月に到着
1日目
移住手続き
地面に体を打ちつけた僕は、あまりの理不尽さに打ち震えている、と言いたいところだけれど、実際は満身創痍で怒る体力はおろかその気力さえ奪われていた。
「長い旅路お疲れ様でした。ようこそ月の街へ。」
「長い旅路じゃなくて不愉快な旅路だよ」
悪態をつきながら顔を上げると、僕は一瞬呼吸を忘れた。
夜とは違った漆黒の空。レゴリスの積もった地表が青白く発光している。粉みたいにこまかい銀砂が煌めきながら宙を舞う。視界の両側に白銀色の建物が立ち並び、漆黒の空には数多の星が瞬く。空中には電線のような糸が張り巡らされていて、糸に吊り下げられた無数のゴンドラが移動しながら浮かんでいた。
ガラス細工で出来た街のよう。ひどく幻想的で美しい光景だった。
そんな景色の中央では、華奢で小柄な女性が僕を見下ろしている。顔は、かろうじて分かるかなってくらいの鮮明さ。
「ここは」
「先ほどの話は聞いていませんでしたか?ようこそ月の街へ。ルルさんですね。移住の前に手続きを」
女性は矢継ぎ早にあれこれ言うと、まだ混乱している子どもを無理矢理立ち上がらせ、歩かせる。
「…」
どうして月の街の人は思い遣りのない人たちばかりなんだろう。
「これは?」
「役所です」
目につく限りの中で一番大きな建物に僕を案内すると、女性は振り返った。やっぱり顔はぼやけて見えない。
「この建物は三階建てになっています。一階奥の月街民課で移住手続きができます。三階はロープウェイの乗り場です。二階は職員専用ですので立ち入らないように。」
「はあい。」
女の人もきっと仕事で疲れているのだろう。マルクス・マルクも疲労で苛々していたけれど、この女の人からも似たようなものを感じる。僕がありがとうと声をかける間もなく女の人は踵を返して行ってしまった。名も知らぬ女性が歩くと銀の砂がふわりと舞って、その後ろ姿をあっという間に隠してしまった。
扉は自動ドアで、中に入ると地球に存在する建物と同じだった。
青い石を敷き詰めた地面には月の砂が散らばっていて、歩くとじゃりじゃりした触感がある。天井からは白い看板が沢山ぶら下がっていて、女性に言われた「月街民課」は確かに一番奥にあった。
「あの、手続きしたいんですけど」
僕が声をかけたのは月街民課のカウンターに座る人間の子どもくらいの大きさのウサギだった。
「はい、はい。お名前をどうぞ」
「ルルです」
「ああルルさんね、暫しお待ちを」
ウサギは明らかに畜生の形をした身形とは裏腹に流暢な日本語を話した。まあるい着ぐるみのようなモフモフした手で傍の整理された書類を漁ると、一枚の紙を取り出す。
緑のカウンターに置かれたその紙を見て僕は閉口する。
一番上に僕の名前が印字され、横には顔写真が貼ってあった。
「上嶋ルルさん。年齢10歳。住まいは日本。間違いなければここにサインを」
ウサギに渡された取り立てて特徴のないペンを使ってサインをする。
「えー次は月の街の説明ですね。こちら地図です。ルルさんの住まいはここですね」
ウサギは書類の上に地図を広げると赤ペンで地図の一部に丸をつける。
「静かの海2丁目2番?」
「そうです。まあ海といっても海水はありませんが。あと、警察署がここ、裁判所がここ。ああそうそう、この役所はここ、雨の海中央です。まあこんなもんでいいでしょう。」
大雑把過ぎて理解できそうにない説明を終えると、ウサギは白い両手を使って地図をクルクルと丸めてゆく。テーブルの端にあった輪ゴムを器用な手つきで一つとると、筒状になった地図を纏めた。
「地理はあらかた理解して貰えましたかね。ところで、月の街に移住するに当たってはいくつかの同意が必要です」
ウサギは爪で指し示しながら、僕の名前の下に書かれた箇条書きの項目を読み上げていく。
「一つ、月の街に移住するにあたって地球上で得た記憶は失われることに同意する。」
「えっ?」
「二つ、月の街に移住したのち七日間で体と魂が消滅することに同意する」
「ちょっと待って」
「三つ、月の街では如何なる暴力行為も許されないことに同意する。破った場合はその時点で体と魂が消滅し尚且つ輪廻しない」
「…」
「四つ、月の街の住民は仲良く暮らすこと。以上異論が無ければ項目の横にチェックをして下さい」
「異論だらけの場合はどうしたらいいの?」
書類から顔をあげた僕は自らの失言を思い知った。物凄い剣幕のウサギの顔がそこにあるのだ。
ウサギはその赤目をかっと見開き、勢いよく椅子から立ち上がると、後脚で地団駄を踏み始めた。
「ヴヴヴヴヴッ」
同時に、声帯を震わせながら、前足でテーブルをバシバシ叩く。書類が舞った。
無言を決め込んでいた隣の職員も、「ヴヴヴヴヴ」という唸り声と共に、激しく僕を非難する。
ふと、二匹のウサギの背後に目をやると、忙しそうに職務を全うしていたウサギたちが一斉に手を止めて、こちらに赤い目線を注いでいた。
身の危険を感じた僕は迅速に四つの項目にチェックを入れていく。
「はい、結構です」
カウンターのウサギが椅子に腰を落ち着けると、隣のウサギと背後に控えるウサギたちが揃って自分の仕事に戻ってゆく。
「そのチンピラみたいなやり方考え直した方がいいよ…」
「次で月の街移住証明書の完成です。哀しみ事項記録を見て間違いがなければサインをして下さい」
哀しみ事項記録?
○父の蒸発 7g
○母の自死 11g
○その他 3g
計 21g
「その他ってなに?」
「知りたければ申請できますが」
「いや、やっぱ大丈夫。ありがと」
パパがいなくなったことが僕に7gもの悲しみを与えていたとは。僕は黒枠の中に印字された文字を眺めふうんと顎を引く。
「ねえところでこのgってなに?哀しみはgで測れるの?」
「測れますよ。まあ地球上には測量器がないみたいですけど月の街では役所の2階にあります。」
「へえ。なんで規定が21gなの?」
「生まれてくる前に自分で決めれますよ。スタンダードが21gなのでそうする人が多いだけです。21gっていうのは魂の重さなんでさね。魂の重さ以上に哀しみの重量が上回ってしまうと人格に影響が出ます。人格に影響が出ると社会に悪影響が出やすくなります」
「なるほど。だから僕たちはここに隔離されて消されるわけだ」
「まあ悪く捉えるとそういうことですね」
ウサギは淡々と説明した。説明し慣れているのだろう、その言葉には澱みひとつすら見当たらない。
「では参りましょうか」
「何処に?」
「月の神さまのところです」
「はあ」
ウサギは椅子から立ち上がるとカウンターの横から扉を開いて出てきた。座っていたので分からなかったが、白い毛で覆われた胸元には名札がついている。
「ああ。自己紹介がまだでしたね。私はクラックス・クラウン。どうぞ宜しく」
握手を求められ、その白い前足を恐る恐る触る。白い前足と言ったが、ボールペンのインクや鉛筆の芯で汚れた手は灰色がかっていた。
握手を交わすとクラックス・クラウンが忘れ物をしたといって再びカウンターの中へ入ってゆく。程なくして青い肩下げ鞄を身につけて戻ってきた。そうして僕たちは役所の入り口の真ん前にあるエレベーターに乗り込んだ。
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