三章 あなたの役に立つということ 7


     7


 天井が目に入った。エマがきょろ、と目を泳がせた先では、驚いた顔をしている叔母が椅子から立ち上がろうとしたまま硬直していた。


「……叔母さん……?」


「エマ……ああ、エマ! 目が覚めたのね!」


 叔母は目に涙を浮かべてエマの顔を覗き込んだ。皮の分厚くなった手が優しくエマの額を撫でる。魔法生物をいくつも育てて傷だらけになった彼女の手が、小さい頃から大好きだった。


「……ごめんね、心配かけて」


「何言ってるの! あなたが無事なら何だっていいのよ。治療に耐えてくれてよかった。一時は本当に危なかったんだから……」


 叔母は嬉しそうに微笑んで続けた。


「叔父さんが今、買い物に出てるの。何か欲しいものがあったら頼めるわよ」


「……仕事あったのに、ごめん……」


「そんなこと気にしないの。可愛い姪がこんな大変な目に遭ったのよ? 心配ぐらいさせてちょうだい」


 叔母は明るく笑い飛ばすばかりだ。それを聞いて少しだけ気が抜けた。


 薬の影響か、エマの瞼はとても重かった。叔母の安心した顔が母とそっくりで、エマはつい小さく笑う。


「……叔母さん、私……お母さんに会ったわ」


 叔母が目を見開いた。彼女は震える唇を噛み、すぐに微笑んで頷く。


「そうなのね。今はゆっくり休んで。次に起きた時に、お母さんの話を聞かせてね」


 エマは「うん」だか「ええ」だか返事をしたつもりだった。目が開かない。優しく頭を撫でられるまま、ぼんやりとした眠りについた。


     ■


『無事に手術は成功したそうだ』


 ロッキからその知らせが届いた時、テオは安堵のあまり腰が抜けそうになった。運転席のシートにもたれ、肺が空になるまで息を吐き出す。


「よかった……現代医学さまさまだな」


『本当に。急速治療に耐えられたのは、若くて体力があるからだな。子供や年寄りじゃこうはいかねえ。奇跡も万能じゃねえからなぁ……』


「どれぐらいで退院できるものなんだ?」


『通院は必須だが、その気になりゃ明後日にでも退院できるぜ』


「そいつはすごいな」


 生死の境をさまよう重傷を負ったというのに、病院に担ぎ込まれてこんなに早く出られるというのもすごい話だ。感嘆の息をつくと、ロッキが小さく笑った。


『エマの手足がくっついてて、銃弾が急所を外してたからこそだ。切られた髪は戻らねえし、輸血と点滴、服薬はしばらく必要になる。科学と魔術がこれだけ発展しても、何か一つ違っていたらエマの命はなかった。ぞっとするぜ』


「……本当にそうだな。彼女が助かってよかった」


 テオは頬を緩め、ハンドルに肘を突いた。アンティークショップの店先で、イレブンと店主の老婦人が話をしている姿が見える。


「分析の方は?」


『順調だ。この調子なら、トビアスもすぐに自由の身になれるだろうよ』


「ありがとう。これからオフィスに戻るから、何かあれば連絡してくれ」


『了解。気を付けてな』


 通話を終え、テオは緊張を緩めた。


 急速治療は外科手術に治癒の魔術を加えて瀕死の重傷も癒すが、患者の自然治癒力を数か月分前借りする関係で非常に負担が大きい。老人や子供は施術の負担に耐えられないし、持病があれば術後に免疫力がガタ落ちするために深刻な病にかかることもある。


 だからエマが一命を取り留めたことは、些細な偶然が重なった結果に過ぎなかった。


 ロッキの言う通り、奇跡は万能ではない。銃弾が少しでも急所に当たっていたら、救急隊員の応急処置が間に合わなかったら、警察の突入があと一歩遅かったら、エマの命はなかった。


 目を上げると、話を終えたらしくイレブンが小さく頭を下げている。老婦人はイレブンに微笑み、見えているか分からないがテオにまで手を振っていた。テオも片手を挙げて応じる。


 助手席に戻ってきたイレブンは、小さな箱を膝に置いた。


「そんなに小さな宝石箱だったのか」


「はい。とても丁寧に梱包されていました」


「そうか。オフィスに戻って、そこで開けよう」


 改めて老婦人に挨拶して、テオは車を出した。


「エマの手術は無事に終わったそうだ。ロッキから連絡があった」


「何よりです。後遺症がなければよいですが」


「急速治療ってそこが厄介だよな。古傷が痛むみたいなあの感じがあるし」


 捜査局へ戻る道中は、誰に邪魔されるでもなく安全なものだった。だが、父とやらに報告はされているだろう。対処を急ぐ必要がある。


 オフィスには、さすがに監査部の人間は残っていなかった。安心して自分たちのデスクに戻り、丁寧に箱を開ける。


 木目が美しい、猫脚の宝石箱だった。箱は波飛沫をかたどったようなロカイユ装飾に縁取られ、品のいい彫刻と相まって豪奢なものだった。蓋の中央には、ダイヤモンドのようにカットされたガラスがはめ込まれている。


「洒落た宝石箱だな……元は奥さんへのプレゼントだったのかな」


 イレブンが手袋を着けて宝石箱を持ち上げる。鍵と同じく宝石箱にも魔法陣が描かれており、鍵を差し込むことで完成するようだ。鍵穴に接する窓からは、鍵の持ち手と同じ歯車が見えている。おそらくこの細工を動かす魔法陣なのだろう。


「……では、行きます」


 イレブンが静かに鍵を差し込み、右に回した。蓋のガラスが淡く光り始め、窓から見えていた歯車が小さな音を立てて下がる。鍵の持ち手にあった歯車と噛み合い、ひとりでに回転を始めた。


 かたかたと音を立てて宝石箱の蓋が持ち上がっていく。中には、折りたたまれた紙と記憶媒体、そして千切り取られたメモが入っていた。内側にはクッションが敷かれているが、両サイドには小さな燃料と発火装置が仕込まれている。無理に蓋を開けると中に入っている物が焼却される仕組みになっていたようだ。


 テオはげんなりした顔で中身を取り出した。


「諜報部ってなんでこう……」


「用心深いことは美徳ですよ」


 イレブンが涼しい顔で千切り取られたメモを裏返した。よほど急いで書いたのか、ところどころに書き損じがある。家族への謝罪と別れの言葉とともに、中将の署名が書かれていた。命の危機を察した彼が、急いで用意した遺書だった。


「奥様が遺体を迎えに来る予定です。お渡ししておきます」


「……そうだな、頼む」


 豪華客船で会った、優雅な夫人の姿を思い出す。仲睦まじい夫婦だっただけに、わずかしか接点のないテオでさえ落ち込んでいた。溜息とともに感傷を振り切り、折りたたまれた紙を開く。


 それは、真新しい紙に印刷された、証人保護プログラム適用者の調査報告書だった。



 長い金髪の間から不安そうな目を覗かせた、幼い少女。


 名前の欄には「エマ・カナリー」と印字され、出身地はグラナテマとされていた。



 テオは一瞬、呼吸を忘れた。まさかとは思っていたが、こんな形で知ることになるとは想像もしていない。


「……これ、本物のコピーか?」


「ここにあるということは、そうでしょうね」


 イレブンは静かに肯定し、テオと一緒に報告書を覗き込むだけだった。



 報告書によると、彼女は自分からアダストラ軍の魔導士部隊に接触した。一人で現れた彼女を警戒していた者たちも、彼女の金髪に紫の瞳という見た目に加えて「カナリーという魔導士の娘です」と見せられた魔導士協会のケープで真実だと確信し、すぐに彼女を保護したという。


 エマが母のケープを握りしめてアダストラ軍の魔導士を頼ったのは、母を故郷に帰してやりたい一心だった。そのためだけに戦場へ飛び込み、母のかつての仲間を頼りに来たのだ。



 エマによると、母は「すいしょうひつ」という魔術の犠牲になり、父に心臓を抉り取られて亡くなったらしい。当時の魔導士はこの魔術に誰も心当たりがなく、グラナテマの秘術ではないかと推測されている。


 エマの説明を受けて魔導士部隊は彼女の家に向かい、母の遺体を発見した。


 遺体は、胸部にぽっかりと空洞を作ったまま、透き通った結晶の中に横たわっていた。まるでガラスの棺で眠っているようだったと、発見者は報告している。



 わずか八歳だが十分な証言能力があるとして、彼らはエマを戦争犯罪の証人として迎え入れた。詳細は記載されていないが、父親が関わる重要な事件について証言したらしい。


 経歴どころか、エマは書類上存在しない子供だった。そのため、偽の出生証明書だけを手に、叔母夫妻の養子として迎えられたそうだ。


 本来であれば全てを偽ってまったくの他人の養子になった方がエマの安全を確保できただろう。だが、肉親を捜し続けていたカナリー家のためにも、母を喪ったばかりの少女のためにも、彼らは血縁者と引き合わせてやった方がいいと判断した。


 報告書は「この幼い少女が悲劇を忘れ、健やかに成長できることを祈る」という一文で結ばれている。



 イレブンがぽつりと呟いた。


「……八歳の子供としては、冷静な行動ですね」


「そうだな……俺が八歳の時なんて、一歳の妹抱えておろおろしてたよ」


 テオは幼い少女の写真をそっと指で押さえた。溌溂と笑うエマの姿しか知らないものだから、他人の空似ではないかと思ってしまう。


「すいしょうひつ、って聞いたことあるか?」


「いえ、ありません。心臓を抉るという行いも特徴的なのですが……」


 イレブンでさえ知らないとは。テオは眉根を寄せた。


 気になるのは、中将がエマの報告書だけ印刷していた点だ。同僚が重大な秘密を抱えていると知らせるためだけに行ったとは考えにくい。急いで直接報告しなければいけないと思った事情があったとしたら。


 報告書の文章にヒントがないか目を凝らしていると、ふとイレブンが紙面を指差した。


「ここ、爪か何かで下線を引いています」


 言われて見ても分からず紙面をそっと撫でると、確かに文字の下に凹みがあった。下線があるのは「事件」「証言」だ。エマが証言した事件と関係があるのか。


 テオはパソコンを立ち上げ、イレブンに携帯端末を示した。


「こっちは調べておくから、映像から監禁場所を特定できないか試してくれ。技術的な手伝いが必要なら、情報室で俺の名前を出せば協力してくれる分析官がいる」


「了解、特定を急ぎます」


 イレブンが携帯端末を手に駆けていく。それを見送り、テオは新聞紙のデジタルアーカイブにアクセスした。二十年前に発生したアダストラ軍とグラナテマ軍の衝突に絞って記事を表示していく。


 いくつかの小競り合いや海戦を除外していくうちに、テオは一つの記事で手を止めた。


 それは、二十年前に新聞の一面を飾った記事だった。



『陸軍、華々しい勝利! グラナテマの侵略戦線を阻止』



 戦場となったのは、グラナテマ領南端。


 元は人口六十万人を抱えた国があった場所で、グラナテマの侵略戦争により五十万人以上の戦死者が出た。屍の山が築かれ、血の湖が残り、国を横断する運河が一か月間真っ赤に染まっていたという。


 国を一つ滅ぼしたグラナテマはそのまま隣接した国へ侵攻。同盟国から要請を受けたアダストラは陸軍を出動させ、指揮官数名を捕縛して停戦にまで持ち込んだ。



「……日付的にも、エマが保護されたのはここか。よく生きてたな……」


 テオは新聞記事を保存して報告書を手に取った。エマが証言した戦争犯罪は、この侵略戦争に関わるものだろう。証言した以上は何かの形で裁判をしたはずだと、テオはさらにアーカイブを探る。



 やがて、小さな記事を見つけた。国際軍事裁判によって、グラナテマ側の指揮官はその責任と罪を問われたのだ。


 指揮官の名前も掲載されていたが、一人だけ通称しか分からない人物がいた。


 初老の男で、周囲の人物と比べると体格がよく、人相が悪い。


 彼は「偉大なる父」と呼ばれていた。グラナテマ国教の司祭なのだという。


 宗教家が信者を煽って戦争に加担させたことについて、記者は激しく批判していた。そんな司祭の信仰する宗教がどんなものか興味を持つだろうと、簡単に紹介している。



 グラナテマ国教は大陸統一主義に基づき、「かつてグラナテマは大陸の支配者だった」と主張している。支配者の地位に戻ることを神が望んでいるとして、グラナテマの侵略戦争を積極的に肯定する立場だ。


 その中でも「偉大なる父」が所属している派閥は過激派だった。この大陸戦争を制することこそが先祖代々続く悲願であり、そのためであれば、どれだけの血が流れても構わない。


 そして、過激派に属する信者たちは、洗礼を受けた時に家族との絆を捨てる。ただ父の手足となって動く子として、兄弟姉妹として生きるのだ。



 テオが気になったのはまさにその点だった。父と、兄弟姉妹。宗教的な呼び方だと思ったのは正しかったのだ。エマも「姉妹」と呼称されていたことから、彼女と母親も同じ過激派に属していたのかもしれない。


 そして、彼ら曰く「エマは父を裏切った」のだ。


 彼女が戦争犯罪を証言したのは、この「偉大なる父」についてではないか。



 新聞によると、「偉大なる父」の罪は民間人の大量虐殺だ。都市が一つ、血の海になるほどの殺戮だった。彼が直接手を下した証拠はないが、信者を先導して殺戮を引き起こしたとして、数百年の懲役刑を言い渡されている。



 その記事も保存してから「偉大なる父」の現状を調べてみると、魔導士としての力を封じられたまま獄中生活を送っているようだ。二十四時間常に監視されており、どのような理由であっても面会できない状態で二十年過ごしているとのことだった。


(……信者が潜り込むことは難しいか? 一度刑務所に確認を取った方がいいか……)


 中将のおかげで、エマが襲撃された理由は分かった。「偉大なる父」を裏切り、彼を投獄させた切っ掛けの一人として狙われたのだろう。グラナテマは裏切り者に容赦しない。エマの警備をもっと手厚くするべきか。


 額を手で押さえていたテオは、かつりと肘にぶつかった物を見て我に返った。


「……そうだ、こっちの方が重要だよな」


 宝石箱に入っていた記憶媒体は、パソコンで読み取ることができそうだった。すぐに端末を差し込み、中身を確認する。



 証人保護プログラム適用者の名簿と、グラナテマ出身者のリストだけが入っていた。



 テオは気が付くと、椅子にもたれて溜息をついていた。


 中将は、これを守りたかったのだ。


 諜報部内も危険だと判明し、急いで持ち出したのだろう。煙草屋とアンティークショップに「アルエット」の名前を伝えたのは、本来最後に巻き込む相手はテオを予定していたからだ。中将はいつもテオに連絡を寄越していたから。


 中将の言葉を思い出す。



 ────猟犬を見れば、主人がどんな人間か分かる。ハウンドはそういう風にできている。馬鹿が付くほど実直な男がここまで信用するんだ、ハウンドもきっちり仕事はこなすだろうと私も期待できる。



 彼はイレブンを信じて、そして賭けに勝ったのだ。


(……報いてやりたい。その信用に)


 テオは試しにリストから「ヴェンデル・ベルクール」の名前を検出した。果たして、一人の少年が見つかる。三十年前に保護され、ヴェンデルと名前を変えた元少年兵だ。


 リストさえ手に入れば、こんなにもあっさりと明かされる。彼らが躍起になって止めようとするはずだった。


 テオはデータをパソコンに保存し、記憶媒体を引き抜いた。下手に金庫に入れるよりイレブンに持たせた方が安全かもしれない。そう考えた矢先にイレブンが戻ってくる。


「テオ、監禁場所を特定しました。それから、撮影者の画像です」


 イレブンがコピーを手渡す。見れば、被害者の瞳に映り込んだ撮影者を拡大したものだった。


 黒い面とフェザーショール、特徴的な黄色のコート。


 クロエ・ギフェルに間違いなかった。


「イレブン、特殊部隊を手配してくれ。突入する」


「了解。連絡します」


 イレブンにデスクの電話を譲り、テオは部長室の扉を叩いた。

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