別れの挨拶
大人は酷く穏やかな口調で、子どもの僕に向かって丁寧に自己紹介をした。
水を差すアンドロイドの声は機械的で相変わらず感情がない。
「日本人?」
「それはさして重要な問題ではないね」
暗闇の中でも分かるくらい、大人、もといマルクス・マルクは身長が高い。それに細い。腕や足はスーツで隠れているけれどまるで枝のようだ。名前からして外国人だろうけれど、流暢な日本語を喋っている。
「あ。あんたでしょ、ノノを誘拐したひと」
「ノノ?ああ、あの三つ編みのおさげの子か。会いたい?」
「ぜんぜん」
だって僕はあの子をいじめていたから。手ひどく手ひどく、苛めていた。本当は顔も思い出したくない。
「そう。」
マルクス・マルクはまた微笑みの気配を見せた。今度のは冷笑だった。
「まあ無駄話はそこそこにして移動しようか。ママとお別れをしておいで。」
「移動?月に?」
唐突な成り行きに、僕は少し戸惑っていた。
「哀しみの重量が規定の21gを超えました。速やかに月の街へ移動してください」
「うるさいなあ」
「じゃあ消そうか」
マルクス・マルクがズボンのポケットから黒く四角いリモコンのようなものを取り出すと片手で操作して、再びポケットに戻した。
その瞬間にスマホの人工的な明かりが消滅し、部屋は墨を溶かしたように真っ暗になった。
「これじゃ見えないね。カーテンを開けよう。今夜は三日月だけれど、街灯で少しは部屋も明るくなるだろう。」
人の部屋のカーテンを勝手にあけたマルクス・マルクの顔は、満月のように白いのにボヤけていて何も見えない。
「さあ早く行っておいで」
「僕が月へゆくのはぜったいなの?」
「そうゼッタイ。」
「お別れってしなくちゃダメ?」
「ダメ」
「なんで」
「聞き分けの悪い子だなあ、移住した暁に未練が生まれるからだよ」
「ミレンが生まれたらどうなるの」
「消えられなくなるの」
僕の口調を真似したマルクス・マルクは窓際に腰掛けてしっしと僕を追い払う。
「君はこの世界に未練なんてないでしょ。さっさと済ましちゃおうよ」
なんて、まるで僕のことを全て知っているかのように言う。
僕は仕方なしに部屋を出て、暗い廊下をとぼとば歩き、ママの寝室へゆく。
ママは明かりを消した寝室で寝息も立てず眠っていた。近寄ると、白い枕に濡羽色の髪が散らばっている。その寝顔がはっきり見えたのは僕の目が闇に慣れてきたからだろう。
あれ。はっきり見える?
僕は瞠目した。
久しぶりに見たママの顔は血の気が失せていても綺麗だった。
「ママ、だいすき、さよなら」
布団の中のママの手を握り、冷たい頬にキスをして、お別れした。ママの長い睫毛はぴくりとも動かない。ママは僕がいなくても寂しがらないだろうな。きっと、ノノのママのように取り乱したりはしない。
少しだけ生じた哀しい心を抱えて、ママの寝室を出ると、マルクス・マルクの元へ戻る。
「終わったみたいだね」
暗い廊下の真ん中に立っていたマルクス・マルクは、まるで一部始終を見ていたみたいにはっきりした口調で僕に言った。
そうして彼は黒い手袋をはめた左手を僕に向けて差し出す。
「いらないよ。一人で歩けるもん」
「まあそう言わずに。迷子になったら大変だ。」
月にゆく途中はなにがあるか分からないからね。そう言われると僕は途端に不安になって、その手をとった。彼の言うとおりだと思ったからだ。マルクス・マルクの手は手袋越しでも分かるくらいに冷たくて、まるで月光を集めて固めてしまったかのようだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます