ)
(君は業がふかいね)
ノノちゃんの背中を撫でる。温かくて、ふわふわしている。
「大丈夫だよ。」
ノノちゃんに言い聞かせるように、自分に言い聞かせるように、僕はずっと声をかけ続けていた。
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