三章 あなたの役に立つということ 1


     1


 子守唄が聞こえる。


 望まない娘だっただろうに、母はよくエマを抱えて子守唄を聞かせてくれた。


 頭を撫でる優しい手。その水晶のように冷たい手を、いつまでも覚えている。



 まどろむ目が、誰かの手で無遠慮に開かれた。



 眩しい光がいくつも視界に飛び込んでくる。



 頭上で、母ではない人の声が飛び交っていた。


「エマ・カナリー! 聞こえますか! しっかりしてください!」


「血圧九十切ってます! 急いで!」


「輸血の準備を! 血液型は────」


 返事ができない。くるりと視界が上に回ったきり、真っ暗になった。



 痛みで、肉体が飽和している。


 冷たい手。母の優しい手が頭を撫でている。


 子守唄の合間に、母は決まってエマに囁いた。



 約束よ、エマ。


 お母さんの心臓が止まったら、あなたはきっと遠くへ逃げてね。


     ■


 明け方。街はまだ眠っているが、捜査局刑事部のオフィスは相変わらず忙しない。


 その喧騒に隠れるようにして、テオは携帯端末を耳に押し当てていた。相手は検視官のイスコ・ロッキだ。だが彼は検視室ではなく、白衣も羽織らず病院に向かったはずだった。


「それで、どうだ?」


『エマはまだ手術中だ。叔母夫婦はさっき到着して、もう泣き通しだよ。一応、話は聞いてみるつもりだ』


「頼むよ。……手術、難しそうか」


 尋ねるテオの声は硬かった。ロッキは「ああ」と呻く。


『魔力吸引機と実弾二発を撃ち込まれてる以上は、どうしてもダメージがでかい。ここからは本人の生命力次第だ』


「……そうか。すまん、まだ合流できそうにない。叔母さんたちは任せていいか?」


『気にすんなよ、お前さんも捜査中だろう。お嬢さんとトビアスによろしくな』


 彼には珍しく優しい声でそう言って、通話は終わった。テオは額を押さえ、重く溜息をつく。


 顔を上げると、イレブンがオフィスにあるモニターを見上げていた。いつも点けっぱなしになっているモニターは、大抵ニュース番組を流している。今は街で流行っているものを紹介しているコーナーだ。


 テオの通話が終わったことに気付き、イレブンが歩み寄ってきた。


「エマは」


「厳しい状態だ。……何か気になるニュースでもあったか?」


「……グラナテマのスパイ容疑で逮捕されていた七名が、今日未明に殺害された状態で発見されました。喉を刃物で切り裂かれており、犯人は逃走中だそうです」


 イレブンはそう言って、携帯端末にネットニュースを表示させた。捜査中のため、まだ概要しか公表されていない。


 テオは第二王女に慈しみを向けた侍従の横顔を思い出し、眉を下げた。全てを明かせば裏切り者として殺されると、彼は覚悟した上で証言していた。だからといって、本当に殺されていいはずがない。


 気になるのは、グラナテマ出身者のリストを作っていたはずの中将と、彼から報告を受けたらしいトビアスのどちらも音信不通であることだった。


「……中将と、トビアスは?」


「何度も連絡していますが、応答がありません。長官にはご報告しましたが……」


 イレブンの声が途切れた。彼女はエレベーターに目をやる。前もこんなことがあったな、とテオもそちらに顔を向けて、エレベーターから降りてくる人数の多さに顔をしかめた。


 どかどかと足音荒くスーツ姿の男たちが詰め寄ってくる。見覚えのない連中はまっすぐにテオたちのオフィスに向かっていた。


「おい、一体何の騒ぎだ。所属は?」


「監査部です。ご協力ください」


「監査って……おいそれはトビアスのデスクだぞ」


 異常に手際よく、男たちはトビアスの持ち物を箱に詰めていく。何の捜査か再度尋ねようとしたテオの鼻先に紙が突き付けられた。


「トビアス・ヒルマイナ捜査官に殺人容疑がかかっている」


「なんっ、どういうことだ?! あいつが殺人なんて」


 剥ぎ取る勢いで紙を奪うと、捜査令状だった。容疑者の欄にはトビアス・ヒルマイナと書かれている。容疑は確かに殺人だ。


 テオの目の前に立った男は、鼻息荒く言い放った。


「捜査官の不祥事である以上、この事件は我々監査部が預かる! デジレ・コルモロン中将の無念はこのヴェンデル・ベルクールが晴らさせてもらうぞ!」


 何を言っているのか、すぐに理解できなかった。テオの口元がわななく。


「……トビアスがコルモロン中将を殺したって言いたいのか?」


「そうだ。奴が最有力容疑者となっている」


「まさか! トビアスがそんなことするはずないだろう!」


「同僚の犯罪を信じられないのも無理はない。だが目撃者がそう証言しているのだよ」


「そんなバカな話があるか! 現場はどこだ、俺も────」


「君はまだ状況が理解できていないのかね?!」


 男──ベルクールは眉を吊り上げ、テオの肩を突き飛ばした。


「君は! 殺人容疑のかかった捜査官の! 同僚なんだぞ! 証拠を隠滅されては困る。断じて捜査に加えるわけにはいかん!!」


「こいつ……っ」


 口先から漏れそうになった罵詈雑言をなんとか飲み込んだテオに向かって鼻で笑い、ベルクールはイレブンを見下ろした。


「何かね?」


「あなたは捜査局の監査部ですよね。中将は諜報部所属ですが、諜報部を調べる権限はおありですか」


「殺人事件なんだぞ。協力させるに決まっている」


「ではまだ協力体制は得ていないのですね」


 ベルクールは眉間にしわを寄せ、イレブンを睨みつけた。


「何が言いたい?」


「諜報部では中将と一緒に調査に取り組んでいた捜査官が五名、殺害されています。そちらの調査もあなたが行っているのですか」


 テオも初耳の事件だった。目を丸くしたのは、テオだけではない。


 ベルクールは驚いた様子だったが、すぐに低い声で唸るように言った。


「……そちらは諜報部が捜査している。少なくとも中将殺害は捜査官が起こした不祥事だ。ゆえに、監査部で捜査する」


「事件に関連性はないのですか」


「部外者が口を挟むな!」


「そうですか。では長官に直接お尋ねします」


 イレブンの言葉に、ベルクールは再び鼻で笑った。


「お忙しい方だ。君のような捜査官がすぐ連絡を取れるはずがない」


「一介の捜査官であるあなたとは違って私にはその権限がありますので。失礼します」


 イレブンは氷のような声でそう言い放ち、テオの腕を引っ張ってオフィスから出た。ベルクールはぶるぶると全身を震わせたかと思うと、トビアスの椅子を蹴り飛ばす。


「何なんだよあの男、ふざけやがって」


「監査部らしくありませんね。感情を表に出しすぎです」


「俺もそう思う。なんかもっと冷たいよな、監査部の奴って」


 テオは舌打ちし、挨拶もなしに部長室に入った。部長も険しい表情で監査部の奴らを見ている。


「部長、どうなってるんですか。トビアスが殺人なんて何かの間違いだ」


「さっぱりだよ。あいつには動機がないだろうに」


 部長は溜息をつきながらデスクに腰かけ、テオに捜査資料を差し出した。背伸びしてそれを覗き込もうとするイレブンに気付き、テオは少し低めのところで捜査資料を開く。


「現場はバーだ。中将は頭を撃ち抜かれて即死。トビアスは合成義体を撃たれ、右手で銃を握っていた。店内に他の客や従業員はおらず、店主は『二人は口論になり、中将がトビアスの左腕を撃って、トビアスが中将の頭を撃った』と証言している」


「……弾の線条痕、銃の指紋、手や袖の射撃残渣が逮捕根拠……そんなバカな」


 テオは膝から崩れ落ちそうになりながら捜査資料を閉じた。何が起こったら二人が口論なんてするんだ。傍らでイレブンが尋ねる。


「中将の遺体と証拠は、今どちらに」


「うちで分析中だ。といっても、被害者の遺体と遺留品、トビアスの服がメインで、現場にはまだ鑑識が入っていない」


「部長、トビアスはなんて言ってるんです?」


「容疑を否認している。私としても信じてやりたいし、少し気になることがあってな」


 部長はそう言って、部長室の窓を全てブラインドで覆った。扉も鍵をかけ、その上で声を潜める。


「地元警察にとっては、自分たちの縄張りにいきなりインテリがやってきて好き勝手してる状況らしくてな。苦情が来たよ。今回の殺人事件、警察に通報が入っていないそうだ」


「えっ? じゃあ、どうやって事件が発覚したんですか」


「分からん。警察の方に監査が急に来て、警察官を現場の見張りに立たせるだけ立たせて、今はそれだけなんだそうだ」


「……なのに、もう捜査令状が出て、こうしてオフィスにまで来てるってことですか?」


「きな臭いだろう?」


 部長は顔をしかめ、腕を組んだ。


「……事件が発生して、やっと二時間ってところだ。なのに動きが全部早すぎる。お前も大人しくした方がいいかもしれんぞ」


「でも黙って見てるなんて無理です。ハーディーの事件はまだ終わっていないし、エマを襲った奴もいる。その上、トビアスが誰かにはめられたんだとしたら、このまま見過ごすわけにはいかない」


「……お前はそういう奴だけどなぁ」


 部長は禿頭を撫で上げ、細く息をついた。


「ハーディーの事件、状況は?」


「現在指名手配中のクロエ・ギフェルが関与していると明らかになっています。事件の発端になったヤドリギオリの流出についてはまだ捜査中です。ただ、流出元が陸軍か捜査局である以上、捜査官がどこまで粘れるかは不明です」


 テオが正直に伝えると、部長は額を手で押さえ、しばらく考えてから言った。


「お前は引き続き、今抱えている事件の捜査に集中しろ。カナリー捜査官とヒルマイナ捜査官は、それぞれ捜査する人間がいる。証拠は嘘をつかないんだ。トビアスの無実だってすぐに明らかにされる」


「……分かりました」


 形だけの返事をして、テオは部長室から出た。背中で部長の溜息を聞きながら、イレブンを連れて刑事部のオフィスを離れる。捜査局にある来客用スペースを勝手に借りて、テオはやっとイレブンと向かい合った。


「……テオ。まず深呼吸をして、情報を整理しましょう」


「そう……そうだな。俺たちは今、三つの事件と対面している」


 テオは意識して呼吸を深めながら、ソファーに座り込んだ。イレブンも隣に腰かける。


「まず、ヤドリギオリの流出だ。流出元は陸軍か捜査局のいずれかになるが、誰が難民キャンプに持ち込んだかは不明。アマルガムとトム・ハーディーの記憶から探るしかない」


「クロエ・ギフェルがどこまで関与していたのか分かりませんね」


「ああ。だが、無関係とも言えないと思うんだ。わざわざ難民キャンプまで来た理由があるはずだからな」


 クロエは商人だ。あのキャンプにも商売で訪れたはず。だがハーディー以外にも客がいたのか、アマルガムを仕入れに来たのかは分からなかった。


 イレブンが「それで」と短く促す。


「それから、エマの襲撃。これがまったくの謎だ。現場を見てみないことには分からない」


「ロッキに任せることができたことは幸いでしたね」


「そうだな。……そして、中将殺害と、トビアスの殺人容疑だ」


 テオは改めて捜査資料をめくった。


「二人は同じテーブル席にいて、ソファーに中将が倒れ、近くの床でトビアスは座り込んでいた。トビアスは……酷く泥酔した状態だったとされる。二人は互いに一発ずつ撃ち合い、中将に反撃した形のトビアスが、中将の頭を撃ち抜いた」


「トビアスであれば可能なことですか」


「……至近距離なら、泥酔していても右手で撃てたかもしれない。でも普通に考えて、相手からいきなり撃たれたらまず逃げないか? トビアスは腰の左に銃のホルダーを着けるから、右手で取り出すにも時間がかかる。なのに、中将相手に一発しか撃たせず眉間を撃ち抜いた。テーブルに向かい合って座った時から銃を向け合ってなきゃ無理だ」


 そこまで振り返ると、イレブンが言った。


「まとめると、トム・ハーディーの事件は記憶映像の分析待ち、エマの事件はまだ捜査の初期段階で、現場を見に行かなければ状況が分からず、エマは治療中。とすれば、現時点で最も対処を急ぐべき人間はトビアスです」


「……誰かがあいつを犯人に仕立て上げたとしたら、あとは都合のいい証拠だけ残せばいいことになるからな」


「そして幸い、時間はまだあります」


 捜査資料を睨んでいた視界に、イレブンが顔を出す。思わずテオが顔を上げると、イレブンが両手でテオの頬を包んだ。ぐいっと顔を向けられた先では、イレブンがじっとテオを見つめていた。


 ひんやりとした手に引き寄せられる。普通なら呼気が重なるような距離だというのに、息遣いはテオ一人分しか存在しなかった。


「いいですか、テオ」


 凪いだ湖面のような瞳をテオに向けて、彼女は言った。


「トビアスの身の潔白を証明するために何でもやれ、と命じてください」


「お前、何言って────」


「宝の持ち腐れ。自覚はおありですね」


 テオは眉根を寄せた。昨夜、博士に対して発言したものだ。だがそれは、不慣れなテオがハウンドとしての能力を十分に発揮させてやれていないのではないかと懸念しているだけのことであって、決して濫用していいものではない。


 だがテオも、トビアスの潔白を証明したいと、強く望んでいる。


 故郷を離れてアカデミーに来てから、そして家族を失ってから、トビアスにも彼の両親にも世話になった。もしこのままトビアスが殺人の容疑者として裁判沙汰にまで至ったら、たとえそこで無実を勝ち取っても、彼らの心に影を落とすだろう。それはテオも避けたい。


 テオは頬に触れている冷たい手に自分の手を重ねた。陶器のような手に、じわりとテオの体温が移っていく。まばたきもなく、ひたむきに向けられる目をまっすぐ見つめ返して、テオは顔をしかめた。


「だめだ」


 イレブンは途端に目を据わらせて手から力を抜いた。テオの膝の上で、二人して手を握り合う形になる。


「……あなたという人は。今すぐ溜息のためだけに肺を形成してもいいほどです」


「俺個人の都合で命令していい内容じゃないだろ」


 呆れた時に大きく溜息をつくのはエマとトビアスのどっちだったか。テオはそんなことを考えながら、イレブンの手を握り直した。


「だが、相棒として頼みがある」


「なんなりと」


「犯行当時、店内には中将とトビアス、それからバーテンダーをやってる店主、この三人しかいなかったらしい。四人目がいた証拠を見つけてくれ。諜報部の方でも殺人事件が起こってるんだろ? 何か関連があるかもしれない」


「了解。現場に入る権限を取ってきます」


 イレブンはテオの手を握り返してから立ち上がった。てっきり現場に忍び込むものかと思っていたテオは目を丸くする。


「権限なんてどこから取ってくるんだ」


「ヴェンデル・ベルクールが捜査官の不始末を追う監査部として強行するのであれば、こちらは諜報部所属捜査官殺害の件を追う立場で臨むのみです。長官から捜査権限を得ます」


「……頼もしくて泣けてきたよ。俺はエマの家に行くから、何かあったら電話してくれ」


 ロッキに連絡して合流しようと携帯端末を取り出したテオは、イレブンの視線に気付いて動きを止めた。


「どうした」


「いえ……グラナテマの関与する事件を調べていた人間が全て攻撃されている中で別行動を取る危険性を計算していました」


「人手が足りないんだ、承知の上だ。それに、俺まで襲撃する気だったらとっくに行動に出てるだろ。問題ない」


「……分かりました。では、お気を付けて」


 イレブンはそう言って先に扉に手をかけた。テオは思わず呼び止める。


「諜報部に行くんだろ? 途中まで送るぞ」


「いえ、諜報部捜査官専用ルートがありますので、そちらを使います」


「そっか……お前も気を付けてな」


 互いに時間が惜しい身だ、テオはイレブンを見送ってロッキと連絡を取った。彼もちょうど刑事と合流するところだったようで、エマの家で落ち合うことに決める。


 テオは急いで駐車場に向かいながら歯噛みした。中将はなぜトビアスと会ったのだろう。通話やメールを避けなければならないような報告とは一体何だったのか。


(……諜報部でも殺人が起こっていたぐらいだ。中将は諜報部を頼れないような危機的状況にあった? それでも伝えなきゃいけないほどの情報を入手したのか?)


 中将はずっと証人保護プログラムによって偽りの素性を与えられた人間を洗い直し、グラナテマ出身者のリストを作っていた。グラナテマ出身者による暗殺未遂が起こったために、やむなく始まった調査だ。


 長年の敵対国グラナテマ。かの国に与する連中は、王族の膝元にまで迫っていた。諜報部も同じ状況に陥っているとしたら。


 中将たちは口封じのために殺され、トビアスはその濡れ衣を着せられ、エマも同じ理由で襲撃されたのだとしたら。


 寒気がする。テオは嫌な想像を振り切るようにして車に乗り込んだ。

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