三章 あなたの役に立つということ 8


     8


 すっかり夜が更けて、空には月と星が輝いている。だが街灯は明るく車通りの多い路面電車沿線で、星を探して空を見上げる人間がどれだけいるだろう。


 雲一つなく月ばかりが明るい夜空を裂くように、小さな人影が閃いても。


 ホワイトブロンドの髪とネイビーのスカートがビル風で大きく翻っても。


 通行人は誰一人、空を見上げることはなかった。




 少女が一人、ビルからビルへと跳ねていく。




 目標は、動画から特定したビルの最上階にある角部屋だ。近日中に取り壊される予定で、ビルからは既に全住民が退去している。


 イレブンはそのビルの給水塔に降り立った。視界を遮る髪を払い、インカム越しに報告する。


「こちらイレブン、目標地点到達。アマルガム反応あり。信号がないため、統制信号は使用不可。クロエ・ギフェルによって細工された個体と判断します」


『了解。破壊はできそうか?』


 テオが尋ねた。雑音混じりの質問を受けて、イレブンは屋上を見下ろす。アマルガムのコアは屋内にあるようだった。


「不明です。擬態対象、人質との距離、いずれも確認できません。人質に擬態している可能性もありますが、どうしますか」


『……お前がいる距離で相手が動かないってことは、確かにその可能性もあるか。だがトム・ハーディーと同じパターンなら危険性は低い。変わらず人質の確保最優先で頼む』


「了解。このまま待機します」


 イレブンは給水塔の反対側にある角部屋を見やった。まだ動きはないが、アマルガムの信号で行動を把握することができない点は厄介だ。


「────私が、指揮を執る」


 力を伴った信号が飛ぶ。ハウンドから発する統制信号に、アマルガムは必ず従う。そういう風に造られている。


 だが、イレブンが放った統制信号の手応えは何もなかった。強烈な違和感がある。


 賢者の石と、それに代わる物質として見出された鉱石フォルトナイト。それが混ざった結果、イレブンの感覚として、通常のアマルガムとは違う、異質な存在としか認識できなくなっているのだ。


 賢者の石混入によるコアの変質がどのような影響をもたらすのか、まだ分析中だ。だが術式の書き換えと支配関係の消去が確認できており、アマルガムの行動を停止させるためには、とにかくコアに接触する必要があると判明している。


 アマルガムがどのように擬態しているか不明である以上、この場ではイレブンにしかできない手段だ。


(……変質していようとアマルガムだ。どんな細工がされていても、私は殺せる)


 イレブンは思考を切り替えた。今イレブンがすべきことは、人質が本物かどうか確認し、無事に病院へ送り届けることだ。


 隣のビルの屋上に特殊部隊が到着したところで、全チームから移動完了の報告が届く。それを待ってからテオが言った。


『──よし。イレブン、行ってくれ』


「了解、突入します」


 テオの指示に合わせ、イレブンは給水塔から飛び降りた。角部屋へと走る。まだアマルガムの行動はない。窓のある辺りから真下に飛び込み、イレブンはコンクリート製のひさしを掴んだ。思い切り勢いを付けてベランダの窓を両足で蹴り破る。


 派手にガラスが飛び散ったが、室内に動くものはない。輸液パックから続くシリコンチューブが少し揺れたぐらいだった。


 室内には、ベッドが一つあるだけ。そこに女が一人横たわっている。動画と変わりない部屋だった。


 イレブンはすぐにベッドに駆け寄り、女を確認した。顔は動画や証明写真の人相と一致しており、店主の妻に間違いなかった。銃創以外に外傷はない。だが傷から発熱しているのか汗だくで、呼吸は浅い。脈を取ろうと女の首筋に触れて、イレブンはほんの一秒だけ命の温もりを感知した。アマルガムの偽りの肉体とは違う。


(……人間だ)


 アマルガムが擬態している可能性を考えていたが、杞憂だったようだ。イレブンは素早く点滴の針を引き抜き、ヘッドボードに繋がっていた手錠を千切った。女の背中を持ち上げ、腕を腹の上で重ねる。


「報告、被害者の確保完了。右大腿に銃創、弾は貫通済み、発熱あり。これから合流ポイントへ────」


 イレブンは視線を上げた。天井の壁紙がゆっくりと剥がれていく。そこから目を離さず、女の脚を揃えて抱え、自分の肩へ彼女の頭を引き寄せた。


「……向かいます」


 言葉に少し間ができたが、テオは気にしなかったらしい。ノイズ混じりに、彼は安堵の息をつく。


『──よかった。何をしてもいいから彼女を無事に運んでくれ』


「了解」


 古い壁紙が垂れ、ぶら下がった照明がどろりと形を失くした。


「────『何をしても』救出します」


 天井が降ってくる。


 イレブンは女をできるだけ抱き寄せ、すぐさま床を蹴った。轟音とともにベッドと床が音を立てて粉砕される。床に広がる、生白い粘土質の肉体。アマルガムが擬態を解除したのだ。


 破壊したベランダの窓から外に飛び出し、隣家の室外機に向かって跳躍した。その瞬間、巨大な拳が外壁ごと窓枠をぶち抜いていく。足場から足場へ跳ねて移動するイレブンに手が届かないと知るや、アマルガムは外壁に手足を突っ込んで追いかけてきた。


(反応速度は平均程度。身体能力は強化されていない)


 情報は十分だ。イレブンは屋上に戻り、隣のビルに向かって走った。アマルガムも老朽化した外壁を粉々にしながら追走する。取り壊し予定とはいえやりすぎだろうか。


「合流します。援護を」


『──シールド班、構えろ! 来るぞ!』


 返事の代わりにテオの指示が飛んだ。隣のビルで待機していた特殊部隊がシールドと銃を構える。チームリーダーが大きく腕を振ってイレブンを招いた。それに応じて全力で踏み切る。


 コンクリートを砕くほどの跳躍。


 靴底型のヒビが入ったそこをアマルガムの拳が粉砕していく。


 十分な距離を取った。


 そのはずだった。


 身動きの取れない空中。イレブンは肩越しにアマルガムの拳を捉えた。


 アマルガムが胴体の質量を移して腕を伸ばしたのだ。


(捕まる────)


 指とも呼べない、枝分かれした肉がイレブンたちに迫る。接触した物を瞬時に飲み込める肉が。意識のない人間を抱えたままでは対応できない。



 イレブンは計算する前に両腕を切断した。



 胴体へ伝わる衝撃で首と脚が跳ねる。



 だが人質だけは、跳躍した勢いのまま隣のビルへ放物線を描いた。


 イレブンの両腕に抱えられたまま。



 少女の細腕二本という頼りない質量だ。だが人質を抱えた腕は簡単な凧に転じて残り少ない距離を滑空する。シールド班が盾を放り出して殺到し、人質は無事に受け止められた。


 アマルガムは掴み取ったイレブンを自分の方へ引き寄せながら、もう片方の腕を伸ばそうとしていた。これなら腕の再生は不要だ。イレブンは引き寄せる動きに身を任せ、両脚をブレードに転じる。そのまま、自分を掴んでいる腕を肩から斬り捨てた。


 生白い肉ごと屋上に滑り落ちたイレブンは瞬時に跳ね起きる。アマルガムは腕の損傷に構わず人質に向かって腕を伸ばし、シールド班から総攻撃を受けていた。連続した銃声が響く。アマルガムは銃弾を植えられる端から飲み込み、人質の回収を優先していた。


 指揮官のいないアマルガムは、しょせんこの程度だ。彼らに行動に任せると、最新の命令を愚直に実行し続ける。


 がら空きとなったアマルガムの背後で、イレブンはブレードの右脚を振り上げた。


「『こら』、ですよ」


 刃を受け止める重い肉の感触。傾く肉の重量でそのまま押し切り、コアを蹴り抜いた。


 アマルガムの動きが一瞬止まる。その隙に切っ先でコアを貫き、稼働停止命令を送り込んだ。生白い肉体がどろどろと溶けていく。


「……アマルガム、沈黙を確認。他に適性反応なし」


『──了解、よくやった。シールド班は速やかに被害者を────』


『──シールド班より捜査官へ。至急、腕の取り扱いについて指示を求む』


 震えた声の通信が入り、イレブンは「失礼しました」と呟いていた。


「そのまま放置してください。今から回収します」


『──シ、シールド班、了解。被害者を救急隊員に引き継ぎます』


『……腕って……ああ、うん、頼む』


 テオの疲れた声がする。イレブンは迅速に移動する特殊部隊を見送り、隣のビルに向かって細く帯を伸ばした。転がった二本の腕を絡め取りながら言う。


「『何をしてもいい』という指示は実行可能範囲が広くて便利ですね」


『──俺はそれ言ったの今ちょっと後悔してるよ……』


 テオの声は、喉の奥で唸るようだった。深く俯いて喋っているのだろう。額を手で押さえて渋面を作る彼の姿は容易に推測できた。


 回収した腕を肩と接続させていたイレブンは、ふと辺りに目をやった。


 アマルガムの肉体が、泥にならない。


 脚部のブレードで貫いたままのコア。その中で、賢者の石が赤く光りながら脈打った。


(……『賢者の石』で再生しているのか)


 なるほど、見事な品質向上だ。イレブンが考えたことはその程度だった。




 ホワイトブロンドの長い髪を風に遊ばせた少女は、コアから爪先を引き抜き、無感動に踏み砕いた。




 その姿を双眼鏡越しに見つめていた女は、「はー」と深く溜息をついて頬杖を突いた。オフィスビルの屋上に腹ばいになったまま、ヒールブーツの足をばたつかせる。


「ここまでお膳立てしても、彼女はなんとかできちゃうわけか。自律型魔導兵器とやらも、案外使いこなすのは難しいね」


 黒いフェザーショールに顎先を埋め、再び双眼鏡を目に当てる。上着でコアを包んだ少女は、一度切断したとは思えないほどなめらかに拳を振り上げ、上着越しにコアを殴り潰していた。いい拳だ、もっと親の仇を見るような目で殴ってほしい。


「……とんでもないイヴだ。君が夢中になるわけだよ」


 来た時と同じように少女が屋上から屋上へと跳ねて駆けていくと、残されたアマルガムの肉体は泥と化していった。コアが完全に破壊されなくても距離ができてしまうと、肉体は崩壊するようだ。アマルガムというのは案外欠点が多い。


「まあ、邪魔されちゃったけどデータは取れたし、よしとしますか」


 女は黒い仮面で顔を隠し、双眼鏡をコートのポケットに押し込んだ。サイレンを鳴らしながら救急車が走り出したのを機に立ち上がる。


 だがそこへ、橙色の光がいくつも照射された。


「クロエ・ギフェル! 貴様は既に包囲されている!」


 拡声器を使って男が怒鳴る。いくつもの銃口を向けられ、女は──クロエ・ギフェルは舌打ちして身を翻した。銃声と銃弾が跳ねる音に背中を押されるようにしてギフェルは非常階段に飛び込む。


 魔導抑制機の光さえ避ければ問題ない。左の手袋に付けた賢者の石を光らせ、ギフェルは自分の姿を透明にした。走ってくる警備員とすれ違い、関係者専用出口へ向かう。夜間の警備はどこも厳しく、適当な窓から飛び出せないところだけが厄介だ。


 もうすぐ出口というところで透明化を解除した。ギフェルは仮面を下げ、生体認証装置に片目を近付ける。虹彩の形を読み取った装置はすぐに青ランプを点灯し、出口のセキュリティを解除した。


 夜勤の社員を装ってスーツ姿になったギフェルは、悠々と扉を開ける。


 だが。


「そこまでだ」


 目が眩むほど強い魔導抑制機の光。ギフェルは手で光を遮ったが、変身はあっという間に解除された。スーツのスカートではなくロングコートの裾が揺れる。


 薄く開けた目で窺うと、光の間からいくつも銃口を向けられていた。中央に立っているのは赤い髪の捜査官だ。思わず後退った方からも足音が聞こえる。見れば、特殊部隊が銃を構えて退路を塞いでいた。


 ギフェルは仮面の内側で微笑み、ゆっくりと両手を上げて見せた。


     ■


 ギフェルのような魔導士を逮捕した時は、無力化するために一定の手順を必要とする。その間は彼女の取り調べを行うこともできないため、テオもさすがに仮眠を取った。イレブンが「眠れる時に眠ることも必要です」と譲らなかったためだ。その彼女は、回収したアマルガムのコアを研究所まで届けるついでに、映像分析の結果を聞きに行っている。



 怒涛の一日は終わったが、事件が解決したわけではない。



 テオは医師からの電話で仮眠を終え、すぐ病院に向かった。監禁されていた被害者の手術が無事に終わったのだ。


 病室で妻の寝顔を見守っていた店主は、テオの来訪を受けて申し訳なさそうに微笑んだ。


「本当に、妻を助けてくれてありがとうございます」


「無事で何よりでした。……改めて、お話を伺っても?」


 店主は頷き、妻の手を優しく握ってから廊下に出た。



 店主が言うには、まず中将が店に来たが、それを追うように男が来店したそうだ。「後から連れが来る」と聞いていた店主は彼を席に案内したが、中将は怪訝そうにしていたという。


 その時点でトラブルの気配は漂っていたが、少し話をすると男は中将に怒りをぶつけるようになった。中将が公開しようとしていることを、男は止めたかったようだ。中将は彼を落ち着かせようと飲み物を頼んだが、男は頭に血が上る一方で話にならない。ついには銃を抜いて立ち上がり、中将を恫喝し始めた。一触即発となったテーブル席を前にして、店主も妻も凍り付いて動けない。


 そこへ、トビアスが来店した。彼も店内の異様な状況にすぐ気が付いたようなのだが、背後からギフェルに襲われて昏倒する。その騒ぎを聞いてか、男は引き金を引いてしまった。



 目の前で人が殺された。妻がボトルを落として悲鳴を上げ、店主はカウンター裏に隠した通報ボタンを探った。だが店主が動く前に男は銃を振り回して怒鳴りつけた。次に殺されるのは自分たちだと思うと、抵抗することができなかったのだ。


 店主は妻を人質に取られ、男女に言われるがまま二人を手伝った。



「……手伝いというのは、具体的には?」


「倒れたお客さんを動かしたり、お客さんの合成義体を持ち上げて男に撃たせたり……お客さんにお酒を飲ませたのも俺です。手が震えてお酒を服にかけてしまった時に、お客さんも気が付いたみたいだったんですけど、結局、気を失うまで飲ませることになってしまって……」


 テオは手帳にメモを残し、店主に続けて尋ねた。


「男女はどのような関係に見えましたか?」


「男の方は、女のことを知らないように見えました。最初は女にも銃を向けていたんです。でも女の方は男を知っていて、『このままじゃ怖いパパに叱られちゃうよ』と言って、お客さんに罪を着せようと提案しました。あれこれ指示していたのも女の方です」


「……ありがとう、参考になりました。犯人の似顔絵を作成するので、ご協力を」


 店主が頷くのを見てから、テオは廊下で待機していた捜査官を呼び寄せた。


 これでトビアスも解放できる。テオはずいぶん気が楽になった心地で駐車場に戻った。そこへ、携帯端末が音を立てる。


 もう眠らせてほしいと思いながら確認すると、イレブンから写真が届いていた。


 遠くから撮影されたものを無理に拡大した画像だ。解像度は低い。


 だが確かに、テントの入り口で立ち話をしながらポケットに蝋燭を入れた男が映っていた。

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