三章 あなたの役に立つということ 17
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遠ざかる足音とともにイレブンは駆け出した。アマルガムは大きく伸び上がるが、構わず懐に飛び込んで跳躍する。ブレードに変換した脚で蹴り上げて胴体を切り裂いた。ぶちぶちと音を立てて眼球は断たれ、傷口から上の部分が後ろに倒れていくが、それだけだ。泥沼の水面を撫でただけのようで、妙に手応えがない。
(実体はある、が──殺すに至らない)
着地と同時に後退する。一瞬前までイレブンがいた場所にアマルガムの肉体が叩きつけられた。切り裂いたはずの場所はごぼごぼと泡立ち、隙間が埋められていく。
追撃を試みたイレブンは、自分の脚を見て動きを止めた。
床に擦れたブレードは、たった一度の接触でぼろぼろになっている。
『──イレブン殿。悪魔の特徴を』
ノイズ混じりに魔導士から通信が入る。イレブンは簡潔に分かったことだけ伝えた。
「体色は黒、表面に大量の目、手足と毛はない。実体はあるが、液体のような体です」
『──続けて。臭いは?』
「においは、感知できません。不明です」
脚をブレードから戻し、イレブンは慎重に相手を観察した。アマルガムが顔を上げた頃には擬態も完了し、肉体の損傷は消えている。
(……傷は癒えたが目の数は減った。再生ではなく、液体だから断ち切れなかったのか)
アマルガムの二つの目がイレブンを見据え、他は坑道とトロッコ越しの階下を忙しなく見ていた。
人の逃げ去った方向を、執拗に。
悪魔は魂を集めるものだ。イレブンがアマルガムのコアを感知できるように、悪魔も魂の位置を把握するのだとしたら。
(……それでも、少し離れた魂よりも目の前の障害物の排除を優先する、はず)
そう見込んで、イレブンは再度床を蹴って肉薄した。仰け反った上半身が横殴りに迫る。イレブンは素早く床を滑り、開いたままのハッチからトロッコのふちに降り立った。頭のすぐ上を風が抜けていく。
低い姿勢のまま、刃に変えた腕を全力で突き出した。細く伸ばした刃がコアを掠めるが、胴から穿ち抜くには足りない。それどころか腕の存在が曖昧になる。
理解を超えた現象に思考する間もなくイレブンはトロッコの下へ飛び退いた。溢れ返った闇が床もトロッコも蝕んでいく。
イレブンは刃に変えた腕を見下ろした。
刃はぼろぼろだ。だが金属が溶けたのではない。刃と腕と服を形成する物質そのものが、細かな黒い液体によってねじれて消えている。腕はすっかり穴だらけだ。
「……追加です。肉体に触れると、こちらが損傷を受けます。酸などではなく、細かな粒が物質をねじ切っている」
『──特徴的ですね。物質に直接影響を与える肉体、肉体そのものが魔術というタイプ』
『──となると古きもの、神秘を操る悪魔かと。特定へ大きく前進です』
拳を握って腕を再生する。コアを穿つにはイレブンの体積が足りない。次の手を考えたのも束の間、アマルガムの表面に浮かんだ目が一斉に見開かれた。
闇色の肉がぶるぶると震えた次の瞬間、全ての眼球から光が放たれる。
凄まじい数の熱線。
煩わしそうにアマルガムが身をよじるのに合わせて熱線は辺りを薙ぎ払う。
(ひどい挙動。子供の癇癪に近いか)
イレブンはとっさに跳躍して身をひねったが、光線の隙間に滑り込んだのは胸部ぐらいなものだった。頭が体より先に落ちていく。手足があらぬ方向に撥ね飛ばされ、胴体も二つに分かれてしまった。
でたらめに放たれた光線は床も壁もめちゃくちゃに切り裂いた。コンクリートも石灰石も関係なく細切れだ。
『──イレブン殿、今の揺れは!』
「目から光線を出す、も特徴に追加してください」
無線のインカムにそれだけ告げて、イレブンの頭部は瓦礫に挟まれて潰れた。
■
テオたちは急いでトンネルを走っていたが、助祭が何かに足を取られて転んだ。彼はうずくまり、古いレールにしがみついて喚く。
「もうだめだ、みんな殺されるんだ……おしまいだ……」
「勝手に諦めるのやめてよ!! こんなところで一蓮托生なんて嫌だ!!」
ギフェルが助祭の腕を引っ張りながら叫んだ。賢者の石を持たず魔術も封じられた彼女は、なんの力もない一般人だ。特に鍛えてもいない細腕で助祭を動かすことは困難だった。
テオも助祭の腕を引っ張るが、彼はレールに踏ん張って離れない。テオは舌打ちし、助祭を蹴り飛ばして仰向けにさせた。その耳元の地面を短機関銃で撃ち抜く。ギフェルは飛び上がって離れようとしたし助祭も恐怖に縮こまっている。
テオは硝煙を吐く銃を構えたまま助祭を見下ろした。
「何人も処刑し、ガキまで兵士に仕立て上げ、儀式のために信者すら殺して、諦めて死に逃げることが許されると思ってんのか? 泣いてる暇があったらさっさと走れよ! 信者が泣こうが喚こうが構わず死に追いやってきたお前にできる唯一のことだろうが!」
「ひっ、ひぃっ……」
「それとも死に損ないたいか? 銃で撃たれて死に損なうのも瓦礫に押し潰されて死に損なうのも、きっと死なせてくれと泣き喚くほど痛いぞ。いいのか?」
助祭の顔が青ざめる。テオが銃口を動かして促すと、彼は手助けもなく立ち上がり、走り出した。ギフェルもテオと並んで先を急いだ。
「因果応報っていうのかなこれも」
ギフェルがそんなことを呟いた時だった。
背後から光線が走る。
(え────)
何の光か考える間もなかった。
光は壁も床も天井も駆けていき、テオとギフェルの間を抜けて助祭の腕を突き抜ける。
瞬間、助祭の手首から手錠が落ちて血が噴き出した。助祭が絶叫する。落下した左手が地面の亀裂に飲まれていった。あの光線が走った場所から何もかもが崩れ始めたのだ。
血相を変えたギフェルが一人で走っていく。テオも助祭の腕を引っ張り、急いで駆け出した。
背後から轟音が迫る。崩壊の衝撃で足元が揺れる中、息を切らせて走った。
外の光が近付いている。もうすぐ出口だ。
だがその手前でギフェルが亀裂に足を取られて転倒した。壁と床の亀裂はどんどん大きくなる。トンネルは今にも崩れそうだった。
テオは助祭の背中を押して先に走らせ、ギフェルの腕を引いて助け起こした。彼女は愕然とする。
「なんで……っ」
「いいから!」
二人して転がるように走り出すが、亀裂はついにテオたちも飲み込もうとしていた。
出口まであと少しだというのに間に合わない。
頭上も足元も崩れ始める。瓦礫が迫る。ギフェルの顔が絶望に陰るのが見えた。
テオは、少しも迷うことなくギフェルを思い切り突き飛ばした。
ギフェルの驚く顔。頭部への衝撃、激痛。足を取られる感覚。
それら全てが真っ暗闇に落ちていく。
■
から、と小石が転がる。瓦礫の山と化した鉱山内部は、悪魔を中心にやけに広々としていた。天井も一部は穴が開いている。
邪魔者はいなくなったと、悪魔は歓喜の声を上げた。聞く者の神経を逆撫でするほどおぞましい声がこだまする。
トロッコからこぼれ出た悪魔は、魂のある方へぞろりと這いずった。
だが。
その肉体を、突如飛来する瓦礫が押し潰す。
「────確かに私は悪魔との対決を想定した造りではありませんが」
イレブンの冷たい声が響いた。
瓦礫の隙間からどろりと起き上がった悪魔は、無数の目をまたたかせて声の主を探している様子だった。
その頭めがけてさらに瓦礫を投げ飛ばし、細い両腕が黒い帯に引っ張られていく。
断ち切られた首と腕と脚と胴を帯で引き寄せ、繋ぎ合わせ、イレブンは悪魔の前に立ち塞がった。
ジャケットもスカートもタイツも裂けてぼろぼろだ。修復する余裕がない。
それでもイレブンは、平然と悪魔に向き直る。
「この程度で破壊できたと判断されますと、『遺憾』です」
イレブンが言うと、悪魔は初めて全ての目をイレブンに向けた。
悪魔は瓦礫に潰された程度では大したダメージになっていないが、確実に目は減っている。この調子で注意を引こうと、イレブンは素早く次の瓦礫を投げつけた。復元したインカムから雑音混じりの通信が入る。
『──イレブン殿! ご無事ですか!』
「失礼、一時的に通信不能になっていました。戦闘継続中です」
瓦礫から顔を上げたところを再び瓦礫で潰す。さらに壁が崩れ、坂になったためか上階にあったはずのタラスカイト鉱石が転がり落ちてきた。祭壇は粉砕されている。
悪魔は何度瓦礫をぶつけられても、煩わしそうにぬるりと顔を上げるだけだった。ちょうどいい位置にあったという理由だけでイレブンはタラスカイト鉱石を両手で持ち上げ、これも思い切り投げつける。
『──時間は稼げそうですか』
「はい、問題なく────」
タラスカイト鉱石は悪魔に衝突して粉々に砕けた。悪魔の目の色が変わり、全身にびりびりと振動が伝わるほどの叫び声を上げる。
『──今のは?』
「タラスカイト鉱石をぶつけました。『怒り』を見せている様子です」
イレブンは次の瓦礫を拾いながら通信に応じた。次の光線でこの鉱山はいよいよ完全に崩れ去るだろう。
『──他に何かぶつけましたか?』
「瓦礫を投げつけましたが、そちらは問題視していない様子でした」
『──なるほど、重要な特徴です。封印処理に移りますが、鉱山の外に誘導できますか?』
「試みます」
悪魔に瓦礫を投げつけ、イレブンはすぐさま鳥に転じた。またぬるりと瓦礫から這い出た悪魔が全ての目を見開く。それを横目に、天井の隙間から空へ飛び出した。
光線の束が左の翼を掠める。
たったそれだけで左腕が弾け飛ぶような感覚がした。
すぐさま擬態を解除して山頂に降り立つが、その足元が崩壊する。悪魔が大きく伸び上がって天井を突き抜けたのだ。
異様な姿をさらし、悪魔は全身の目をあちこちに向けた。こんな場所にこだわらなくても魂はある場所にはあるのだと察知したか、再び歓喜の声を上げる。
その時、魔導士の詠唱が聞こえた。
『──不動の城、薄羽の塔、灼熱の檻、清浄の砦。此れなるは静謐の門、終の匣を鎖す。閉ざされよ、閉ざされよ、その名は〈縺溘i縺吶¥縺ョ縺ゥ縺〉』
悪魔の四方を魔法陣が囲んだ。魔法陣から伸びた鎖が悪魔を縛り上げ、凄まじい絶叫が天を衝く。まばゆい光が辺りを染めた次の瞬間、その場にはただ、黒い箱が静かに浮かんでいるだけだった。
イレブンは今にも崩れそうな斜面を登り、浮かんだ箱を手に取った。確かにコアの反応がある。控えていたハウンドに箱を預け、外れそうになっていたインカムを押さえた。
「対象の封印を確認。アマルガムのコア、回収しました。任務完了です」
通信の向こうで特殊部隊の歓声が湧く。魔導士たちも互いを労っているようだ。
ただ、探している声が聞こえない。
「テオ・スターリング捜査官は無事ですか」
『──ま、まだ合流していません、未確認です』
『──二班で確認に行きます!』
「いえ、私が向かいます。一班は信者を引き続き保護し、二班は救急車の手配を急いで」
通信はにわかに騒がしくなった。イレブンは再び鳥に転じ、山頂から直接トンネルまで向かう。頭の中で最悪の事態を想定しては否定するものだから、能力不足でぎこちない飛び方になった。
鉄道橋に面したトンネルは、すっかり瓦礫で塞がっていた。助祭は断面をさらす手首を握りしめて座り込んでいる。
ギフェルは必死になって瓦礫から何か引っ張り出そうともがいていた。
その足元には、赤い髪。
擬態を解除して降り立ったイレブンは、極端に情報処理能力が鈍るのを感知した。
「テオ」
気付けば、制御を超えて声が出ていた。ギフェルが弾かれたように振り向き、ぐしゃりと顔を歪める。
「天使ちゃん! どうしよう、捜査官ちゃんが……っ!」
イレブンはすぐに駆け寄り、テオの傍らに膝を突いた。テオの腰から下が瓦礫に埋まっている。頭には彼自身のネクタイがきつく巻き付けられ、血で染まっていた。
瓦礫はそれぞれが大きく、やけに断面が綺麗だった。悪魔の光線で断ち切られたのだ。まさかトンネルまで届くとは予想もしていない。
イレブンは瓦礫の隙間に手を入れ、薄い帯にして奥を探った。先端に視覚を移して確認すると、腰は幸い無事だ。だがその先を確認したイレブンは、思わずテオの服を握りしめた。
(……出血が多い。特に左脚……打撲と開放骨折が複数、膝窩動脈に損傷……瓦礫やレールは接触のみ、枕木は一部貫通)
視覚を戻し、イレブンは手探りでテオの両脚を帯で覆った。その帯に接触する瓦礫と土を捕食して帯に取り込み、一気にテオを引っ張り出す。
瓦礫による圧力が消えたためか、テオの両脚から大量に出血した。イレブンはすぐに自分のネクタイとハンカチで止血し、ふと顔を上げる。
ギフェルはその場に座り込み、真っ青な顔でテオを見つめていた。その表情に『喜び』はない。おおよそ、後悔に苛まれている人間のする表情だった。
「不幸を目の前にして、喜ばないのですか」
「だって、アタシが狙って起こした不幸じゃないからさ……」
ギフェルはそう呻いて、恐る恐る尋ねた。
「ねえ、なんで捜査官ちゃんはアタシを庇ったの? ただ逃げるだけなら、捜査官ちゃんは助かったのに……逃げるの諦めた助祭も説得して、転んだアタシも助けてさ……」
「彼は、目の前の人を助ける時に、相手の過去や正体を問わない。自分が動いて助けられるのであれば助ける。……そういう性分なのだそうです」
イレブンはそう伝えて、血ですっかり変色したスーツの脚に触れた。傷口から自分の細胞を分け与え、彼の肉体に擬態させて失血を防ぐ。これで彼の命は繋げられた。だが、そこまでだ。イレブンは彼の脚になってやれない。傷をなかったことにできない。
戦場ですら失わせなかった肉体をこんな場所で失わせてしまった事実が、イレブンの思考を占めていく。
過去のことで「もしも」を考える必要はない。考えても行動に反映できなければ意味がないのだから。それでもイレブンは、もし腕一本分の質量でもテオに預けていたらここまで怪我をしなかったのではないか、と考えていた。
(……これでは、役に立ったと、言ってもらえない……)
イレブンはそこで初めてテオの顔を見た。荒く浅い呼吸を繰り返し、痛みに顔を歪め、目を閉じて動かない。けれど、生きている。初めて出会った時と同じように。
視界の端で、ギフェルの肩が震えた。イレブンと目が合ったギフェルは、泣き顔で不格好に笑い、背中を丸めて両手で顔を覆う。彼女は震える息を吐き出して言った。
「……もっと早く君たちと出会ってたら、アタシは武器商人なんてやってなかったかな」
「いえ、別の手段で不幸を与えていたものと推測します」
「あはは、だよね! 君たちが格別なイレギュラーってことだ!」
ギフェルはそう言って顔を上げた。顔は笑っているのに、目元は濡れていた。
「……でも、捜査官ちゃんに死んでほしくないって、確かに思ったんだよ。このアタシが」
そこへ、特殊部隊が駆けつけた。救急キットを手に走ってきた彼らはすぐにテオと助祭の応急手当に移り、残った隊員がギフェルを両脇から掴んで立たせる。それでも彼女はへらへらと笑ってイレブンに言った。
「君たちに会えてよかった! この借りは返すって、捜査官ちゃんに伝えておいて!」
「承りました」
イレブンは短く応じて、テオに視線を戻した。記憶にある手付きをマネて、テオの頭を撫でてみる。赤い髪は血で染まり、ところどころ硬くなっていた。
救急車が到着するまで、イレブンは彼の頭を撫で続けた。
■
爆発音、鈍い振動、視界を遮る土煙。数秒前まで言葉を交わしていた仲間が吹っ飛ばされ、ただの肉塊と化してしまう。神経が痺れて思考は鈍って、テオは逃げようと必死に走るのに、足は泥に浸かっているように動かない。テオは遂に瓦礫に埋もれ、爪先へ迫る炎の気配に怯えていた。そこへ。
「大丈夫ですか」
白い手が差し伸べられる。中性的な、涼しい声。武装とヘルメットで性別の分からない、小柄な兵士だった。兵士はテオを瓦礫から引っ張り出して、手を掴んで走り出した。さっきまで泥沼を掻き分けるような動きだったのに、テオの足は嘘みたいに軽い。
「なあ、どこまで行くんだ?」
煙が晴れる。爆撃音も火の弾ける音も既に遠く、迫撃砲の振動もない。乾いた大地ではなくどこか見知らぬ街の中を、テオは走っていた。
「あなたが望むなら、どこへでも」
いつの間にか、テオは軍服ではなくスーツを着ていた。手を引く兵士もまた戦闘用の装備から濃紺に赤いラインの印象的なスカートへ変わっていた。ホワイトブロンドの長い髪が揺れる。
振り返った彼女は──イレブンは、灰色の瞳でこちらを見上げた。湖面のようにきらめく瞳に、テオの姿が映っている。
そこで、夢から覚めた。見覚えのない白い天井に、カーテンの隙間から差し込む光が線を作っている。
テオは何度かまばたきして、顔を横に向けた。そうしてやっと部屋の様子が視界に入る。清潔な白いベッドと、電子音を立てる心電図のモニター、そして。
イレブン。
最初に会った時と同じワンピースタイプの陸軍制服を着て、彼女は出入口で立ち尽くしていた。灰色の瞳がこぼれ落ちそうなほど、目を見開いて。
「……イレブン……」
絞り出した声は、ずいぶん掠れていた。起き上がろうとベッドに手を突くが、かくんと肘が折れてしまう。すぐにイレブンが駆けつけ、背中を支えて体を起こしてくれた。ナースコールを押そうとする彼女の手を止めて尋ねる。
「……どう、なったんだ? みんなは?」
「悪魔は封印し、容疑者は逮捕しました。負傷者はあなたと助祭ぐらいです」
イレブンは端的に答えると、ベッドに腰かけた。夢にまで見た灰色の瞳がテオを捉えた途端、砕けたガラスのように見えた。
「……意識が戻ってよかった。あれから一週間経ったのですよ」
イレブンの表情こそいつもと変わらなかったが、あまりにも小さな声で言うものだから、責める言葉一つないというのに胸が痛んだ。
「ごめん、イレブン」
気付けばそう言っていた。イレブンはごくわずかに眉根を寄せて視線を落とす。彼女はそっと、テオの左膝に触れた。シーツと重なっていてもなお白い手だった。
テオに、膝から先の感覚はない。
「……あなたが謝ることではありません。あなたの性分を知っていて防げなかった私の落ち度です。私はあなたの猟犬なのに、守る手段があったはずなのに、あなたを欠いてしまった」
「イレブン、そんな──」
「本当に、ごめんなさい」
テオは息を飲んだ。
イレブンは俯いたまま、淡々と報告した。テオの左脚は、皮膚から突き出た骨と裂けた血管から感染症を引き起こしたために、左膝を切断することになった。病院に搬送された時にはもう手遅れで、選択肢はなかったのだと、彼女は言う。
いつもはテオが怯むほどまっすぐに見つめてくるイレブンが、俯いたまま顔を上げない。打ちひしがれた様子が濡れそぼった犬のように見えてテオは焦った。
「瓦礫から助けてくれて、色んな手続きまでやってくれたんだろ? ありがたいよ。お前こそ謝ることなんかない」
「でも、腕一つでもあなたに預けていたら、こんなことにはならなかった」
「……おいで、イレブン」
テオは、切断した膝を惜しむように触れるイレブンの手を掴んで引き寄せた。小柄な体躯は簡単に腕の中に収まる。恐る恐る背中に回された手が、ぎゅっとテオの服を握りしめた。
「俺はお前のおかげで、こうして生きてる。な? お前が気に病むことなんてないだろ。俺の無茶まで責任取るのはお前でも無理だって、俺は衝動的過ぎる」
「……あなたが、そういう人だから……私が、あなたの分まで、あなたを守りたかった」
なるべく明るく聞こえるようにテオは言ったが、イレブンはテオの肩に顔を埋めた。
「……私は、ちゃんと、あなたの役に立ちたかった……」
彼女の平坦な声が、小さく震えている。それがあまりにも悲しくて、胸が引き裂かれそうだった。後悔で押し潰されたように感じる喉から、なんとか声を絞り出す。
「……お前は『悪魔に集中しろ』って指示を忠実に守っただけだ。どんな悪魔かも分からない中で、きっちり役目を果たしてくれただろ。俺の怪我は俺の、使用者の責任であって……だからそんな風に言うなよ、頼むから」
テオは必死で薄い背中を掻き抱いた。伝われ、伝わってくれ、その一心だった。
「……あのトンネルから、お前が生きて連れ出してくれた。あの戦場からだってそうだった。お前はいつも俺を地獄から連れ出してくれる。心底、感謝してるんだ。お前がいなきゃ、俺はこの半年で何回死んだことか。お前ほど役に立つ奴が他にいるかよ。なあ、イレブン」
テオが緩く抱擁を解くと、イレブンが顔を上げた。その瞳をまっすぐ覗き込む。
「俺はこんなだし、お前の歴代の主人に比べたらずいぶん劣るとは思うが……それでもまだ、俺の相棒でいてくれるか?」
「……当たり前です。それがあなたの望みなら」
イレブンが小さく微笑む。テオはたまらなくなって、もう一度彼女を両手で掻き抱いた。
冷えた窓辺からは、冬の足音がしている。
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