幕間 トビアスの傷心料理教室
「今日はサバとトマトのチーズ焼きを作るよ!」
「なんで?」
テオは思わず口を挟んだ。調理台の前に立ち、エプロンを着けたトビアスが笑顔で宣言した。トビアスの隣には、きちんと髪をまとめて同じくエプロンを着けたイレブンが立っている。
ワインを開ける気満々で準備していたエマも一度手を止め、イレブンもトビアスを見上げたが、彼は笑顔のまま言った。
「今日は!! サバとトマトのチーズ焼きを!! 作るよ!!」
「……各自持ち寄りで宅飲みするって話じゃなかったか?」
「別に調理済みに限定していなかったからね!!」
恋人に去られた傷心のトビアスを慰めるための宅飲みだったが、彼のストレスはテオとエマの想像より大きかったらしい。
「イレブンは僕の助手です。調理中は『トビアス先生』と呼ぶように」
「承知しました、トビアス先生。こちらの調理済みの食品はどちらに」
「ありがとう、冷蔵庫に入れてくれたまえ。まずサバの鱗を取ります」
「トビアスせんせ? ワインは飲んでもいいかしら?」
「どんどん飲みなよ!」
「よかったわ、寛容な先生で」
タッパーに入ったものをイレブンが冷蔵庫に詰めていく。テオはエマからワインの注がれたグラスを受け取り、二尾の太ったサバが新聞紙に並ぶのを見つめた。トビアスとイレブンがそれぞれサバに包丁を入れるらしい。
「なんで切り身にしなかったんだ」
「自分で切りたい気分だったんだよ!」
トビアスが言い返している間にも手際よくサバの頭が落とされ、開いた腹から内臓が掻き出された。内臓は新聞紙に包んで捨てられ、まな板にサバが並ぶ。
「ほらイレブン、これが血合い。ここに切れ込みを入れてから洗うんだ」
「トビアス先生、それでは栄養が流れ出てしまいませんか」
「うーん、雑菌や汚れがあるからね。火を通すからざっくりでいいよ」
サバの表面と腹の中を洗い、ペーパータオルで拭ってからトビアスは笑顔で続けた。
「では三枚におろしていこう。包丁は寝かせて、引くように切っていくよ」
「見たことはあっても、自分でやるのは初めてです」
「君は器用だからきっと大丈夫さ。合計四枚の切り身を作るよ。一人一枚の計算だね」
イレブンは何か言おうとしていたが、トビアスの手元を見ながら魚に包丁を入れた。食事が不要のイレブンも数に入れて、トビアスはサバを二尾買ってきたのだろう。
(……指摘は野暮って、判断したんだろうな。あのイレブンが……)
成長よりも適応と言うべきか。立派になったことだ。親にも似た気持ちで頷いている間にサバの準備は終わり、イレブンがトマト缶を持ってくる。トビアスはフライパンにバターとチューブにんにくを垂らし、溶かして広げた。暇になったらしいエマが立ち上がる。
「私も何か手伝っていい?」
「ありがとう。じゃあ冷蔵庫にあるタッパーとトマトを出してきてくれ。トマトは洗って八つ切りにしてくれるかい? テオはこれ頼むよ」
はい、と手渡されたのは袋に入ったキュウリだった。
「……頼むって何を?」
「袋の上から叩いて砕いておいてくれ」
簡単に言ってくれるが、この家にちょうどいい道具なんてなかった。テオは仕方なく拳銃の銃身を握り、グリップの底でキュウリを袋叩きにする。
それを見ていたエマが呆れた顔をした。
「あなたもうちょっと他に何かないの?」
「お前だって似たようなものだろ外食頼りめ」
「失礼ね、アルミホイルの芯ぐらいならあるわよ」
「どっちもどっちだよ二人とも」
トビアスは苦笑しながら、サバの切り身に小麦粉をまぶしてフライパンに並べた。じゅうじゅうと焼ける音とともに香ばしい匂いが漂った。
「イレブン、この家ってどうしてトマト缶だけは豊富なんだい?」
「テオが何かと料理をトマト味にアレンジするので、買い置きを」
「あー、家庭の味といえばトマトになるのかな。彼の故郷はトマトの名産地だ」
そんな話をしながらイレブンがフライパンにトマト缶を投入し、トビアスがそこにオリーブオイルをかけてさらに熱を通していく。
「あとはチーズをかけて、こんがり焼けたら完成だ。エマ、トマトありがとう。テオもお疲れ様。だいぶ細かく砕いたね!」
「やかましい。で、何に使うんだ」
「マリネ風サラダだよ。タコとアボカドとキュウリとトマトで、食感も楽しくておすすめ」
トビアスはフライパンをイレブンに任せ、タッパーに入ったタコと野菜に酢とオリーブオイルをかけ、砂糖と塩コショウを振りかけて混ぜ合わせた。ずっとトビアスの手元を見ていたイレブンが呟く。
「……トビアス先生。ここまでの工程で、調味料の分量だけが不明です」
「僕いつも目分量だからなぁ……大雑把な量でよければ後で教えるよ」
料理はそろそろ終わりだ。エマも鞄に入れていた耐熱容器を持ってくる。ソーセージとほうれん草のオムレツだ。テオも冷凍のガーリックバタートーストを取り出す。トースターで焼くだけで調理が終わって便利なのだ。厚切りのパンなんて売っていないし。
「そういえば、イレブンの持ち寄りもあるの?」
エマが電子レンジでオムレツを温めながら尋ねた。加熱の終わったフライパンを運んでいたイレブンが顔を上げる。
「ドライイチジクのパウンドケーキです。三つ隣のレディと一緒に焼きました」
「おい、それいつの話だ?」
「パウンドケーキを作ったのは今朝です。レディと一緒にイチジクを干したのは先週です」
初耳の交友関係にテオは目を剥いたが、トビアスは納得した様子だった。
「イレブンが作ったなら美味しいだろうなぁ。決まった量を正確に量るのが大事だからね」
「トビアス先生の料理は目分量なのにですか」
「いや僕もさすがにお菓子作りの時はちゃんと量るよ? でないと美味しくならないから」
できあがった料理をテーブルに並べ、四人ともグラスを手にしたことを確認してから、テオは軽く咳払いしてグラスを掲げた。
「では、久々の休日を祝し、トビアスの新たな恋を願って、乾杯」
「かんぱーい!」
「複雑だなぁ本当に……」
トビアスは苦笑し、イレブンは見様見真似でグラスを重ねるだけだったが、やっと今日の目的である宅飲みを始めることができた。ここまでやけに長かった。
「そういう君たちはどうなのさ」
「俺は仕事でそれどころじゃない」
「恋愛なんて疲れて効率悪いんだもの。私もパス」
「…………じゃあイレブンは?!」
「論外。恋する兵器なんて廃棄対象です」
普段から料理をしているトビアスと、器用で舌の肥えたエマだ。二人の料理が美味しくないはずもなく、酒も進む。飛び交うのは他愛のない話ばかりだ。
(……休みの時ぐらい、こうでなくちゃな)
テオはアルコールによる心地よい浮遊感に眉間を緩め、ワインを舌の上で転がした。
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