ヒキガエルの体内を巡る
「ねえここってほんとにうちの廊下?」
僕がそう尋ねたのは、どれだけ歩いても自分の部屋に辿り着けないからだ。
まるで、長細い生物の体内を歩いているみたい。ゆけどもゆけども、行き止まりがない。
「いいや。もう違う」
マルクス・マルクは足を動かしながら眼前の闇だけを見つめて言った。彼からすればこの類の質問は毎度のことなのだろう。面倒そうだった。
「マルクス・マルクはさ。人を連れ去るお仕事をしてるの?」
「そう。これが僕のお仕事さ」
だから僕は、マルクス・マルクが退屈しないような質問を向けてあげようと思った。
なにせこの廊下は長そうだ。
「大変そうだね」
「そうだね。君みたいな聞き分けの悪い子どももいるしね。それにノルマに追われる毎日さ。毎日何十人もの人たちを月へ運ばなければならない」
「間に合わなかったらどうするの?」
「徹夜だね。残業だよ、残業」
「ふうん。ところで哀しみの重量ってなに?」
「言葉のまんまさ。詳しく知りたいなら、移住前に役所で手続きをしなくちゃいけないから、その時に尋ねるといい」
大概の大人は知識をひけらかすのが好き、というのが僕の主観であるけれど、マルクス・マルクは違うようだ。
それに、とにかく何事も投げやりに見える。
「マルクス・マルクの顔はぼんやりしていてよく見えないけどどうして?」
人の顔を判別できない僕がそう尋ねたのには訳がある。彼の顔は他のに比べて更にぼやけているのだ。それにうっすら光っている。まるで歩く満月だった。
「口数の多い坊やだ。月の使者に顔はいらないんだよ。あ、君たちは大丈夫だよ。向こうに着いても、ちゃあんと顔も体もそのままだから。さあ、ついたよ。入り口だ。」
ゲコゲコゲコとくぐもった音が廊下に響いていると思ったら、廊下の最奥に巨大なヒキガエルがいた。僕は顔を顰める。カエルは苦手だ。
しかしあろうことか、その蛙が、大きな口を最大限まで開いて僕を誘っているのだ。
「さあ、入って」
マルクス・マルクは面倒そうに僕の背中を押すが、僕は振り返って彼の手首を掴む。一人で入るなんて冗談じゃない。
「ヤダよ。気持ち悪い」
「銀蟾の体液を浴びないと月にはいけない。悪いが君一人で行っておくれ。僕はそこへは行けない」
「嘘だ。アンタ絶対ヒキガエルの体液浴びたくないだけだろ」
「じゃあね?ルル。またあとで」
マルクス・マルクは見た目に似合わない馬鹿力で僕の手を振り払うと僕の背中を蹴った。体勢を崩した僕はピンク色の口内に尻餅をつく。咄嗟に触れた手が柔らかいなにかを認識する。舌だ。
「暴行罪だ!警察に言いつけてやる!」
「ふふ。どうぞご勝手に。」
まだまだ悪態をつきたいところだったが、カエルの舌が波打って今まさに僕を飲み込もうとしている。マルクス・マルクは手を振って笑んだ気配を見せた。アイツぜってえ殺してやる。カエルの胃に運ばれながら僕は深い憎悪に拳を握りしめた。
途中でその憎悪を忘れてしまったのはカエルの体内旅行があまりにハードだったからだ。真っ暗な闇の中で柔らかい壁が波打つのに合わせて体が下へ下へと押し出される。息は苦しく髪から足からもう粘液でぐちゃぐちゃでひどく気落ちする。お風呂入ったばかりなのにまた入り直さないと。
(大丈夫。お風呂ならそこにある)
マルクス・マルクの皮肉な幻聴が聞こえたのは僕の輸送が食道を通過したところで突如胃液のプールに落とされたから。脳が勝手に再生したのだろう。深い胃液の中で踠きながら僕は再び憤る。
もがいたらだめだ。沈んでしまう。考えを改めた僕は体の力を抜いて浮遊すると水面から顔を出した。ぷはあと大きく息を吸い込み、辺りを見渡す。暗い。水面は絶えず揺れている。酔いそうだ。
カエルの胃は広く深く、胃液はたっぷりで地に足がつかない。溺れないよう泳ぎながら尚も辺りを観察すると、恐らく腸に繋がっているであろうピンク色っぽい岸が見えた。僕は意を決して、胃液に顔をつけるとクロールする。
向こう岸に辿り着くのは簡単だった。しかし壁に手をついてから岸に上がるのが難しい。力を込めようとすると、手が滑ってしまって体勢を崩す。登れない。カエルの臓器が絶えずゲコゲコと動いているのもあって難易度は高い。僕の三半規管が逞しくてよかった。車酔いする人だったら多分ここで吐いている。
ヒキガエルには悪いけれど、僕はピンク色の粘膜に爪を立ててきつく握りしめると、腕力だけを頼りに岸へあがる。
なんとか溺死を免れた僕は、浅い呼吸を繰り返し一休みしようとしたけれどそうはいかなかった。すぐに腸の壁のようなものが迫ってきて、僕を体内の奥まで運ぼうとする。僕は呼吸もままならないまま大腸か小腸か直腸か分からないけれど、イソンギンチャクみたいな柔らかい管の中を運送されてゆく。その間に僅かな隙間を確保して浅い息を繰り返す。カエルの体液を飲み込みたくないから死に物狂いだ。
しばらく腸内を揺蕩ったあと、頬に吹き付ける微風を感じた。出口だと安堵したのも束の間、僕は固唾を呑む。そういえば、口から入ったのなら出口はどこ?
「うわあ最悪」
壁がひときわ僕を圧迫したと思えば、すぽん、という音を立てて僕は勢いよくカエルの体外へ吐き出された。
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