三章 あなたの役に立つということ 14
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担当医と看護師と叔父が話し合った結果で決まったこととはいえ、エマは若干後悔していた。渋い表情で差し出された飲み薬を飲んで以来、舌から喉までずっと吐き気を催すまずさが張り付いて離れない。のたうち回りたくてエマの全身は震えた。
「吐きそう……」
「……あなた、これ本当に大丈夫なの?」
「可哀想だが、有効な薬ほどまずくってね……」
叔母と叔父が心配そうな顔で話している隣で、エマは舌を掻きむしりたくなる衝動と戦いながら立ち上がった。とんでもない薬だったが、確かに動くことはできそうだ。
急速治療は術後一日の休息を必要とする。エマの場合は二つの銃創、魔力消耗による内臓や筋肉の出血が酷かったため、発熱と全身の痛みでまともに動くことができなかった。それを注射と飲み薬で無理矢理軽減した形だ。
看護師が背中を撫でてなだめ、担当医が厳しい表情で言った。
「捜査官。この薬は症状を治すのではなく、体を騙して症状が軽減した気になるものに過ぎません。くれぐれも魔術の使用は控えてくださいね」
「症状がつらい時はすぐに病院にお越しください。お大事に」
「わかりました、ありがとうございます」
エマがなんとか返事をすると、医者と看護師は心配そうにしながらも静かに病室を出ていった。トビアスが魔法小銃とチョコレートを差し出す。
「口直しになればいいんだけど」
「ありがとう……良薬は口に苦しって言っても限度があるわ」
「どんな味だった?」
「……イメージとしては雑巾の煮汁とドブ……」
「よく飲み込んだね、尊敬するよ」
エマはチョコレートを口に放り込み、魔法小銃の具合を確かめた。「動きやすければなんでもいいわ」と伝えてトビアスに買ってきてもらった服の袖を折り、防弾ベストを着けて捜査局のジャケットに袖を通す。エマの装備は、あまりにも最低限だ。
トビアスに手伝ってもらいながら準備していると、叔母が言った。
「……あなたって子は、昔から言い出したら聞かないわね」
エマは思わず顔を上げた。叔母は眉を下げ、両手をきつく握り合わせていた。家を出てアカデミーに通うと言った時も、捜査官になると報告した時も、叔母は同じ顔をしていた。エマが言葉に迷っていると、叔父が微笑んで叔母の肩を抱く。
「だから、誇らしいんだ。……気を付けるんだよ」
「ええ。無理はしない、約束する。二人も気を付けてね」
エマは二人を両手で抱きしめた。叔父と叔母の手が優しく背中を叩く。
グラナテマがどういう手段を取るか分からないため、二人はこのまま捜査局のセーフハウスに避難することになっている。だからここでお別れだ。セーフハウスにいれば安全と言い切れるものではないが、家に帰ったところを襲われるよりマシだろう。
エマは震える息を吸い込んで、両手に力をこめた。
「……叔母さんも叔父さんもありがとう、大好きよ」
「私たちもよ」
「応援してるからね」
二人と笑顔で別れ、エマとトビアスは先に病室を出た。タイミングをずらして病院を出る予定だ。
エレベーターに向かう途中で、トビアスが言った。
「捜査に復帰する前に、君に謝らなくちゃいけないことがある」
「えっ怖い、何かしら」
「君の許可なく君の過去のことを知ってしまった、ごめんよ」
急に何を言い出すのかと身構えたエマは、それでも目を見張った。それを見てトビアスは申し訳なさそうに眉を下げて微笑む。
「中将がグラナテマ出身者のリストを完成させてね。それで報告書を読んだんだ」
「……捜査のためでしょう? 仕方ないわ」
「君のこと、全然知らなかったんだなと思ってさ……君ってすごいな」
「もう、やめてよ。……すごいのは、今の私より若い頃に八歳の子を引き取って育て上げた叔母さんだと思うわ。おかげで、あなたに気付かれないぐらい健やかに成長したわけだし」
「違いないね」
二人で笑い合っていると、エレベーターの前で待っていた捜査官が片手を挙げる。彼は頭に包帯を巻いているが、堪えていない様子だ。
「特殊部隊は配置についたぜ。準備はいいか?」
「そこまで?! やりすぎなんじゃ……」
エマはぎょっとしたが、トビアスも捜査官も当たり前のような顔をしていた。
「君ね、二回も襲撃されて一回死にかけてるんだよ?」
「捜査局の駐車場で銃を乱射した奴らもいるんだ。もう何やってもおかしくねえ。いくら警戒しても足りねえぐらいだ」
「す、すみません……」
エレベーターに乗り込むと、捜査官が地下を選択した。ゆっくりと下降する動きに吐き気が強まるのを感じて胸元をさする。
「捜査は今どうなってるの?」
「ほとんど解決してるよ。あとは君の安全を守るだけだ」
「……ほとんど?」
引っかかるものを感じてエマが尋ねると、トビアスは眉根を寄せた。
「他の事件だけなら、犯人は捕まって解決したも同然なんだ。でも、君の事件が解決していない。奴らは司祭の呪いを解くために君の心臓を必要としているらしい。本当かどうかは定かじゃないけどね。……彼らのことだ、諦めずどこまでも追ってくると思う」
「……そうね。諦めの悪さを目の当たりにしてるわ」
「つまり、彼らの企みを阻止しないと君は一生追われ続けるってことだ。でも、相手がどれぐらいの規模の集団か、どうしたら企みを阻止できるのか、さっぱり分かっていない」
トビアスは溜息混じりに言う。黙って聞いていた捜査官が口を挟んだ。
「本拠地を偵察するしかねえだろうなぁ」
「やっぱりそう思います? 僕としてはできれば信者を一人か二人捕まえて情報吐かせる方向で行きたいんですけど……」
「怪我した奴を始末して逃げるような連中だろ? そう上手くいくかね」
頭上で飛び交う会話に、エマは顔をしかめた。
「……蚊帳の外だなんて悔しすぎるわ。この借りは絶対に返すから」
「はは、頼もしいね。でも無理は禁物だよ」
振動して、エレベーターが到着する。扉が開くとすぐに特殊部隊に迎えられ、エマは思わず怯んでしまった。盾と銃を持った彼らはエマたちに敬礼する。
「復帰を歓迎します、カナリー捜査官」
「……ありがとう、本当に。危ない目には遭っていない?」
「はい。駐車場内の安全は確保しました。こちらへ」
隊員の一人がエマたちを車へ案内した。見慣れない車だ。トビアスは慣れた様子で運転席に乗り込み、エマと捜査官は後部座席に座ることになる。
「いつもの車はどうしたの?」
「最愛のシルヴィアは向こうに顔が割れてるだろうと思ってお休み」
「裏口から出るなら何に乗っても同じだろうにな」
捜査官はそう言って笑った。エマは改めて彼に向き直る。
「警備に来てくれてありがとうございました。私のせいで、本当にすみません……」
「いいってことよ。テオの奴から頼み事されるなんて珍しいからな。刑事部のホープに恩を売るチャンスだ」
気のいい捜査官の笑顔に慰められていると、トビアスからインカムを渡された。彼も耳に着けている。見ると、他の車両にも特殊部隊が乗り込み、エマたちに同行するようだった。
「このまま捜査局に戻るの?」
「そのつもり。でも何が起こるか分からないからね……エマもこれ持ってて」
トビアスはグローブボックスから拳銃を取り出し、後ろ手にエマに渡した。それを受け取ると、にわかに緊張感が増す。
インカムを着けて無線機の電源を入れると、雑音混じりに通信が入り始めた。これから一班が出発し、続けてエマたち、最後に二班が出る予定だ。残りは周囲を警戒し、エマの叔母たちをセーフハウスへ移動させる。
裏口から順に車で出ていく。さすがに出てすぐのところで襲われることはなさそうで、エマはひとまず安心した。車は流れるように表通りへ進む。
「……警戒しすぎだったかしら」
「まあ何もなけりゃそれが一番だが……」
後部座席でそんな会話をしていた時だった。
もうすぐ交差点というところで、先行する車に信号無視の車が突っ込んだ。トビアスが慌ててブレーキを踏み、車は横向きになりながらなんとか停まる。後続からもブレーキ音や衝突音、クラクションが鳴り響く中、特殊部隊の乗っていた車にさらに二台の車が突っ込もうとしていた。計三台の車が行く手を完全に塞ぐ。
盗難防止機能がアラート音を響かせ、罵声と怒号が飛んでくる中、場違いな鐘を打ち鳴らす音が聞こえていた。カンカンカン、と鋭い音が響く。
緊急停車した衝撃からなんとか立ち直った次の瞬間、車から黒装束の者たちが降りてきた。
それを見たエマは呼吸を忘れる。
同じだ。
家にまで来たあの襲撃者と。
陽光に鈍く反射するものを見てエマは叫んだ。
「──トビアス、伏せて!!」
凄まじい銃撃。けたたましい音を立ててガラスが砕け散る。頭を庇う両手にガラスが降り注いだ。捜査官から腕を引っ張られ、後部座席から引きずり出される。後続にいた特殊部隊が周囲の車から乗客たちを避難させる傍ら、前方では特殊部隊と武装組織の銃撃戦が始まった。
拳銃を握り直す手が細かく切れてちりちりと痛む。車体の陰から隙を窺っては撃ち返すが、膠着状態に陥っていた。
くら、と視界が揺れる。
担当医の言う通り、全快したわけではない。薬でごまかしているだけだ。戦闘に体がついていかない。
(どうしよう……)
いっそここで自分の心臓を潰してしまうか、そこまでエマが考えた瞬間、物凄い力で腕を引っ張られた。捜査官だ。エマは肩が外れそうになって呻くが捜査官は構わず動き出す。
「ま、待ってください、捜査官!」
「エマ?! どこへ────」
トビアスの焦った声が爆発音に遮られる。衝撃で体が浮いたと同時に捜査官の腕に抱え込まれる。ガラスの吹っ飛ぶ音、金属フレームのひしゃげる音が耳鳴りの向こうへ遠ざかる。
やけにうるさい呼吸がするかと思ったら自分だった。
エマは目を見開き、なんとか起き上がった。自分に覆いかぶさっていた相手がずるりと滑り落ちていく。
捜査官は、背中を血で真っ赤に染めて倒れていた。
目の前が燃えている。
爆発に巻き込まれ、何台か車が吹き飛ばされたようだった。特殊部隊が盾を構えて武装組織を追い詰めている姿は見えるが、エマたちは彼らと炎の壁で遮られてしまった。トビアスの姿は見えず、乗ってきた車はすっかり横転している。
エマは急いで捜査官の首に触れた。だが、脈がない。自然と呼吸が浅くなり、エマは恐る恐る彼の口元に耳を寄せた。
呼吸をしていない。
「っそ、んな、そんな、ごめんなさい、私が……っ!!」
引きつった息が煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。エマはホルダーに差したままだった魔法小銃を引き抜き、迫り寄る炎に銃口を向けた。だが引き金を押し込むより先に腕の筋肉が引きつり、激痛で銃を取り落としてしまう。
魔力が回復していないのだ。
エマは泣きたくなるほどの無力感に苛まれて奥歯を噛み締めた。
「ちくしょう、この役立たず、半端もの、能なし魔導士っ!!」
悔しい、悔しい、悔しい!!
腹の中で内臓が煮えて揉まれているようだ。散々人を巻き込んで、守ってもらった挙句にこの様だなんて。荒波のように押し寄せる自分への罵倒を飲み込んでエマは捜査官の下から這い出た。拳銃を握り、姿勢を低くしたまま立ち上がる。
だが車の陰から様子を窺う間もなく腕を掴まれた。
そんなはずがない。
頭から血の気が引いていく。
明滅する視界で振り向いたエマは、そのまま凍り付いた。
頭と口から血を流した捜査官が、エマの腕を掴んで体を起こしていた。
彼の瞳は本来の色ではなく、燃えるように赤く輝く。
傷口から頭がばっくりと割れて、生白い肉を覗かせていた。
脳裏でホワイトブロンドの髪が揺れる。思い出すのは彼女の怜悧な声だ。
トム・ハーディーに擬態したアマルガムを追い詰めた時のこと。
脈を確認したテオが「死んだのか」と尋ねると、イレブンは短く答えた。
────アマルガムは元々、脈も呼吸もありません。
(これは人間じゃない──)
気付いた瞬間、銃弾を撃ち込んでいた。銃創からは血ではなく白い肉が溢れてくる。穴の開いた水風船みたいに、肉が溢れて人間の皮が萎んでいった。
ぶわりと、エマの頭上まで伸び上がった肉体が覆いかぶさってくる。
エマはすぐさま駆け出したが、喉に生温かい肉が巻き付き、そして。
■
通行人が通報してくれたのか、緊急車両のサイレンが近付いてくる。
トビアスは犯人の死亡を確認して、深く溜息をついた。辺りは焦げ臭く、ガソリンの臭いが残っている。
グラナテマ国教の連中は車をぶつけて足止めした上で銃撃戦に持ち込み、火炎瓶も投げ込んで車を爆破してきたのだ。特殊部隊は必死で応戦し、こちらは負傷者が出たものの死者はゼロ。対して、相手は死者多数、生き残った者たちは仕込んだ毒で自害していった。
「……反吐が出るな……」
この場にテオがいなくてよかったと、トビアスはぼんやり思う。人の焼ける臭いには慣れそうにない。
捜査官がエマを逃がしてくれたが、爆発に巻き込まれてはいないだろうか。トビアスはふらつく足で歩き出し、視線を巡らせた。
「エマ、どこだ? エマー?」
車の間を歩き、エマの姿を探す。だが見えない。
「……エマ? おいエマ、どこにいるんだ」
呼吸が浅くなる。嫌な汗がにじみ出て、全身が震えていた。
「エマ、返事してくれ! どこだ、エマ!!」
辺りを探し回るが、エマも捜査官も見当たらない。
(まさか────)
血の気が引いて、トビアスは立ち尽くした。
階段で気絶していた捜査官。彼が、アマルガムの擬態だとしたら。
「くそ……っ! くそ! くそ! エマ、ごめんよ……っ」
トビアスは悪態をつきながら携帯端末を取り出し、テオに電話をかけた。ぐしゃりと前髪を握る。心臓が潰れそうだった。
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