三章 あなたの役に立つということ 6


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 バーカウンターの片隅で、一人の男がグラスを片手にうなだれていた。開店したばかりで、店内の客は少ない。最初の一杯目から既に顔色の悪い男を見て、店主は苦笑した。水だけのグラスを差し出し「あまり飲みすぎるなよ」と優しく声をかける。


 男の横顔は死を目前にしたように暗く、後悔に苛まれ、とても酒が進む様子はない。アルコールに頼らなければ息もできなさそうな必死さがあった。


 何があったんだかね、と店主は溜息をつく。


 そこへ、ドアベルが鳴った。


「──どうなっても知らないわよ!」


 女の声が鋭く響く。店主は驚きながらも「いらっしゃい」と声をかけた。


 どうやら女は外に向かって怒鳴ったらしい。閉まっていく扉の間から、走り去る車が見えた。彼女は店主と目が合うと恥ずかしそうに微笑む。ざっくりと短く切られたブロンドヘアは少年じみているだけに、ずいぶん大人びた表情に見えた。


「うるさくしてごめんなさい。彼ったら本当、困るわ」


「いやいや、大丈夫ですとも。仕事帰りですか?」


「そんなところ」


 愛想よく応じる表情や、きちんと着こまれたスーツ、スツールに腰かける丁寧な所作は、年相応に感じる。甘く整った顔立ちと落ち着いた雰囲気には、洒落っ気のない短髪が少し浮いて見えた。


 これが若い子の流行りなのかな。店主はそう思いながら尋ねた。


「ご注文は?」


「甘いカクテルが飲みたくて……クレオメ・フィズなんてお願いできる?」


「かしこまりました。疲れを癒す一杯をご用意いたします」


 ウインクまで添えた店主に、女はくすぐったそうに笑う。可愛らしい人だった。


 店主がカクテルを用意していると、女が「ねえ」と小声で言った。


「彼、どうしたの?」


 彼女は視線だけで男を示していた。いかにも暗く沈んだ様子が気になったのだろう。店主は苦笑して答える。


「経営してる店で大変な事件が起こったみたいで。家にいると事件を思い出すって言って、店を開けたら閉店まであそこで飲んでるんですよ。……可哀想で、ついね」


「そうなの……それはさぞ、耐え難いでしょうね」


 彼女はぽつりと呟いた。こちらも何か抱えているらしい。バーの店主をしていると、そういう客とはよく出会う。店主はピンクのカクテルに蝶の飾りを添えてグラスを出した。


「お待たせしました、クレオメ・フィズです。どうぞ、秘密の一時をお過ごしください」


「素敵だわ。ありがとう」


 美女の会計を済ませていると、またドアベルが鳴る。今度はスーツ姿の男が二人で来店だ。今日はやけに客が多いな、と店主は愛想笑いで注文を取りに向かった。




「お隣、よろしいかしら」


 突然声をかけられ、男は肩を震わせた。恐る恐る視線をやると、隣の椅子に女が腰かける。無造作にハサミを入れられた様子のブロンドヘアを揺らすようにして、彼女は小首を傾げた。


 人懐っこい笑みを浮かべているのに、逆らえないと感じさせる何かがあった。


「大変なことがあったと聞いたわ。何か力になれることがあったらと思って」


「……気持ちは嬉しいが、あいにく、そんなんじゃ……」


 女は携帯端末の画面を男にだけ見えるように傾けた。



 そこには、眉間を撃たれ、血を流して倒れた男の写真が表示されている。



 男の顔が真っ青になった。女は微笑んだまま携帯端末の画面を操作し、次の画像を表示する。


 証明写真だった。男と歳の近い、人のよさそうな中年の女。


 彼の、大切な妻だった。


 男は目を見開き、唇をわななかせて女を見つめた。彼女はにこやかに応じる。


「怖がらないで。あなたを助けたいのよ、バーテンダーさん」


 そう言って女は──イレブンは、携帯端末の下から捜査官バッジを覗かせた。


     ■


 男の震える手がグラスを持ち上げた。イレブンはクレオメ・フィズの注がれたグラスを軽く触れさせて乾杯し、少しだけ飲む。炭酸が舌を叩く刺激があった。


 テオの指定は「治療を終えて店に来たエマの姿」だった。だから髪は、雑に切り落とされたらこうなるのではないか、というシミュレーションに基づくものだ。絶対に違和感がある。


 だが、その姿にまんまと釣られた男が二人、離れた席からこちらを見ていた。


(……釣りは続行か)


 イレブンはグラスで口元を隠したまま言った。


「あなたを脅迫しているのは、捜査局? 諜報部? それとも黄色のコートの女かしら」


「……全部、分かってるんだな」


「分かってるから、あなたの奥様を助けたいのよ」


 店内に流れるジャズに溶けるほど小さな声で言葉を交わす。男は一息でグラスを空にして、深く溜息をついた。肩から指先まで、細かく震えている。


「……もし警察にバレたら、妻の命はないと、奴らが……」


「大丈夫。上手く片付けるわ。奥様の状況について、分かっていることを教えてくれる?」


 男は顔を歪め、背中を丸めた。彼の両手はグラスを握り潰さんとするかのように力が入り、背中が嗚咽に震える。


「……店で、撃たれて……っ妙な女が、妻を連れ出してしまって、っうう」


「落ち着いて。奥様は監禁されてるのかしら」


 背中を撫でながら尋ねると、男は携帯端末を取り出した。


「……二時間に一度、数秒だけの動画が、送られてくるんだ」


 そう言って、送られてきた動画を全てイレブンの端末と共有した。音声を消して再生すると、大腿部を止血された女がベッドに横たわり、震えている場面から始まる。怯え切った表情が、自然光を使って映されていた。


「……場所に心当たりは?」


「分からない。でも、明け方に撮って送ってきたのは間違いない。朝七時に届いたんだ」


 動画は時間経過が見られる。本当に二時間に一度、撮影したものを切り取って送りつけているようだ。


「……これ以外に、相手からの接触は?」


「ない。でも、常に視線を感じるし、同じ車がずっと停まってて……」


「なるほど。状況は把握したわ。奥様を救出できたら、私たちに協力してくれるかしら」


 男は拳を握りしめ、こちらを振り向こうとした動きを止めた。そのまま拳を額に押し当てて言う。


「……本当に、妻を助けてくれるのか」


「ええ。これだけ映像があれば、必ず居場所を特定できる」


 男は震える息を吐き、「頼む」と呻いた。


「……頼む。妻と会えたら、本当のことを話す。法廷でも、どこでもだ」


「承ったわ。連絡先をくださる?」


 男の電話番号を携帯端末に記録し、ぬるくなったクレオメ・フィズを飲み干した。店主に声をかけてトイレを借りる。誰もいないことを確認してから鍵をかけ、イヤホンを着けて動画を確認した。


 撮影者は、光を背にして女にカメラを向けていた。間違いない、店主の妻だ。彼女は真っ青な顔をして横たわり、痛みと恐怖に震えていた。


 逆光の中での撮影だ。彼女の瞳に撮影者が映り込んでいる。


 夜明けから朝七時までの間に窓から日が差し込む窓がある部屋だ。太陽と窓の間を遮る建物がないということは、最上階か、開けた場所にある建物の一室だろう。


 そして、音。車のクラクションと路面電車の走行音が聞こえる。路面電車沿線にある建物だ。


 短い動画だが、建物を絞り込む手掛かりは十分にある。罠の可能性は高かった。動画を確認した範囲では応急処置は施されており、点滴もされているが、これが生命維持を意図しているかは分からない。


(……だが、テオであれば、この場所に向かうだろう)


 イレブンはテオにメッセージで報告し、合流場所を確認してから店を出た。


     ■


 女のヒールが、こつこつと地面を叩く。ほんの数時間前まで病院にいたはずなのに、負傷を感じさせない軽い足取りだった。


 店で、重要な目撃者から情報を得たことは確実だ。彼女はすぐに仲間と一緒に動くだろう。であれば、必ずそれを止めなければならない。


 自分たちが正しいことをしているとは思っていないのだ。


 だが、『父』の命令に歯向かうことは到底できない。


 女は表通りに向かって歩いていく。だが突然、彼女は靴先の方向を変えて細い路地に入っていった。女の悲鳴が聞こえて慌てて走り出し、路地へ飛び込む。


 見ると、女は壁にもたれ、両手足を投げ出して座り込んでいた。俯いた頭から血が滴り、頭からスカートまで真っ赤に染まっている。


 この数秒で、何が起きたというのだ。


 二人して愕然とした。


 一体何の仕業なのか警戒したが、生死の確認は必須だと言われている。一人が彼女に駆け寄り、首に触れると、こちらに向けて首を横に振る。それに頷き、携帯端末を耳に当てた。


「追跡中の姉妹ですが、何者かによって殺害されました」


『兄弟。犯人は確認できていないのですか』


 オペレーター役の姉妹が冷静に言った。


「何が起こったのか分かりません。姉妹が路地に入った途端、殺害されていたんです」


『幻の可能性があります。兄弟たちは速やかに周囲を確認し、遺体を回収してください』


「了解。速やかに回収します」


 通話を終え、女に歩み寄った。遺体の状態としては、斧で頭をかち割ったように見える。だがそんな音はしておらず、斧も見当たらない。どちらからともなく溜息をついていた。


「……不幸な姉妹だ。命拾いしたかと思えば、儀式の生贄にもならず殺されるなんて」


「まず幻かどうか確かめた方がいい。間違いがあっては我々が父に殺される」


 そう話しながら遺体を動かそうとした瞬間だった。


 がばりと顔を掴まれる。


 視界を遮られたと焦ったのも束の間、みしみしと音を立てて頭蓋骨が軋んでいた。必死で相手の手首を掴むが、びくともしない。細い女の腕だというのに鋼のようだった。


 指の間から見えた瞳は、妖しく真紅に輝いていた。


「お前たちはグラナテマに与する者か。答えろ」


「ぐぎ、っい、やめ、やめて……っ」


「なぜ私を狙う? 父とやらの命令か?」


「あ、あああああっ! あが、ぎぅっそう、そうです! そうですっ!!」


 頭も顎もみしみしと悲鳴を上げている。痛みに耐えかねて叫ぶと、急に放り出された。


 地面に倒れた二人を見下ろし、血まみれの女が目を細めた。


「じゃあ、私を襲ったのはどうして?」


 頭蓋骨の割れ目から、血と脳が垂れてくる。その状態で無邪気に笑って見せる女に、震えが止まらなかった。気付けば手足をばたつかせて女から離れようとしていたが、喉を掴んで止められる。


 逆らえばくびり殺される。


 たおやかな手に押さえられているだけにもかかわらず、命の危険を叩き込まれていた。


「……姉妹、姉妹が、父を裏切ったから……」


「父は、裏切り者に容赦しない、だから俺たちも逆らえないんだ! ほ、本当に!」


「そうですか。十分です」


 女の声が途端に、中性的な少女の声に変わる。


 血に染まった顔から表情が消え、ただ頭が大きく割れた。無造作に短くされた金髪を押し退けるようにして開いた断面には鋭い牙が並び、唾液を垂らして大きく口を開く。


 喉が裂けるほどの絶叫が路地に響く。


 視界は肉色に染まり、すぐに真っ暗になった。


     ■


 金髪から銀髪へ、長身から小柄な体躯へ、帯をほどくように姿を戻し、イレブンは路地から表通りへ出た。停まっていた車の助手席に乗り込むとテオが尋ねる。


「今の叫び声は?」


「悪い夢でも見たのでしょう」


「正確に報告しろ」


「幻覚作用のある神経ガスを散布しました」


 両方の手のひらを広げて見せると、テオは嫌そうに顔をしかめた。


「俺は穏便に対処してくれって言ったよな? 『穏便に』の解釈が兵器的すぎるだろ」


「必要な情報は入手し、追手はまきました。十分では」


「……それはそうなんだがな」


 テオは溜息をつき、車を発進させた。向かうはアンティークショップだ。夜のメインストリートは信号待ち以外で流れが滞ることもなく、車は安定して進む。


「エマだと勘違いして追跡していた人間は諜報部の捜査官でしたが、彼らは『姉妹が父を裏切ったから』エマを襲ったと発言しました。エマに兄弟はいませんよね」


「肉親じゃなくて、構成員の間で『兄弟』『姉妹』と呼び合ってるんだろう。そうやって信者同士で呼び合う宗教がうちの国にもあったはずだ。父がエマの実の父親か、彼らの信じる神か、判断が難しいところだが」


 テオの表情は厳しい。イレブンは追跡者の背景に思考を巡らせる。


「グラナテマの土着信仰に基づく組織があり、エマはそれを裏切った……と見ることが自然でしょうか。彼女はグラナテマを嫌悪しており、協力関係にありません」


「……母親が亡くなり、父親が逮捕されて、エマだけ抜け出すことができたのかもしれない。あいつの両親に何が起こったのか、もう少し明らかにできたらいいんだが」


 テオは気乗りしない様子だったが、そう低く呟いた。


 ふと、後方から猛スピードで近付いてくる車がバックミラーに映った。強引な車線変更を繰り返し、こちらに向かってきている。


「新手です。後方から一台」


「やっぱり神経ガスはやりすぎだったんじゃないか?」


「そうでしょうか」


「まあ一台だけなら問題な────」


 発砲音とともにリアガラスに大きくヒビが入った。テオの動揺はハンドル操作に響き、車が一度だけ大きく右にぶれる。周囲の車からクラクションが鳴り響いた。体勢を立て直したテオが叫ぶ。


「普通こんなとこで発砲するか?! この交通量の通りで?!」


「やる気でしたら仕方ありませんね」


 イレブンは助手席の窓を開けた。テオがアクセルを踏み込み、車を加速させながら言う。


「おい、人間の範疇で対処してくれ。人目が多い」


「仕方ありませんね」


 イレブンはシートベルトを外し、支給されてから手入れしかしていない拳銃を握った。窓から身を乗り出そうとした途端にサイドミラーが撃ち抜かれ、虚しく道路を転がっていく。


 テオは赤信号の交差点に突っ込み、強引に右折した。追手はそんな無茶な走行にまで追いついてくる。諦める気はないらしい。イレブンは後方を確認し、追手が車線変更した直後に窓から身を乗り出した。


 フロントガラスに一発。受け止められてヒビが入る。


 前輪タイヤに一発。弾が弾かれる。


「防弾性能がいい。射殺の許可は」


「出すわけねえだろ。向こうも仕事してるだけだ」


「仕方ありませんね」


 首を傾けて銃弾を躱し、イレブンは再度引き金を引いた。フロントガラスに受け止められた銃弾に寸分違わず命中させ、銃弾を弾き飛ばす。衝撃でフロントガラスが砕けるとともに、相手の車はふらふらと左右に揺れて周囲の車を巻き込んで止まった。


 イレブンは助手席に戻り、窓を閉めた。テオが呟く。


「……お前は本当に規格外だな」


「ハウンドとしての水準は満たしています。次の角を右です」


「はいはい……」


 何事かと後方を見やる通行人たちの前を通り過ぎ、車は表通りから細い道へと戻っていく。立ち止まってしまう人々が歩道に戻るのを待っていると、テオの携帯端末が着信を知らせた。

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