三章 あなたの役に立つということ 9
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留置場で二度目の朝を迎え、トビアスは壁のシミを見つめていた。
ろくに眠れていない頭に、何度も同じ記憶が繰り返し浮かぶ。バーの扉を押し開け、ドアベルが鳴り、背後から襲われて床に倒れていく。あの痛みと寒気を思い出せるのに、それ以外の記憶は酷く曖昧だ。
自分の記憶を何度探っても、有力な情報は見つからなかった。誰かがトビアスの隣にしゃがみ込んで何か言っていたはずなのに思い出せない。
頭を抱えたトビアスは、突如響いたブザー音に飛び上がった。
檻が開かれ、留置担当官がひょこりと顔を出す。
「面会希望者が来ています。こちらへ」
「……こんな朝から?」
「はい。急ぎだそうですよ」
トビアスは顔をしかめたが、留置担当官は穏やかに応じるだけだった。
監査部の連中って暇なのかもしれないな。トビアスは舌の裏側でこっそり悪態をつき、渋々立ち上がった。手錠代わりの足枷が煩わしい。
憂鬱な気分のまま面会室に入ると、時計が目に入った。面会時間が始まってすぐに申し込まれた面会のようだ。こんな早くから監査部の奴らとやり合わなきゃいけないのかと思うと頭が痛い。
だが、椅子に座ってすぐに足枷を外され、留置担当官は退室した。トビアスは「おや」と眉を上げる。昨日までとは状況が違っていそうだ。
そわそわと見つめる先で扉が開き、すぐに赤い髪が目に入った。
思わず立ち上がるトビアスを見てテオは安心したように頬を緩める。トビアスは右手を軽く浮かせた。
「……いい知らせかい?」
「残業確定しててもいいならな」
テオはそう言って裁判官のサインが入った書類を見せた。
逮捕を不当として、身体拘束の解除を命じた書類だ。
「帰るぞ」
「君ってやつは最高だ! いくらでも残業してやるよ!」
トビアスが感極まって片腕だけで抱き着くと、テオは「いてえ」と呻きながらも笑ったようだった。彼はもう片方の手に持っていた紙袋でトビアスの脚を叩く。
「話がたくさんあるんだ。着替えながら頼む」
「了解。わざわざ悪いね」
紙袋の中身はロッカーに入れていた着替えと義手だった。接続部を肩に押し込むと、びりっと少しだけ痺れる。それが取れる頃には、なめらかに指が動くようになっていた。
「……やっと自分を取り戻したって感じだ。ありがとう」
「いや。その代わり、早速捜査に戻ってもらうぞ」
「もちろん。それで話ってのは? 深刻そうだね」
トビアスが促すと、テオは硬い表情で語り始めた。
「まずエマだが、入院中だ。意識が戻り次第、今後の行動方針を相談する」
「え?! エマが、そんな……」
留置場にいる間にまさかそんなことが起こっているとは思わず、トビアスは着替えを取り落としてしまった。テオがそれを拾って手渡してくれる。
「彼女を襲った犯人は地元警察が追跡中だが、まだ見つかっていない。エマの怪我そのものは治っているから、現在は病院で警備レベルを上げるだけにしている」
「そっか……でもなんでまた、エマが襲われなきゃいけないんだ?」
「……彼女の過去と、俺たちが相手にしなきゃならん組織に関係がある」
テオは「どこから話せばいいのか」と渋面を作って説明を続けた。
事件の黒幕は、グラナテマ国教の過激派と、武器商人クロエ・ギフェルだ。ギフェルは逮捕できたものの、彼女の行動には謎が多く、油断はできない。
グラナテマ国教の過激派は、軍と行動をともにする工作部隊の側面を持つ。第二王女暗殺を企てた七名も、この組織に属していると考えられた。
この組織はトップに「偉大なる父」と称する司祭を据えており、構成員は洗礼とともに家族との絆を捨て、父の子として忠誠を誓う。
子として確認できているのは、暗殺未遂で逮捕された七名、エマを襲った犯人、監査部のヴェンデル・ベルクール、そして諜報部の捜査官だ。第二王女の爺やの証言を参考に、上司を「父」と称し、戦勝祈願の儀式を行っている者を子として数えている。
問題は、グラナテマ国教の「子」が証人保護プログラムを受けてアダストラに入り込み、王の城や諜報部でグラナテマに与していることだった。事態を重く見て中将とその部下がグラナテマ出身者のリストを作ったが、出自が明らかになることを恐れたと思われる者たちによって彼らは殺害された。
エマもまたグラナテマ国教の「子」に該当するものの、彼女はグラナテマに拉致された魔導士の娘であり、母を殺した「父」の犯行を証言している。このため、他の「子」からは裏切り者として扱われ、襲撃されたようだ。
「エマにそんな重い事情があるなんて、予想もしなかったよ……」
「ああ、俺も報告書を見て初めて知った。奴らの裏切り者に対する殺意を考えると、エマは依然として危険だ。今は捜査官に警備を頼んでる」
テオは心配そうな顔をしたが、すぐに切り替えた。
「それと、中将殺害事件についてだ。目撃証言と証拠から、あの現場にはお前ら以外に、監査部のヴェンデル・ベルクールと武器商人のクロエ・ギフェルがいたと明らかになった。こちらはほぼ解決した」
「本当に何よりだよ……」
「ベルクールの動機は、グラナテマ出身者リストの公開を阻止するためだろう。ただ、謎なのはギフェルだ」
そう言って、テオは表情を険しくした。
「彼女はわざわざ別大陸からやってきた商人だ。今までの動きから、アマルガム目当てだと見ていい。だが、アマルガムをトム・ハーディーに擬態させて戦勝祈願の儀式をさせる必要はないし、ベルクールの殺人を隠蔽するのに協力する義務もないはずだ。なぜそこまでする?」
「確かに……だって今まで隠れてて、国際警察から何度も逃げてきた戦争請負人だ。それがこうして、現場に出てきた」
トビアスとテオは顔を見合わせた。覚えのある流れだった。
今年の春にデルヴェロー市を襲った武装組織。彼らは新興宗教を母体としており、それを導く教祖は国際手配されていた犯罪コンサルタントだった。彼もまた長い間潜伏していたが、わざわざ現場に姿を現し、自らに賢者の石を埋め込んでアマルガムに似せた姿をさらした。
ギフェルにも、何か目的がある。こうして捕まるリスクを取ってでもやりたかったことが。
テオは眉根を寄せた。
「……ギフェルを今回逮捕したのは、傷害と監禁、恐喝、それと指定危険物所持の罪だ。身柄を拘束している間に、真の狙いを明らかにしたい」
「彼女、今は?」
「取り調べする間もなく弁護士が来て、だんまりだよ。『賢者の石』を持っていた魔導士ってことで、魔導士協会から腕利きが四人も来て全力で奴を監禁してるところだ」
「頼もしいね。今のうちに状況共有してもらえるかい?」
「もちろんだ。行くぞ」
作業着だけを残して、トビアスはテオと一緒に外へ出た。
留置場に入っていたのは一日だけのはずだが、解放感は大きい。助手席の窓を開けると、秋の風が吹き込んできた。深呼吸をして、どこからか漂う花の香りを吸い込む。
「僕は無実って確定したのかい?」
「ああ。元々無理のあるシナリオだったし、目撃者三人の証言でお前の犯行は否定されてる。現場の状況や証拠からしても、お前にできる犯行じゃない」
「そっか、よかった。……気絶するし起きたら酒臭いし、自分の記憶が不安でさ」
「だろうな」
捜査局に向かって車を走らせながら、テオが「そういえば」とこちらを一瞥した。
「ロッキが電気銃を使われたんじゃないかって言ってたが、治療は受けられたのか?」
「えっさすがロッキだな。僕もそう思うんだよ。なのに監査部の連中ときたら、僕の首を見て『治療の必要性はないように見える』だって。信じられる? 監査部を監査してくれる部署ってどこ?」
「さぁな。部長なら知ってるんじゃないか」
適当な返事をしながら、テオは捜査局の駐車場へと車を進めた。カーチェイスさえしていなければ、信頼できるドライバーだ。
そのまま医務室に立ち寄ると、担当医が快く応じてくれた。事件にかかわる証拠としてカメラ片手での治療となる。
案の定、首の後ろには火傷が残っており、こめかみにも注射針の跡があった。ロッキが指摘していた通り、肩の接続部周りもぐるりと火傷が囲んでいる。
ただ、負傷から時間が経っていることもあり、病院に行くほどでもない。担当医から痛み止めをもらい、改めて鑑識のラボに向かった。
ロッキのオフィスでは、イレブンとロッキがホワイトボードと対峙して話しているところだった。トビアスが片手を挙げると、イレブンはまばたきで、ロッキは笑顔で応じる。
「おかえりなさい、トビアス」
「なんだ、案外元気そうじゃねえか」
「ただいま。分かってることを教えてもらってもいい?」
トビアスが言うと、ロッキはホワイトボードを親指で示した。ボードには証拠品袋と分析結果を印刷した紙が貼り出されている。
「まずトム・ハーディーの事件について。ハーディーとアマルガムの記憶をそれぞれ映像化して分析したところ、ハーディーたちが持っていた妖精殺しのアイテムは、クロエ・ギフェルから譲り受けたものだと判明した。アマルガムはハーディーについて『生きていれば護衛、死んだら擬態』と命じられている」
「じゃあ、アマルガムは本当に彼らを助けに行ったけど、妖精には負けたってことかい?」
トビアスが尋ねると、イレブンが応じた。
「アマルガムは、再生能力を上回る速度で肉体を切り刻まれました。コアのみとなった状態でトム・ハーディーと一緒に落下し、トム・ハーディーは死亡、アマルガムは彼の遺体を捕食して擬態しました」
「そこからずっと難民キャンプで過ごしたわけだ……仲間三人を残してハーディーだけ戻ったようなものだよね。周りの人はそれを指摘しなかったのかな」
「記憶映像によると、アマルガム・ハーディーは『仲間はまだ採取している』『弟にクサリヒルガオを渡すために自分だけ先に戻ってきた』と話しています。周囲はそれで納得した様子です」
「……なるほど。上手いね」
トビアスが呻いていると、テオが一つの写真を指で叩いた。無理に拡大されたようで、解像度は低い。だが、男がテントの入り口で何かをポケットに入れている姿が映っている。
「これは、記録映像の一部を拡大した画像だ。ヤドリギオリの展開に関与していると見ていた蝋燭だが、ボランティアの一人が持ち帰っている可能性がある。ボランティアセンターに彼への連絡を頼んでいるところだ」
「そいつはいいね! 企業を調べても何も出てこなかったからなぁ」
「この事件は、現在は連絡待ちってところだ。次に、エマの襲撃についてだな」
テオはそう言ってホワイトボードを示した。
「残念だが、分かっていることは少ない。担当刑事が現在も捜査中だが、犯人は行方不明だ。エマを狙って行動を起こしたところを逮捕するしかないかもしれん」
「分かってるのは犯人がグラナテマ国教の人間で、エマを恨んでるってことぐらいか……」
「ただ、どうして今動いたのかってところは重要かもな。奴らは裏切り者に容赦しない。これまでもエマを狙っていておかしくなかったのに、どうして今、殺そうとしたのか」
いずれにせよ、手がかりはない。テオがトビアスに目をやった。
「中将殺害事件は、監査部のベルクールが犯人と判明して解決。今は部長に頼んで、信頼できる人間に取り調べをしてもらってる」
「監査部の連中、次に会った時が楽しみだよ」
「落ち着いたら謝罪にでも来るだろう」
「ならいいか。……いや待てよ。そしたら僕の射撃残渣は?」
重要なことが頭から抜けていることに気付いてトビアスが声を上げると、テオは顔をしかめた。
「ギフェルが店主に指示して、お前に大量の酒を飲ませたんだ。それで意識を失ったお前の手と銃を使って、ギフェルが店主の妻を撃った。その時のものだ。奥さんは全部あの二人のせいだと言って、お前の責任を問うことはなかった」
「……そっか。いやでも、終わったらお見舞いに行くよ」
トビアスが言うと、ロッキが「そうしてやりな」と優しく肩を叩いた。
残るは、クロエ・ギフェルの目的だ。
ロッキが証拠品袋を示して言った。
「ギフェルが事件当時、現場にいたことは証拠の分析で判明した。トビアスの服に付いていた繊維は奴のフェザーショールだったし、血を踏んだ足跡とヒールブーツの靴底は一致してる。それに、トビアスの服と奴のフェザーショールとブーツから同じ成分のアルコールも検出された。フェザーショールに付いた髪の毛等の遺伝子情報は本人のもののみで、貸し借りの痕跡もない。あの女は殺しに関与し、店主の妻を連れ去って監禁した。それは事実だ」
「問題は、普段は別の大陸で隠れてる女が、どうしてそこまでやったのかだ」
テオはそう言って、ホワイトボードをひっくり返した。ギフェルの行動を一つずつ書き並べていく。
アマルガムをトム・ハーディーに擬態させたこと。その彼に儀式をさせたこと。
中将殺害の現場に乗り込み、トビアスを犯人に仕立てて人質を監禁したこと。
監禁場所にアマルガムを待機させたこと。突入したイレブンを遠くから観察したこと。
ペンの蓋を閉め、テオはそのペンでホワイトボードを軽く叩いた。
「アマルガムに『賢者の石』を使用している辺り、たぶんアマルガムが目当てなんだとは思うが、そもそも武器商人がどうして『賢者の石』を持ってるんだって話だ」
「それになんか、今までの犯人とはちょっと違うよね。アマルガムを利用してはいるけど、アマルガムを人間にしたいのか兵器として使い続けたいのか、よく分からない」
テオとトビアスがそんな話をしていると、ロッキも渋い顔をしてイレブンを見下ろした。
「研究所の博士は、なんて言ってんだ?」
「アマルガムの細工意図は不明ですが、『賢者の石』については分析が完了しています」
イレブンは成分分析のうち一枚をホワイトボードから剥がしてトビアスたちに見せた。
「クロエ・ギフェル所持の『賢者の石』は二体のアマルガムのコアに混入したものと一致しました。品質はCランクと粗悪です」
「……待て。『賢者の石』の品質?」
初耳の情報にテオが声を上げた。トビアスも目を丸くする。
「『賢者の石』もランク付けするの? それそのものが貴重ですごいって感じなのに?」
「確かに希少価値の高いものですが、魔術の道具である以上は評価基準が存在します。結晶の大きさ、最大出力、魔力含有量、結晶内の血の少なさ、以上四つの点から評価し、ランク付けします。研究所には最高Sランクの『賢者の石』が保管されていますよ」
「はーさすが、あるところにはあるんだな……」
ロッキが感心した顔で頷いた。テオが唸る。
「……だが品質が低いといっても『賢者の石』だろう? それによる制限はあるのか?」
「あります。『賢者の石』は要するに千単位の人命を注ぐ魔力タンクですから、低品質であればあるほどタンクは小さい。よって、使用できる魔力の総量も小さくなるのです」
「それって、万能なのに有限ってことか?」
テオがぎょっとして尋ねると、イレブンは瞼を上下させた。
「知らないのですか」
「それ絶対に一般的な知識じゃないぞ。ランクでさえ初耳なのに」
「では魔力タンクが空になると『賢者の石』は消滅することも……」
「知らん知らん。あれが消えるのも初めて知った」
研究者側とそうでない側で知識の差は凄まじく大きいらしい。トビアスも呆然としていたが、ふと気付いて口を開いた。
「もしかしてそれ、ギフェルも知らないんじゃないかな。『賢者の石』が有限だと知っていたら、アマルガムに施す細工だって人間か兵器か方向性を絞りそうなものじゃない?」
「確かにな。細工のために同じぐらい魔力を消費するなら、待ち伏せに使った奴がもったいねえ。また別の人間に擬態させた方が便利そうだ」
ロッキも嫌そうな顔で頷いた。イレブンが首を傾けてテオたちを見上げる。
「クロエ・ギフェルが知らないとすると、可能性としてはジム・ケントから『賢者の石』を購入したのでしょうか。彼は自ら『賢者の石』を製造したと証言しています」
「うーん、でも彼ってイレブンへの執着であそこまでやったって感じだし、違うかもな。となると、消去法でグラナテマ国教になるけど。他にあるかな入手先」
「……正直、『賢者の石』を売るほど作れる機会があったのは、グラナテマだろうな」
イレブンとトビアスが同じ角度で首を傾けていると、テオは厳しい表情で呟いた。
「侵略戦争に熱心な国だし、司祭が大量虐殺を扇動してるぐらいだ。戦争をカモフラージュにして『賢者の石』の研究を続けていた可能性もあるんじゃないか?」
「だとすると、ギフェルは『賢者の石』をもらった対価として彼らに協力しているとか?」
「あるいは、『賢者の石』の販売を仲介するために恩を売ってるのか……いずれにせよ、粗悪品を掴まされたと知ったら仲間割れも狙えるかもしれんな」
トビアスたちの表情は険しい。取調室で弁護士がどれぐらいギフェルに発言を許すか分からない以上、こちらは「全て知っているぞ」と見せる必要があった。大きな手掛かりである彼女を逃がすわけにはいかないのだ。
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